100円ショップはいつから始まったのか。大阪公立大学特別教授の橋爪紳也さんは「現在に繋がる100円ショップは大正時代から始まっていた。
アメリカで流行した『10セントストア』をモデルに、大阪で始まった」という――。(第1回)
※本稿は、橋爪紳也『大阪のなぞ 歴史がつくってきた街のかたち』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
■令和企業にも掲げられている「三方よし」の精神
「三方よし」という言葉がある。「近江商人」の精神とされるが、時に「大阪商人」の経営哲学として用いられることもある。どのように理解すれば良いのか。
そもそも「近江商人」は旅商人であった。菅笠をかぶり、縞の道中合羽を羽織って、全国に行商に出向いた。商品を携行して地方で出張販売することを「持ち下り」といい、逆に各地の産品を上方で売り捌くことを「上(のぼ)せ荷(に)」といった。やがてそのなかに、京都や大阪に店を構えて、豪商となる成功者が誕生する。
初代伊藤忠兵衛などが好例である。彼も近江を拠点に、泉州、紀州へ、遠くは長崎にまで商いに出向いた。大阪の本町2丁目に家を借り、呉服太物商「紅忠(べんちゅう)」を構えたのは明治5年(1872)1月のことだ。

余談だが、本町界隈は近江出身の商人との縁が深い。一筋北側になる安土町は、一説には安土城下の商人が、この地に移り住んだことが名のおこりであるという説もある。
初代忠兵衛は、開店と同時に「店法」を定め、店員の権限と義務を明らかにした。彼は「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」と常に説いたという。
この種の考え方は、ほかの近江出身の商家にも共通したようだ。近代になって家訓などをもとに「売り手によし、買い手によし、世間によし」、すなわち「三方よし」として整理されてゆく。
■大阪商人と近江商人はバイヤーの鏡だった
大阪に定住した「近江商人」はどう評価されたのか。
たとえば日清戦争に従軍、日本兵の蛮行を報じたジャーナリストとして知られる山中重太郎は、明治27年(1894)1月10日付の『商業資料』の記事で「近江商人」と「大阪商人」を「二体一心の商人」と評している。
山中は「近江の人」の本領として、感情よりも理想に富むこと、また人間の自由を尊び、人間の独立を尊重する特性があると指摘、そのうえでこれらの特徴は「大阪人」にもあてはまるとみる。
近江商人の多くは旅商人であり、大阪商人は家居を定める「居商人」ではあるが、「彼等ほど商人的コモンセンスを多く有するもの」はないと山中はみる。商人を輩出した有名な土地は全国にあるが、大阪商人と近江商人ほど「完全に近きもの」はないと絶賛する。
山中が滋賀県蒲生郡の出身であることを割り引いても、明治20年代には「近江商人」と「大阪商人」の価値観や商法に関して、多くの人が類似点を見出していたのだろう。
「近江商人」の「三方よし」の精神が、おのずと「大阪商人」の経営哲学として広く理解されたのは、まさに両者を「二体一心」とみなす社会の風潮があったからに違いない。
■「日本のアンデルセン」がいた街・箕面
明治43年(1910)3月、箕面有馬電気軌道は梅田から石橋を経由、箕面に至る路線(現・阪急宝塚線、箕面線)を開通させた。終点となる箕面駅では、大きく円弧を描いてUターンするループ線が採用された。停車場で折り返す必要がないことから、画像4のように降車用と乗車用の停車場が別の位置に設けられた。
線路で囲まれた駅前の広場は、その形状から、テニスの「ラケット」にたとえられた。箕面有馬電気軌道はこの空間を「箕面運動場」と命名、庭球コートや競走路を確保して、学校や各種団体に運動会場として貸し出した。
また広場に面して公会堂を建設、展覧会や音楽会の会場に提供した。いっぽう駅前から名勝である滝や遊園地に向かう人々のために、社章をあしらった2本の電飾塔「金星塔」を建立してゲートとした。
広告には、金星塔の横に洋館があるのがわかるだろう。「お伽俱楽部」と記載がある。「お伽俱楽部」は、久留島武彦が立ち上げた組織である。
久留島は、桃太郎などの民間説話を童話に改め、子供たちに語り聞かせ、また芝居として上演した。
児童文化運動を広めることに尽力したことから、「日本のアンデルセン」と呼ばれた人物である。
■コーヒー文化を広めた大阪の喫茶店
箕面は大阪における「お伽俱楽部」の活動拠点となった。近傍に住む社会活動家であった高尾亮雄が中心となり、駅前の公会堂で童話を口演する会を開催、駅前の運動場で「模型飛行機大会」を実施した。
また箕面遊園内にあった翠香殿で「お伽芝居」と称する児童劇を定期的に公演した。のちに駅前や遊園地で実施された「箕面山林こども博覧会」でも、童話にちなむアトラクションがあった。
「お伽俱楽部」の事務所であったこの洋館が、本格的な珈琲店「カフェー・パウリスタ」の1号店となる。明治44年(1911)6月から営業を始めた。
経営者はブラジルのサンパウロに多くの移民を送り出した水野龍である。水野は現地で生産された珈琲豆の販路を確保するべく、文化人が常連であったことで有名な銀座店など、日本各地に26店舗を展開した。
ポルトガル語で「サンパウロっ子」という意味合いの「パウリスタ」という屋号に、彼の志が託されている。
なぜその1号店が箕面駅前にあったのか。箕面有馬電気軌道を経営した小林一三が、同じ慶應義塾の出身である水野の事業を支援した可能性が指摘されているが詳細は不明だ。

もっとも箕面の「カフェー・パウリスタ」は1年ほどで閉鎖された。その建屋は、のちに豊中に移築されて「豊中クラブ自治会館」として、近年まで再利用されることになる。
■100円ショップの元祖は大阪の「髙島屋」
「100円ショップ」の原点は大阪にある。
そもそも商品を均一価格で販売するアイデアは、江戸時代にまで遡る。享保年間(1716~1736)の江戸で「十九文見世」という商売が人気を集めたそうだ。櫛、簪、煙管、玩具などの商品を、どれでも19文、今の価値に換算すると一点約475円で販売したという。
もっとも今日の「100円ショップ」に繫がるビジネスモデルは、大阪の髙島屋が展開した「十銭ストア」が先駆けであった。
大正時代、髙島屋は店舗を高層化、呉服店から本格的な百貨店に転じる。大阪では堺筋に面して7階建ての大型店を建設、心斎橋筋の旧店から拠点を移して長堀店と称した。
大正15年(1926)、この店内に「なんでも十銭均一売場」を設けて、日常の家庭生活に必要な商品をすべて10銭で販売した。米国で流行した「10セントストア」をモデルとしたという。
この新しい試みは好評で迎えられたようだ。
髙島屋は、かねて研究を進めてきた均一店のチェーン展開に乗り出す。廉価かつ優れた商品を取り揃えるべく、生産者の協力を得て、均一店向けの商品開発を工夫した。
昭和5年(1930)、髙島屋は難波南海店の開業に応じて、店内の一画で「十銭ストア」の営業を始める。
■近江商人の精神を受け継ぐ“均一商売”
ついで昭和6年(1931)、野田阪神、大正橋など大阪市内各所に積極的に出店する。東京、京都にも進出、同年末までには26店を数えるまでになった。さらに20銭均一店の営業も開始する。
昭和13年(1938)に、髙島屋は「株式会社丸高均一店」の屋号で均一店部門を独立させる。昭和16年(1941)には全国106店舗にまで事業規模は拡大している。
ここでは『写真心斎橋』(昭和10年)から、心斎橋筋にあった「髙島屋十銭二十銭ストア」の外観と、多くの商品が並ぶ内部の写真を掲載しておきたい(画像6、7参照)。
また昭和10年(1935)の年賀状も紹介しよう。さまざまな値付けの商品が、髙島屋の均一店を経由すれば、すべてが10銭か20銭になるということをわかりやすく図化していて面白い(画像8参照)。
髙島屋には、次の「四綱領」が伝えられている。

・確実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし

・正札掛値なし

・商品の良否は、明らかにこれを顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず

・顧客の待遇を平等にし、いやしくも貧富貴賤に依りて差等を附すべからず
創業者である飯田新七が定めた心構えである。社訓にあたるものだろう。髙島屋が展開した「十銭ストア」は、この綱領にある「確実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし」という近江商人の精神を、文字通り実践するものであった。
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橋爪 紳也(はしづめ・しんや)

大阪公立大学特別教授

1960年、大阪市生まれ。大阪公立大学観光産業戦略研究所長。建築史・都市文化論専攻。『明治の迷宮都市』『あったかもしれない日本』『都市大阪の戦後史』など著書多数。

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(大阪公立大学特別教授 橋爪 紳也)
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