■名古屋城の復元天守工事がストップしている理由
2024年、名古屋城の入場者数は223万4976人で、世界デザイン博が開かれた平成元年(1989)の次に多い数字を記録した。だが、現在、名古屋城では天守に入ることができない。
観光の目玉は平成21年(2009)から復元工事が行われ、平成30年(2018)から公開されている本丸御殿で、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守は、老朽化による耐震性不足などを理由に、平成30年(2018)5月から閉館されている。
もっとも、予定通りに進めば、河村たかし前名古屋市長が打ち上げた、木造による史実に忠実な復元が、令和4年(2022)には終了しているはずだったが、事業の進捗状況ははかばかしくない。停滞した原因には、文化財としての保全が求められる石垣をどうあつかうか、という問題も絡んでいたが、最大の障害はバリアフリー対策をめぐる問題だった。
とくに2023年6月、市が主催した「名古屋城のバリアフリーに対する市民討論会」を機に、事業はさらに遅れることになった。車いすの男性がエレベーターを設置すべきだと主張したのに対し、とある参加者から問題となった発言が飛び出した。「(車いすの人は)平等とわがままを一緒にするな。どこまで図々しいの、という話。がまんせいよ、という話なんですよ」。
これを受けて市は、整備基本計画を文化庁に提出するのを延期し、「差別発言」の問題に最優先で取り組むことになった。
以後、復元事業はストップしてしまっていたが、ようやくここにきて少し動きが見えてきた。
■「復元」の意味を理解しているのか
8月8日、有識者や障害者福祉団体関係者らでつくる名古屋市障害者施策推進協議会の場で、名古屋城天守のバリアフリーをめぐる意見が出された。
すでに今年5月の時点で名古屋市は、差別発言を前提に事業を検証し、今後の方針を示す「総括」をまとめていた。そこでは、障害者団体と対話する姿勢や人権問題への配慮に欠けていた、という認識が示されていた。
この「総括」が前提だったからだろう、前述の協議会では、障害当事者が事業計画段階から参画することや、天守最上階までアクセスできるエレベーターの設置を求める意見などが出された。広沢一郎市長もここに出席して謝罪している。
河村前市長は小型昇降機の設置を打ち出しつつ、付けるのは2階までとしていたが、協議会では「そのことが障害者差別を助長した」という意見も出された。障害者が5階まで上れない再建は許されない、という空気は色濃い。実際、広沢市長も市議会で「できるかぎり上層階まで設置することにチャレンジする」と発言している。
いずれにせよ、こうして復元事業は再開しようとしている。現在、市は障害者団体のほか、高齢者団体などにも説明を重ねつつ、5階までの昇降機設置が構造的に可能かどうかを検証し、木造天守の史実性とバリアフリーの両立を考慮したうえで最終決定する、としている。
だが、このバリアフリー議論において、「復元とはなにか」という一番肝心な話が置き去りになっていると感じるのは、私だけだろうか。
■史上最大規模でもっとも豪華だった天守
「復元」の意味を広辞苑で引くと「もと通りにすること」とある。字義のとおり、名古屋城天守を木造復元する意味は、まさに「もと通りにする」ことにある。わざわざ「もと通りにする」のは、そうするだけの価値があるからである。
考えておきたいのは、昭和20年(1945)5月14日、B29爆撃機が落とした焼夷弾によって焼失した名古屋城天守は、数ある天守建築のなかでも特別に価値が高かった、ということだ。最初にその歴史的な意味を説明してみたい。
名古屋城は当時の国家事業として築かれた。徳川家康が九男義直の居城として築城を命じ、慶長15年(1610)に工事がはじまり、同17年(1612)に完成したのだが、工事は西国の大大名20家に請け負わされ、延べ20万人の人夫が動員された。当時、大坂にはまだ豊臣秀頼が健在で、豊臣家を牽制する意味もあり、名古屋築城にはなおさら力が入った。
で、天守である。木造部分の高さは36.1メートルで、天守台の床面積も広く、豊臣秀吉の大坂城より一回り大きかった。家康が建てた江戸城天守に次ぐ高さで、その後、高さで上回ったのは、三代将軍家光が建てた大坂城の再建天守と江戸城の天守しかなく、この2つが17世紀半ばに相次いで焼失後は、ずっと日本一の高さを誇ってきた。また、4425平方メートルという延べ床面積は史上最大で、一度も抜かれていない。
その壁は厚さが約30センチあり、欅や樫の分厚い横板が埋め込まれ、史上最高の防弾性能を誇った。柱などの木材も高価で耐久性が高い木曽檜がほとんどで、建築資材の面からも、史上もっとも豪華な天守だった。家康という圧倒的な力を誇った天下人の天守だったからである。
■「もと通り」に復元できる唯一の存在
天守とは権力者の威信を示すための建物だった。その意味では、安土城や大坂城、江戸城を除けば、名古屋城天守ほど天守らしい天守はなかった。絶対権力者の威信の体現である以上、当時の最新にして最高の建築技術が導入されており、それは日本で磨き上げられた木造建築技術の集成でもあった。
それほど特別な存在であると同時に、旧態を細部の細部まで、まさに「もと通り」に復元できる唯一の存在なのである。
昭和5年(1930)、日本の城郭建築として初めて国宝に指定されると、名古屋市土木部建築家は文部省の指導のもと、名古屋城の旧国宝建造物24棟を細部に至るまで計測した。その図面をまとめる作業は天守焼失後の昭和27年(1952)まで続けられ、282枚の清書図と309枚の拓本が完成した。昭和15年(1940)からは24棟の写真撮影も行われ、それらは733枚のガラス乾板に収められた。
これほど細部まで建造物の記録が保管されている城は、日本にほかにない。また、各建造物の間取りから柱の位置までが、江戸時代に編纂された『金城恩古禄』に詳細に記されている。
基礎の構造をはじめすべて「もと通り」の復元は不可能で、精密な復元など幻想だ、という声もある。だが、それを言い出せば、国宝で世界遺産の姫路城天守だって、旧来の礎石は取り外され、コンクリートの基礎の上に載っている。過去とまったく同じかといえば、現存天守だってすでに同じではない。
見えないところは最新の技術で補強しつつ、可能なかぎり旧態を維持する。現存天守はそうして守られているが、名古屋城天守で実践されようとされている復元方法も、基本的に同じ発想にもとづいている。
■エレベーターがないのは障害者排除なのか
もうひとつ、城とは原則的に「バリア」だという事実を認識しておきたい。すなわち、敵を寄せつけず、万一侵入されても攻撃して追い払うための施設であり、このため天下人の天守であっても、通路は複雑に折り曲げられ、階段は狭く傾斜が急で、健常者でも登りにくくしつらえてある。「バリアフリー」と相容れないことが史実なのである。
①復元する価値がある特別な歴史的建造物であり、②きわめて精密に復元できるだけの資料および史料が異例にそろっている。③だが、復元する対象は、本来がバリアフリーとは正反対の発想でつくられている――。この3つの事実をしっかり確認し、それを念頭に復元の意義を説明したうえで、バリアフリーとの両立を考えるべきではないだろうか。
現在の鉄筋コンクリート造の天守にはエレベーターがあるのに、木造になるとなくなるのは障害者排除だ、という声があるが、それは違う。この特別に価値がある天守を復元、すなわち「もとの通り」にしようとすればするほど、バリアフリーと両立しづらい、というは厳然たる事実であり、差別とはまったく次元が異なる。
たとえば、コンクリート製の市民会館を壊し、もともとそこにあった木造の天守を復元するとき、市民会館にあったエレベーターが天守にないのは障害者排除だ、という議論にならはないのと同じである。
■全員を2階までしか入れないのも手
バリアフリーは時代の要請であるし、障害者差別もあってはならない。だが、一方で、数百億円を投じる復元事業の価値が、構造等の無理な変更によって失われてはならない。繰り返しになるが、なぜ復元されるのか。なぜ復元されるべきなのか。その点をあらためて明確にする必要がある。
至高の歴史的価値を有する伝統的木造建築の最高到達点を、精密に「もとの通りに」再現できるから復元するのであって、最上階まであがれるかどうかは二の次、三の次のはずである。そもそも江戸時代は、尾張藩主にしても家督を継いだときに天守に登るくらいだった。最上階に登れるか否かがこれほど重視されること自体に、私は強い違和感を覚える。
もちろん、オリジナルを損なわないことを前提に、技術的に可能な範囲でバリアフリーを実現すべく努力してほしい。
そのうえで、バリアフリーのあり方について議論を継続し、そのための技術の検討や開発も進め、なんらかの解決が得られた時点で上階を開放すればいい。
現在の議論においては、天守の木造復元の目的は、最上階に登る云々とは別の次元にある、という大前提が共有されていない。バリアフリー化の議論の際、「なぜ復元するのか」という原点が置き去りにされていることこそが異常である。もっとも大事なのは、復元のもともとの目的を広く共有することではないだろうか。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)