※本稿は、チェルシー・コナボイ『奇跡の母親脳』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■「母性」は女性特有の本能ではない
ジェイ・S・ローゼンブラットは動物心理学者T・C・シュナイラーの影響を受けており、母性が生得的なもので本能だとするオーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツの考えを否定した。
シュナイラーは、個体の発達は人生の初期段階であっても、遺伝子で決定される身体的成熟だけでなく、個体の広い意味での「全体的な経験」にも左右されると考えていた。
発達とは人生のある段階が次の段階に影響を与えながら段階的に進行するもので、遺伝子や環境要因を含むあらゆる種類の刺激の影響が「切り離せない形で融合される」と述べた。
今日では基本的なことと見なされているが、環境の複雑さが遺伝子の発現に影響をおよぼし、特定の遺伝子セット(遺伝子型)は状況に応じて様々な特性と行動(表現型)をもたらすのだとした。
こうした理論が成り立つためには、生後数日の哺乳類でも環境に意味のある反応を示すという事実がなければならない。ローゼンブラットとシュナイラーらは子猫の行動を研究し、まず通常の効率的な授乳と離乳のパターンを記録した。
次に一部の子猫をフワフワの給餌器という人工的な母親がいるケージに一定期間隔離した。生後1週目で隔離された子猫は給餌器での授乳に簡単に適応したが、仲間のもとに戻されると、母猫の身体に沿って自分の向きを変えて乳首を見つけるのに苦労した。
■子猫の行動研究からわかった母と子の関係
もう少し大きくなってから隔離された子猫は母親を易々と特定できたが、母猫の顔など全身に鼻をすりつけて乳首を探した。およそ5週間で隔離された子猫は、戻ってきた時の適応にさらに苦労した。
隔離の間、母猫はより活動的に、他の子猫はより積極的になっていたから戻ってきた子猫は苦労したのだ。群れの習慣が変わったのにそこにいなかった。ゴロゴロと喉を鳴らす生身の母猫の毛の模様や匂い、微妙なサインに導かれて乳を飲む方法を学ぶ機会を逸し、きょうだいと一緒に段階的に、典型的な発達を遂げることができなかったのだ。
子猫の研究はローゼンブラットの母親観にも影響を与えた。母親を、地面にうがたれ、赤ちゃんがその周りをグルグル回りながら成長していく杭ではなく、赤ちゃんと二人三脚で成長し、変化していく一個の生命体として見るようになったのだ。
1959年、彼はダニエル・レーマンが設立したラトガース大学の動物行動研究所に加わった。その数年前、ローレンツが米国で人気を博していたちょうど同じ頃、レーマンはローレンツが人間の行動について導き出した結論の多くは「明らかに底が浅い」とする鋭い分析を発表している。
ローゼンブラットとレーマンはラットを使った一連の研究で、ローレンツが断定的に仮定した理論とは全く異なる母親の行動の理論を体系的に導きだした。
■母性行動を維持するには「子供の存在が必要」
通常、ラットは妊娠するまで子ラットに嫌悪感を示す。しかし、ひとたび出産すると態度は急変する。あらゆる種で見られる典型的な行動を示すようになるのだ。
巣を作り、子ラットを舐め、身体をかがめて授乳する。
しかし、誕生直後に子ラットを巣から取り除くと、母親のこうした行動は急速に消え去ってしまうことをローゼンブラットとレーマンは発見した。里子の子ラットをあてがって世話をさせようとしても、ほとんどの場合、世話ができなかった。
ホルモンと妊娠・出産による生理学的変化が母性行動の開始を促すが、行動を維持するためには「子供の存在が必要」だと彼らは1963年に出版した重要な論文で述べている。
出産は変化を活性化させるが、母親として成長するには子ラットとの相互作用が必要で、それには時間がかかるのだ。
彼らはさらに、母親と子ラットの行動は固定されたものではなく、柔軟であることを様々な方法で明らかにしていった。母子の発達は互いのニーズと行動に応答して変化する。出産後の特定の時期に子ラットを巣から取り除いたり、年齢が違う里子と交換すると母親の行動は変化した。
■赤ちゃんと一緒に過ごしたオスラットの変化
逆に、年長の子ラットを新しい母親の管理下に置くと、養母のラットは子ラットに通常より注意を払い、子ラットの発育は遅くなった。母ラットは硬い鍵穴(※)ではなく、成長し変化する存在だったのだ。
(※)ローレンツは生得的な行動とその引き金となる刺激を説明するため、鍵と鍵穴の比喩を用いた
1967年にローゼンブラットは、母性についての一般的な考えをさらに揺るがす研究結果を発表した。
彼と動物行動研究所の同僚らは全くの偶然から、未交配のメスラットが十分に子供の群れにさらされると、子供の世話を始めることを発見したのだ。
実験では、赤ちゃんラットと10日以上一緒に過ごすと、ほとんどの未交配のメスラットが巣を作り始め、実際にはお乳が出ないのに、授乳するように身をかがめた。実験室の外では通常は子供の世話をしないオスラットも、赤ちゃんと一緒に過ごすと、メスの未交配ラットと同じように子供を舐めたり巣へ戻したり、身をかがめて授乳しようとした。
確かに母ラットが出産時に経験するホルモンは母性行動を急速に促進するようだ。しかし、そうしたホルモンがなくても、また性別に関係なく、同じような行動をとるようになる。
「母性行動は、従って、ラットの基本的な特性である」とローゼンブラットは結論づけた。幼い者を世話して保護しようとする強い衝動は、メスラットの特性ではなく、種全体の基本的な特性だと発見したのである。
■慈愛精神はすべての哺乳類に共通している
もちろん、人間と実験用ラットの親は同じではない。哺乳類として共通の脳の構造と構成要素は有しているが、多くの点で異なっている。人間の大脳皮質には複雑なシワが寄っているが、ラットのそれは滑らかだ。
齧歯類は嗅覚に大きく依存していて、嗅球も巨大だが、人間の嗅球は比較的小さい。実験用ラットの母性行動は予測可能なパターンで起こり、特に顕著な「舐める」という行為は出産後およそ4週間で急激に消失する。
一方、人間の母性行動は数年から数十年にわたる。年齢が異なる複数の子供を同時に育て、子供たちのニーズも大きく異なれば、数え切れないほどの社会的、政治的、経済的要因に影響され、家庭や世代でもばらつきが顕著だ。ローゼンブラットが実験用ラットで発見したことと人間の行動に直接的な相関関係を見出そうとすれば、ローレンツの愚行を繰り返すことになる。
しかし、ローゼンブラットらが1960年代初頭に初めて提唱し、積み重ねていった基本的な考え方は、何十年にもわたる研究を通じ、種を超えて全哺乳類において真実であると証明されている。
ローゼンブラットはその画期的な研究と指導者としての手腕から、現在では「母性学研究の父」とみなされている。過去30年間に発表された人間の親の脳に関する主要な論文のほとんどすべてに彼の教え子やそのまた教え子が名を連ねる。
■環境によって「母性」は誰にでも生まれる
それらの論文は、すべての哺乳類の母親が妊娠、出産、授乳期に非常によく似た生理学的変化を経験し、変化を促すホルモンが、独自の遺伝子構造と主体性を備えた赤ちゃんに誰よりも注意を払う母親となる脳を準備するという考えを裏づけている。
ローゼンブラットの足跡をたどり、研究者たちは今日、「母性行動」が人間の基本的な特性で、母親特有のものではないことを明らかにしている。
同性カップルの(非生物学的な父親を含む)父親を対象とした研究では、子供の世話に定期的に携わる男性の脳は、妊娠中の母親と驚くほど似た変化をすることがわかっている。
変化は父親が自身の感情を処理し、他人のサインを読みとり、反応する一連の脳の領域で最も明確に起きる。同様の脳の変化は他の非生物学的親、あるいは妊娠したことのない親、負担の大きな介護に従事する人にも起こるのではないかと考えられている。
確かに、妊娠・出産しない親の状況は母親とは異なるし、妊娠も授乳もせずホルモンに大きな変化が起こる可能性もゼロではないが、赤ちゃんの世話という環境に晒されることが普遍的なケアの回路を生み出すと考えられている。誰を家族と認識するのかに深く関わる話で、脳は自分に与えられる注意と世話で親という存在を定義するからだ。
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チェルシー・コナボイ
ジャーナリスト
1982年生まれ。ジャーナリスト。米国ロードアイランド州出身。公衆衛生及び健康科学を専門とし、ボストン・グローブ紙在籍時にはチームの一員としてピューリッツァー賞を受賞している。2025年7月現在は米国の一流紙誌に寄稿するなど活躍中。メイン州在住、二人の息子の母。Photo by:Yoon S. Byun
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(ジャーナリスト チェルシー・コナボイ)