中国春秋時代、放蕩にふけり「鳴かず飛ばず」と見られた楚の荘王は、突如覚醒し、腐敗した政治を一掃、覇者へと駆け上がった。大人がハマる歴史系YouTuberセピアさんが、荘王の沈黙の真意と逆襲の軌跡を解説する――。

※本稿は、セピア『ゾクゾクするほど面白い 始皇帝と春秋戦国時代』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■「鳴かず飛ばず」の荘王の真意
中国の春秋時代(前770年~前403年)、中国の南方の国々の中でひときわ有力だった国が、長江の中流域を本拠地とする「楚」です。
しかし6代目の国王の荘王は、酒と女に溺れて堕落した日々を送るようになり、政治や外交のことなど全く顧みなくなってしまいました。さらに荘王は
「俺に諫言(かんげん)する奴は全員死刑! これは楚の法である!」
と言い放ち、荘王の生活態度に家臣が口出しするのを厳禁としました。
そんな荘王の様子を見て、もはや国のことなどどうなっても構わないと、家臣の多くは汚職に走って私腹を肥やし始めます。国の行く末について真面目に考えて発言したら死刑になるだなんて、割に合わないにも程がある。まったく、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ……
それから3年が経った頃、荘王のもとに伍挙(ごきょ)という家臣がやって来ました。荘王は今日も昼から酒を飲み、左手に鄭の女を抱き、右手に越の女を抱いてすっかりご満悦。
伍挙は畏まって荘王に上申します。
「本日は1つ謎かけをしてみたいと思います。阜(おか)に鳥がいます。しかしこの鳥は3年もの間、蜚(と)ばず鳴かずの状態を続けています。
さて、この鳥は何という名前でしょうか?」
意を得た荘王はゆっくりと答えます。
「その鳥はたとえ3年動かずとも、ひとたび蜚べば天を衝き、ひとたび鳴けば人を驚かすだろう。もうよい、お前は下がっていろ。」
伍挙が立ち去ったのを見届け、ニヤリとする荘王。
■お前のような者が現れるのを待っていた
しかしなおも荘王の放蕩三昧は変わらず。さらにしばらくして、今度は蘇従(そしょう)という家臣が並々ならぬ覚悟でやって来ました。遠回しな謎かけでは埒が明かぬと、蘇従は単刀直入に言います。
「殿下、いい加減にしてください! このままでは国がダメになってしまいます!」
「……お前、いい度胸をしているな。俺に諫言する奴は死刑だということは知っているな?」
「もちろん存じ上げております。しかし、私の命一つで、殿下の目を覚ますことができるのならば本望です!」
真剣な眼差しで訴えかける蘇従。
「……」
しばしの沈黙の後、荘王は表情を和らげてゆっくりと語ります。
「よくぞ言ってくれた! 蘇従、お前のような者が現れるのを待っていたぞ! よし、俺もそろそろ蜚ぶとするか!」
本来の精力的な姿を見せ始めた荘王は、これまで汚職を繰り返した悪い家臣数百人を処刑し、代わりに優秀だと睨んだ者数百人を抜擢しました。そして命懸けで自分に諫言してくれた伍挙と蘇従を政治の中枢に据え、その敏腕を存分に振るわせました。

この伍挙の謎かけに始まる一連のやりとりが【鳴かず飛ばず】という慣用句の由来となりました。皆さんもお気づきかと思いますが、この言葉はもともと「じっと機会を窺う状態」のことを指す言葉でした。しかし今では派生して「たいした活躍もできず不遇の時間を過ごしている状態」のことを指して使われることが多い言葉です。
■鼎の軽重を問うた荘王
荘王は東西方面の中堅国や小国を矢継ぎ早に攻撃・併合し、さらに北辺に迫っていた異民族を討ちます。そしてそのまま軍隊を率いて周王朝の首都・洛邑(らくゆう)へと向かい、盛大な軍事パレードを行って周王朝を威圧します。
しばらくすると周王朝を代表する家臣が1人、荘王の前に現れました。荘王はここぞとばかりに問います。
「聞くところによると、周の王室には九鼎(きゅうてい)というものがあるそうだな。それは一体どのくらいの大きさで、どのくらいの重さなんだい?」
荘王の言う「九鼎」とは、夏王朝から殷王朝、周王朝へと受け継がれてきたとされる伝説の祭器で、天子(天下を治める者)の象徴としての意味を持つものです。この九鼎を持つ者が天子たる資格を有する者――当時の中原世界ではそのような共通認識がありました。それゆえ九鼎というのはその名を口にするだけでも無礼千万なのですが、さらにその大きさや重さはいかほどかと問いつめる始末。
周王朝の人たちからすれば「勝手に王を名乗る南の蛮族め!」と憤るところですが、ここで出てきた代表の家臣は冷静でした。

■いまだ天命は革まらず
「周王が王であるのは、王に徳があるからでございます。王に徳があれば鼎は小さくとも必ず重く、その場を動くことはありません。今こうして我らが都・洛邑に鼎が依然として存在するということは、まだ天命は革まっていないということです。」
その毅然とした態度に荘王は恥じ入り、軍隊を引かせて楚へ帰りました。

(注)これは『史記』の記述によりますが、司馬遷の儒教的な観念を重んじる姿勢が色濃く出ている箇所です。ここまで怖いものなしのオラオラ系だった荘王が、そんな屁理屈のようなセリフを1つ聞いただけで素直に引き下がるというのはちょっとおかしいですね。
【鼎(かなえ)の軽重を問う】略して【問鼎】とは、荘王が洛邑に出向いた時のこの一幕に由来する、既存の権威や権力の正統性を疑ってその地位を奪おうと試みることを指す故事成語です。
■「米の民」と「雑穀の民」の決戦
周王朝の鼎を奪うことはできませんでしたが、荘王はなおも対外戦争を続け、中堅国の陳と鄭を属国としました。その鄭は覇権国の晋に救援要請を出しており、これに応えてやって来た晋の軍隊との対決が待ったなしの状況となります。
鄭の領内にある●という地に集結して睨み合う楚軍と晋軍(前597年、●の戦い)。
※「必」に「邑」の変形であるおおざと
しばらく一進一退の状況が続き、打開策を見出せない晋は、和睦するフリをして使者と称した刺客を荘王に放ちましたが、返り討ちにあってしまいました。これをきっかけに楚軍はそのまま一斉攻撃を仕掛け、覇権国と見られていた晋の軍隊を圧倒していきます。
敗戦を悟った晋軍の総大将・荀林父(じゅんりんぽ)は撤退を決めましたが、退却行動を急がせるため、兵士たちに向かって
「一番早く黄河を渡って退却した者に褒美を与える!」
と告げてしまいました。

すると兵士たちは黄河の岸に到着すると舟に殺到して我先にと舟を漕ぎ出し、後続の兵士たちが舟につかみかかると、舟を転覆させてはならぬとその兵士たちの手の指を次々と斬り落として河渡りを続けました。楚との決戦が終わってからもなお味方の兵士を傷つけるという惨状は、「舟中の指、掬(きく)すべし」(舟の中は両手で掬えるほど大量の指で埋めつくされていた)と表現されています。(『春秋左氏伝』による)
■「春秋五覇」随一の実力者だが
こうして天下の覇権は晋から楚へと移り、「覇者」荘王の名声は中原世界全体に轟きました。その後楚はこれまた大国の宋に出兵し、包囲戦を繰り広げて優勢に進めました。宋都の城内では、食糧を食べ尽くした民たちが互いの子を交換して食べて命をつないでいるという有様であったほど、宋は極限まで追い詰められました。
●の戦いから6年後、前591年に荘王は亡くなりました。祖父の成王、父の穆王の実績を受け継ぎ、1代で26カ国を併合して前覇権国の晋軍に圧勝した荘王は、「春秋の五覇」の中でも随一の実力者と呼んで差し支えないでしょう。
※「必」に「邑」の変形であるおおざと
しかし荘王は、周王朝から覇者としての正統性を認められておらず、周王朝や中原諸国からはむしろ南の蛮族として蔑まれてさえいます。この荘王の時代以降、「覇者」という言葉に関して、周王朝の国王に代わって中原の秩序を守るナンバー2という意味合いは薄れていき、単に「その時代の軍事的最強国の君主」という意味合いが強くなっていくこととなります。

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セピア(せぴあ)

ユーチューバー

1983年生まれ。千葉県千葉市出身。2009年、ニコニコ動画にて『ピクミン』や『ゼルダの伝説』シリーズのゲーム実況動画を投稿開始。
その後、『CALLING~黒き着信~』『みんなのリズム天国』『勇者のくせになまいきだ』シリーズなどが好評を博し、投稿動画の総再生数は1億2000万回以上。2020年、ゲーム実況動画の投稿活動を続ける中で友人となった2人:天文学研究者・紅茶コーディネーターにして狂気のマインクラフターであるハヤシと、学習塾のCMで披露した「俺は勉強が嫌いだ!」の叫びで一躍有名人となった競馬タレント亀井有馬と共に「フランス革命」と「ポケモンの歴史」の講義動画を2本収録し、楽しさと手応えを感じる。コロナ禍に直面し、1人で講義動画を発信できるようにするため、2021年にYouTubeにてチャンネルセピアのゼロから歴史塾を開設し、歴史お喋りマンとしての活動を開始。歴史能力検定世界史1級に3年連続合格。

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(ユーチューバー セピア)
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