■86歳女性の「寿司窒息死」で施設に約2900万円の賠償
2024年7月、鹿児島県の市立病院で91歳男性のコロナ患者に、呼吸を補助するマスク型の呼吸器を装着していたが、接続部分が外れ、間もなく死亡した。これを医療事故として、市が遺族側に賠償金300万円を支払う方針であることが、2025年8月26日に報道された(※1)。
※1 「マスク型呼吸器が外れて患者が死亡――鹿児島県出水市の出水総合医療センターで医療事故 市が遺族に300万円賠償へ」南日本新聞デジタル
他にも、2022年に京都市の高齢者施設で86歳女性がにぎり寿司を喉に詰まらせて亡くなった件で、名古屋地裁が2025年1月、施設側に「慎重さを欠いた」として約2900万円の賠償を命じた、との報道もあった。86歳女性はいつも刻み食を提供されていたが「クリスマス祝い」として施設での回転寿司イベントに参加を認めたことが裏目に出た結果となった(※2)。
※2 「86歳女性の「お寿司で窒息死」に2900万円の損害賠償:裁判所が医療介護を破壊する」アゴラ 言論プラットフォーム
2人の高齢者のご冥福を祈りつつも、医療介護関係者の中には「またか」と複雑な思いを抱く者もいるようだ。
「CPAP(シーパップ)」と呼ばれるマスク型呼吸補助器は、肥満患者や睡眠時無呼吸症候群などで広く使われるようになったが、圧迫感があり、寝返りなどで自然に外れてしまうことも珍しくはない。91歳という高齢で軽度認知症もあったと仮定すれば、マスクを自ら外してしまったのかもしれない。
そもそも「91歳がコロナで死亡」とは、「病院側が賠償金を支払うべき医療事故」なのか。医療者にはそう指摘する人もいる。そう考えるのは下記のような背景がある。
2025年3月、人気アナウンサーのみのもんた氏が80歳で死去した。
80代高齢者が好物を自ら望んで食べた結果としての誤嚥でも、家庭や焼肉店だと問題なしとなる一方、介護施設の場合は責任追及され高額賠償金を負わされる。「健常者が飲食店で」と「要介護者が施設で」という環境の違いはあるが、責任の有無の線引きは微妙な判断だ。
「86歳要介護高齢者」への2900万円という賠償額の大きさにも注目したい。いかなる算出方法かは不明だが、介護施設の大小に関係なく経営へのダメージは避けられないだろう。
■食事は味や好みよりも「訴訟回避ファースト」で流動食や液体栄養剤
こうした一連の判決を受け、ただでさえ人材不足している介護業界でさらに働き手が減る可能性があるが、世の中全体としては「賠償金いたしかたなし」という空気が大勢を占めているように見える。
コロナ禍以降、多発する介護訴訟は、高齢者施設をじわじわと締め付けている。「誤嚥死なら慰謝料3000万円」が相場になった結果、食事は味や好みよりも「訴訟回避ファースト」となった感がある。
ちょっと飲み込みが悪くなると、本人が嫌がっても万が一を考慮し「刻み食」「流動食」「液体栄養剤」「胃瘻」「点滴」となって、高齢者の「食べる楽しみ」が失われる。「クリスマスイベント寿司の誤嚥で2900万円」判決は、これを加速させてしまうかもしれない。
コロナ禍以降、施設内のイベントである「弁当を持って花見」「カラオケ大会」などを今も復活させないところも少なくない。結局のところ、「延命ファースト(質は問わない)」介護で「毎日テレビを見るしかやることがない」と嘆く入所者も多いという。
「介護訴訟で施設が負けない」ために「ちょっとでも入居者に異変があれば119番」を鉄則とする施設も増えており、救急車や病院への負荷も無視できない。
介護士「89歳男性、朝食後にずっと咳をしている、熱はないけど救急車出動願います」
救急病院医師「レントゲンで右肺に少し影がありますね、少し誤嚥したかも」
介護士「念のために入院をお願いします(でないと家族に責められる)」 介護士「94歳女性、トイレで転倒して頭を打った、意識はあるけど、救急車お願いします」
医師「CT取りましたが出血はありません、しかし後から出血する事もあります」
介護士「念のために入院をお願いします(でないと家族に責められる)」
こうしたやりとりも日常茶飯事かもしれない。現在の救急救命病院は認知症高齢者の「念のため」「訴えられないため」検査や入院対応で相当なリソースを割いている。
それにより、21時ごろに「11歳、塾帰りに交通事故で腹部損傷」のような案件の患者の受け入れを断らざるを得なくなってしまう恐れもある。
近年では「直美(ちょくび)」という「法律で義務付けられている2年間の研修が終わったら直接美容系病院に就職」という若手医師の急増が問題視されているが、その一因は「延命ファースト」「訴訟対策ファースト」の医療介護体制や「認知症高齢者の押し付け合い」に忙殺される先輩医師を目の当たりにして、「それなら美肌や豊胸手術のほうが医療者として人の役に立てるのではないか」と判断した結果でもある。
■後期高齢者医療制度で現役世代が担う交付金は過去最高の約7兆円
8月25日、厚生労働省は75歳以上の後期高齢者医療制度の2023年度財政状況を公表した。後期高齢者医療制度の全体の支出は約18兆円、現役世代が担う交付金が約7兆円と前年度から6.1%増え、3年連続で過去最高を更新した。
団塊の世代が後期高齢者となり、このまま「延命ファースト」「訴訟対策ファースト」介護を放置すれば、現役世代の負担は今後さらに膨らむのは必至だろう(※3)。
※3 「後期高齢者医療の現役世代負担、最高の7.1兆円 23年度」日本経済新聞
「野生の熊に餌を与える」ことは、その場では熊によいことのように思えるが、中長期的には熊を人里に近づけて人的被害をもたらし、最終的には熊射殺に至ってしまう。
高齢者を亡くした家族への高額賠償判決も、それに酷似した構図といったら言い過ぎだろうか。
2022年、英国エリザベス女王が96歳で死去したが、死因は「Old Age(老衰)」と発表されたのみだった。死の2日前までは公務をこなし、リズ・トラス新首相が謁見する姿が報道された直後だったため、英国国民は驚きつつも冷静に受け止めており、主治医や救命体制を糾弾する報道はなかった(※4)。
※4 「死去2日前まで笑顔で公務 女王、現代社会で模索し続けた王室の役割」朝日新聞
2025年、ローマ教皇フランシスコが88歳で死去した。前日のイースター礼拝でミサを行っていたので、ヴァチカン市民は驚きつつも冷静に受け止めて、こちらも医師や病院を糾弾する報道はなかった(※5)。
※5 「キリスト教カトリック教会のローマ教皇フランシスコが死去、88歳」BBC NEWS JAPAN
批判を受けるのを覚悟で言うが、日本人もそろそろこのような「老衰による死」を受け入れるべきだろう。80歳を超えた人間は、数日前は元気そうだったのに亡くなることは珍しいことではない。きっかけとして、風邪や誤嚥があったかもしれないが、医師の視点からすればそれらも含めて自然の摂理としての「老衰」の可能性があり、誰かを責めるべきではない。
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筒井 冨美(つつい・ふみ)
フリーランス麻酔科医、医学博士
地方の非医師家庭に生まれ、国立大学を卒業。米国留学、医大講師を経て、2007年より「特定の職場を持たないフリーランス医師」に転身。
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(フリーランス麻酔科医、医学博士 筒井 冨美)