※本稿は、青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
■「あんぱん」の八木はサンリオ辻信太郎会長か?
その一方で、便利屋稼業はあいかわらず好調だった。なんでそうなる? なりたい自分と、世間から求められる自分が、どうしてこんなにかけ離れてしまうのか。めざす夢の方向に吹く風を、うまく捕まえることができない。見当違いの方角に吹き流されて、迷走をつづけている。
これはまだ『ボオ氏』の執筆に没頭していた頃のこと。山梨シルクセンター(現在のサンリオ)の辻信太郎社長が、
「やなせさん、詩をまとめて、詩集として出版しましょうよ」
いきなり、こんなことを言ってきた。昔から詩作が趣味だったやなせは、担当するラジオ番組で自作の詩を披露していた。辻社長も詩が好きで、とくに抒情詩に傾倒していたというからやなせとは趣味があう。放送もよく聴いていたようだ。
しかし、当時の山梨シルクセンターは従業員6名の零細企業で、菓子容器などのキャラクター商品開発が本業。
「ああ、いいですよ」
と、適当にあいづちを打ったのだが、彼は本気だった。やなせの了解を取ると、辻社長はすぐ社内に出版部を立ち上げて、出版に向けて動きだす。
■手塚治虫からアニメ映画の仕事を依頼される
昭和41年(1966)9月、やなせの処女詩集『愛する歌』が刊行された。初版はわずか3000部だったが、反響は意外に大きくすぐに重版が決定する。最終的には続編と合わせて10万部を売り上げ、詩集としては異例の大ヒットになった。やなせは詩人としても脚光を浴びるようになる。
漫画家として再起することをめざし、寝る時間を削りながら『ボオ氏』を描いていた頃だけに、
「もうやめてくれよ。漫画に集中させてくれ」
詩集が売れたのは嬉しいけれど、その心境は複雑だった。
この処女詩集が発行された翌年には、手塚治虫からも映画アニメ『千夜一夜物語』でキャラクター・デザインをやってほしいと依頼された。彼が設立した虫プロダクションが全力をあげて、200人近いスタッフが関わる大作だという。
手塚とは漫画集団の会合や忘年会で何度か顔をあわせ、テレビ番組で一緒に仕事をしたこともある。しかし、さほど親しい間柄とはいえない。漫画界の巨匠と便利屋のやなせでは接点がなく、会えば挨拶をする程度の薄いつきあいだった。そういった人が経験のない仕事を依頼してくる。
■エロチックなシーンもあった『千夜一夜物語』
もう慣れっこで不思議に思うこともなくなっていたから、
「いいですよ」
これも躊躇することなく引き受けた。アニメ映画の仕事は初めてだが、まあ、いつもと同じでなんとかなるだろう、と。便利屋稼業がすっかり板についている。
手塚を慕う若い漫画家は多いのだが、漫画界には彼を批判する敵も多かった。漫画の仕事から離れているやなせは、そういったところからも距離を置いている。漫画のことに詳しい人物でありながら、漫画界の面倒事を持ち込まれる心配もなさそうだ。やりやすい人物と見て取ったのだろう。
また、手塚が設立した虫プロダクションは『鉄腕アトム』など子ども向け作品を中心に作ってきたアニメ制作会社だった。
■昭和44年で興行収入2億9000万円のヒット
やなせは、そんな手塚の期待にみごとに応(こた)える。彼の手が加わったキャラクターは、これまでの虫プロの作品にはない独特の雰囲気を醸していた。それが作品のテーマにもよく馴染んで試写会の評判は上々。昭和44年(1969)6月に劇場公開されると、同年の邦画配給収入第5位の2億9000万円を記録する大ヒット作品になった。
やなせもこの仕事を通じて、アニメ映画の制作に魅力を感じるようになっている。
キャラクター・デザインの仕事は脚本を読んで物語をよく理解し、その内容やテーマに合うように登場人物たちの顔や髪型、服装を考えてキャラクターを作るのだが、それが面白い。
小説を読んでいる時も、文章を映像に置き換えてあれこれと想像をめぐらせる。それとまったく同じことだ。大の読書好きなだけに、その感覚は鍛えられている。
「漫画家よりもキャラクター・デザインの仕事のほうが、ぼくに向いているかも」
などと、思ったりもする。『ボオ氏』の連載が終了してからは、漫画家としてはまた失業状態。
50歳にもなったというのに、いまだ鳴かず飛ばずではもう見込みがなさそうだ。漫画家の仕事は諦あきらめの境地になりつつある。
■手塚から短編の監督を任され、アニメに熱中
そんな揺れる心を見透かしたように、
「映画のヒットのお礼です。短編アニメーションを1本作ってください。何でもいいです、やなせさんの自由にやってください」
手塚がこんなことを言いだす。映画のヒットに気をよくして、大盤振る舞いのご褒美をくれたのだった。
映画監督としてデビューすることになった。映画好きの血が騒ぎ好奇心を搔き立てられて、電話を受けた直後からやる気満々。アニメ映画の仕事を本職にするのもありだな、と、この時は少し本気で考えていた。
「さて、どんな映画を撮ろうか」
頭に浮かんできたのが、2年前に作ったラジオドラマ『やさしいライオン』だった。
■『やさしいライオン』をアニメーションに
ラジオドラマの台本をそのまま使って絵コンテを作り、作品のキャラクターを描いてみる。と、映画の主人公・ブルブルの顔は、昔、柳瀬医院の入口に置かれていたライオンの石像に似ているような……。
このライオンの石像は医院の向かいの石材店で造られたのだが、出来栄えに不満な依頼主が買い取りを拒否してきた。それで困り果てていた石材店の親方を見かねて、伯父が譲り受けたという。行き場をなくして伯父に引き取られた境遇は、やなせもライオン像と同じだ。アニメに登場するブルブルの表情は優しそうだが、頼りなさそうで寂しそうでもある。少年時代の自身に似せて描いたのだろうか?
『やさしいライオン』の制作スタッフは、虫プロから派遣されたアニメーターが5人だけ。何百人ものスタッフが参加した『千夜一夜物語』とは比較にならない小世帯だった。監督のやなせもアニメーターと一緒になってセル画を描き、撮影や音入れなど雑多な仕事を何役もこなす。慣れないことばかりで色々と苦労はしたけど、映画作りは面白くやり甲斐が感じられた。
■子供向けの作品では高く評価される
手塚の好意に甘えて、好き勝手にやらせてもらった。作品がどのように評価されようが、そんなことはどうでもいい。とにかく、自分が描きたいものを描いて、やりたいと思った手法もすべて取り入れた。
やりたかったことを存分にやり尽くし、得も言われぬ達成感を味わうことができた。
それだけで十分に満足していたのだが、この映画が第24回毎日映画コンクールで大藤信郎賞を受賞してしまう。
ちなみに近年では、『君たちはどう生きるか』『この世界の片隅に』などの話題作が受賞している。いずれも評価の高い作品だ。
『やさしいライオン』は幼児向けの絵本にもなった。売れ行き好調で次回作の依頼もきている。子ども向け漫画を描くのを嫌がっていた自分が、まさか、もっと幼い幼児向けの絵本を描くことになるなんて、まったく想像もしていなかった。人生は本当に何が起こるか分からない。
経歴に絵本作家という新たな職種がまた増えた。しかし、この仕事は便利屋の“困った時のやなせさん”ではない。誰でもいいというわけではなく、版元は絵本作家・やなせたかしの仕事に期待しているのだ。
やなせもまた、いつもの便利屋のようなアルバイト感覚ではなかった。コスパなど考えず、時間を忘れて仕事に没頭した。この絵が子どもたちを笑顔にする。そう思うと描くのがいっそう楽しくなり、他のことはすべて忘れて熱中してしまう。
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青山 誠(あおやま・まこと)
作家
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。
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(作家 青山 誠)