「切るなら、 机でも、皮膚でもなく、見えないものを切らないといけないんだ」(本文より)
5月27日に発売され、話題となっている戸田真琴・著『そっちにいかないで』(太田出版・刊)。
毒親との生活。
OHTABOOKSTANDでは、全3章の冒頭部分を3日間にわたって公開しています。
第3回目(最終回)は、第三章より。
「戸田さんって、女って感じも男って感じも両方しないんですね」
と小谷さんが言った。アップルパイの熱で溶けたバニラアイスをフォークでなめらかに掬いながら、それが良いことでも悪いことでもないという声と表情で、薄いピンク色の唇を浅く動かしている。
「嫌な言葉に聞こえたら申し訳ないんですけど、すごくそれがいいなっていう意味で。ほら、この業界、すごく女の子っぽい人とか、男っぽい人はそれぞれいるし、それぞれのぽさの割合がどのくらいかな、っていつも思いながら話しているんですけど、バランスがどうとかじゃなくて、戸田さんはどっちでもべつにないっていう感じがして」
そう話している彼女も、男っぽい感じも女っぽい感じもあまりしない、さっぱりしたバニラアイスクリームのような人に見えた。このアダルト女優として一線で活躍し続けている人の中ではかなりめずらしい雰囲気をまとっている彼女と、仕事で共演したのはわずか二、三度のことだった。
AVの撮影で共演すると、裸を見せ合う以上にこの仕事における現場でのシンプルな身体的過酷さや、売り物であるがゆえ丁重に扱い合わなければならない肉体に対する気遣いから、言葉でのやり取り以上に心の中に互いに対する慈しみのような念を抱くことは少なくない。
わたしたちのような単体女優の場合、たいてい、ひとつの現場には自分ひとりしか女優がおらず、現場スタッフたちからどんなにやさしく扱ってもらっても、どんなに良くしてもらっても、どんなくだらない冗談で笑い合って同じ種類の宅配弁当を食べても、ここで、今日、服を着た人たちのなかで裸になるのはわたしと共演男優たちだけで、そのなかでもメインの被写体としてカメラからずっと、あらゆる角度からフォーカスを合わされ続けているのはただひとり自分だけなのだ、という状況の中を丸一日生きるのだから、どうしたって孤独だった。
普通に生きていると、自分以外のすべての女の子たちが、自分よりかはずっとましな人生を生きているように思えることがある。それはAV女優という同業の女の子たちに対してであっても例に漏れずで、なんだかみんな、きれいで、性格もよく、周りの人にも好かれていて、お金もあって、それを使って自分を磨いたり高レベルな女の子に見えるように意図したブランド品を揃えたりすることに糸目がなく、とても光って見えるときがあった。
ツイッターに貼られた自撮り写真にきらめくルイ・ヴィトンのネックレス。芸能人御用達ラウンジの薄暗い明かりとカクテルの写真が貼られるインスタグラムの親しい友達ストーリーズ。ペットボトルさえ入らないイヴ・サンローランのミニバッグ。ラジオで共演したお笑い芸人から繫がってメンズアイドルと同棲している女の子の噂。一年前にはチャームポイントなんです、と笑っていた大きなほくろを摘出する過程を載せたYoutube動画、PRのハッシュタグ。◯◯ちゃんみたいになりたくて同じクリニックで整形しました! という無邪気なコメント。
あの職業にだけはなったらだめだよ、という世間の視線を浴びながら、同時に女の子たちの憧れのヒロインへと変貌していく彼女たち。あの、目に入ったら結膜炎になりそうな大粒ラメのアイシャドウが、どうしても真似できなくて、わたしばっかりが生きることの才能がないみたいに思う。
皆、なまなましく、傷ついている。一日という限られた時間の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれた香盤表を見れば、こんな量撮りきれないよ、とあっけらかんとうなだれる。ちょっと制作に抗議しようかな、とエナジードリンクをストローで吸いながらバスローブ姿で歩いていく人。もっと女の子たちくっついてー! 百合要素もほしいんだから、という監督の指示に、カメラに入らない角度でちいさく「ごめんね」のジェスチャーをしながらやさしく体重をかける人。時計の針がてっぺんを過ぎて、ようやく撮影が終わったあとに、「さっき、わたしの汗とかきっとついたよね、ごめんね、わたし汗っかきで。まこちゃん嫌じゃないかな、ってずっと気になって。シャワー先浴びてきていいよ」と、申し訳なさそうに言う人。こちらこそ、わたしみたいな人間の汗とか皮脂とか、そういうものが触れてしまって、きれいなあなたを汚してしまったように思っていたのに、まるで同じことを思われていたなんて考えもしなかった。
そんな調子だから、なんだか、拍子抜けするのだ。
性を仕事にしている人に対する、世間から刺される「きたない職業」という視線は、ほんとうにまぬけで現実味のないものなのだとよくわかる。こんなに清潔で健気な感じしかしない女の人たちを、いったいほかのどの場所で見られるだろうか。そのボディソープの香りの神々の仲間に、今日は自分もいるのだということが、いつもうれしかった。
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この続きは、現在発売中の戸田真琴・著『そっちにいかないで』(太田出版・刊)でお読みいただけます。
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Credit: 戸田真琴