映画『国宝』が快進撃を続けている。興行収入は120億円を超え、実写邦画としては、歴代1位の『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(2003年公開)に次ぐ、22年ぶりの大ヒットとなっている。
本作の配給を担う東宝の映画プロデューサー・市川南さんは「ここまで“規格外”のヒットになるとは、まったく予見できなかった」という――。
■ちっとも予想できなかったメガヒット
「賭けに勝ちましたね」
6月6日の映画『国宝』公開初日。舞台挨拶を終えた関係者の打ち上げで、私はこう言いました。李相日(リサンイル)監督、メインプロデューサーであるミリアゴンスタジオの村田千恵子さん、そして現場を仕切ったクレデウスの松橋真三(しんぞう)さんたち製作陣に、「この勢いで興行収入20億超えを果たし、もっと上を目指しましょう」と。
「20億円」という推測は、初日の観客動員数からでした。
6日の午前11時から劇場のデータを取り始め、午後3時までの数字を過去作品と比較すると、動員は好成績。正直ホッとしました。
しかしあの日の私は、今日のメガヒットをちっとも予想できなかったのです。なにしろ「評判もよさそうだから、興収30億円も狙えるかもしれない」というのが、頭の中の期待でしたから。
ところがフタを開けてみると、まったく規模が異なりました。
8月31日までの公開87日間で、本作は興収124億9000万円を超えました。観客動員数にして886万人。

公開当初は、女性が8割で、男性が2割です。50~60代の女性たちがまず劇場に足を運び、次第に30代40代に広がり、夏には10~20代の女性、男性も増え始めて今や全世代に及んでいます。しかも初日とほぼ100%の数字が、3カ月経った今でも続いていることが何より驚異です。私自身、映画会社に入社し36年目になりますが、こんな動きは見たことがありません。超異例の興行です。
■「製作」を断念し「配給」を選択
この2カ月半余り、行く先々で「ヒットの要因は?」と訊かれて「わからない」と何度も答えました。
歌舞伎という芸道、そして極道。男同士の嫉妬に男女のすれ違い。「師」とは、「血」とは、「親」とは。しかも「美」とは何か。主人公の一代記でそれらを徹底的に描いた175分の長編が、邦画22年ぶりの100億円突破作になるとは思いもしなかったからです。
じつは『国宝』の映画化が社内で企画されたとき、製作会社としての関わりをわが社は断念しています。
「製作幹事作品」として全面的に出資するのではなく、一部の出資と「配給」の立場を選択しました。
■決断をはばんだ3つの“ビジネスリスク”
何が異例で、何が“規格外”のメガヒットを呼んだのか。すでに多くの方が本作の分析をしているので、ここでは映画化の経緯に絞って見ていきましょう。
前述の通り、本作の映画化は「ビジネスとしてリスクが高い」というのが当初の判断でした。
理由は主に3つあります。
①「古典芸能」というテーマの特殊性

②「歌舞伎」の再現の難しさ

③ 想定される尺の長さ

結果として175分間、ほぼ3時間という大作になりました。企画が持ち込まれた段階から、「約50年にわたるドラマを映画化すると、かなり“長尺(ちょうじゃく)”になるだろう」という推測があったわけです。長時間の映画を観客は好まない、というのが映画界の常識というところがありますから、企画当初はこれらが“ハンデ”と見なされた。
1つだけでもリスクですが、3つもあったわけです。
ところが、それらは本作の特性として好転しました。結果的に、リスクがメガヒットの源泉になった。だからこそ、製作幹事を務めたミリアゴンスタジオはじめ製作陣は、文字通り「賭けに勝った」のです。

■製作費は通常の実写映画の3倍超
製作費は10億円を超えています。日本の実写映画としては異例といえる高額です。
邦画は3億円規模が通常で、少し高めだと5億円レベル。特撮が多い『ゴジラ』や『キングダム』シリーズは10億円を超えますが、あくまでもまれな例です。なぜなら製作費に10億円かけると、興収の必達額は30億円以上になるからです。ですから、公開当日に私が20億円で「おめでとうございます」と言っても、製作陣は「それだと赤字になるかもしれない」。そう思ったかもしれません。それほど規格外の製作費でした。
勝因はひとつ。『国宝』の製作チームは「おカネのかけどころ」を間違えなかったのです。
例えば、主役の吉沢亮さんは約1年半もの歌舞伎の稽古をし、本作の演舞場「日乃本座」は、京都の撮影所内に巨大なセットで造られています。観客のエキストラの方々の服や髪型も、場面ごとに時代性を再現しています。
そこまで細部にこだわりながら、名優の方々を撮影現場に集結させました。
そればかりではありません。約3カ月の撮影期間は、通常の邦画の約2倍に当たります。そもそも脚本づくりに1年以上をかけ、編集、音楽などのポストプロダクションにも時間も費用も十分に注いでいる。かけるべきところにかけること。『国宝』はこうした覚悟の積み重ねです。
■「これ以上、切れない」3時間の長尺になったワケ
映画の完成前に、「ラッシュ」と呼ばれる段階があります。
ほぼ仕上がっている仮編集版をスタッフで試写し、「ここが長い」「ここは説明不足だ」などと仕上がりを最終確認する場です。
通常私は、ラッシュは“1回だけ”観るようにしています。ですが、本作の場合は2~3回呼ばれ、「尺(時間)をなるべく短くしたいが、どうすればいいか」と、李監督と村田プロデューサーから意見を求められました。
全体で3時間前後あり、音楽もまだつけられていません。だから長く感じられるかとも思いましたが、観終えての第一感は「これ以上、切りようがない」。
短くできない。どこも省けない。どのシーンにも力があるからです。結局「もはや、切れない」という判断になりました。
2025年3月下旬。ついに、映画『国宝』完成。しかしゴールは封切りまでの戦いの幕開けでもありました。宣伝活動、そして海外映画祭出品への“詰め将棋”ともいえる戦です。
■『国宝』がくれた“見たことのない景色”
2つの光景を思い出します。
1つは、4月のマスコミ試写会の初日。まだ宣伝も行き届かない時期なのに、2会場の150席ほどが満席に。通常、公開日が近づくにつれて次第に評判が高まり席も埋まるのですが、初日から満場になったのです。
歌舞伎通の方なのか、俳優陣への関心か、30~40代女性のライターの方が多かった。しかも「美しさに圧倒された」と評判が良く、その後の試写会も空席が出ませんでした。
もう1つは、プロデューサー村田千恵子さんが先導した「カンヌ上映」です。「カンヌ国際映画祭に出品します」と先に決め、そこから国内での公開日を決めるという英断でした。もしもカンヌでの上映が決まらなければ、6月初週の封切りは中途半端な船出になったかもしれません。海外ビジネス経験が豊かな村田さんでも、あの退路を断っての進め方は相当な苦労だったと思います。
結果、2025年5月18日のカンヌ・クロワゼット劇場にて、本作は上映されます。私も現地入りし、お客さんたちの反応を見ていました。長時間の歌舞伎の映画がどこまで受け入れられるだろうか。正直なところ、半信半疑だったわけです。
カンヌの観客は見巧者です。興味がなくなると、遠慮なく席を立つ。ところがその日に中座した観客は、初老の男性ひとりだけ。しかも、お手洗いだったのか、少し経つと戻ってきたのです。鑑賞後は、拍手のスタンディングオベーションのみならず、皆口々に感想を述べ合っているのがよくわかりました。
東京での試写会。カンヌでの上映会。全く異なる場で突如として似通う観客のすがたも、『国宝』がくれた“見たことのない景色”です。
■月曜の昼間に客席が埋まった
「ファンダム化」という分析が、本作には当てはまるかもしれません。
「ファンダム」とは、英語の「fan(愛好家)」と「~dom(領域、勢力範囲を表わす接尾語)」を組み合わせた造語です。ファンダム化とは、ある作品や商品などに対して、単なるファン以上に熱狂的で組織的な「ファンダム(fandom)」を形成すること、あるいはそんな状態への変化です。特徴としては、受け手(ファン)が受動的に消費するだけでなく、能動的に情報発信を行うこと。口コミやSNSでの拡散によって、作品の価値がさらに強化されるといった現象です。
『国宝』も、観客コア層の感動が熱量のある口コミとなり、幅広い世代へ拡大したわけです。
通常はヒットアニメ作品や人気テレビドラマの映画化等で起こる現象が、本作では50代、60代の層から始まってファンダム化したのです。
異変は公開4日目からすでにありました。
公開日の6日は金曜日。つまり4日目というのは月曜日で、公開後に迎える初の平日です。ここで一旦ぐっと勢いが落ちつくのが通常ですが、月曜日の昼間にもかかわらず客席が埋まり、次週、翌週も数字が落ちず、むしろ増えていった。まさに雪だるま式に観客がファンダム化し、今にいたるということです。
9月11日と12日には、第50回トロント国際映画祭(TIFF)で正式上映されます。
また、米国アカデミー賞 国際長編映画賞の日本代表作品にも決定しました。
こうして北米でも、日本の歌舞伎を『国宝』で初めて見る人が生まれるでしょう。その先に想像もつかない現象があるかもしれません。映画には、そうした未知の力があります。
■「いい映画」をつくる5つの要素
そんな映画の普遍的な力を、私は「五角形」の図で説明することがあります。
映画の普遍性とは、①いい題材(原作)、②いい脚本、③いい監督、④いい俳優、⑤いい音楽(主題歌)です。この五角形をクモの巣状に大きくしていくと、“ヒットを目指せる”映画になる。つまり大きな五角形ほど普遍性が高く、五角形のかたちが整えば整うほど、ヒットの目安である「興収10億円以上」を狙えると思っています。
ところが『国宝』のような国民的大ヒットといえる作品は、この五角形が肥大し崩れているとも言えます。何かの力が大きくグンと作用したのです。
何かの力。あえて言えば、それは「時代性」かもしれません。
具体的にはどんな時代性か。正直、今の時点ではわかりません。しかし映画『国宝』には、喜びにしろ、哀しみにしろ、令和の今の私たちの社会を如実に映すノンフィクション性があったのだと言えるかもしれない。そしてそれは、10年後、20年後の未来から2025年を振り返ったときに、よりはっきりと見えてくるものなのでしょう。

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市川 南(いちかわ・みなみ)

映画プロデューサー、東宝取締役専務執行役員

1989年東宝入社。『千と千尋の神隠し』宣伝プロデューサー。『世界の中心で、愛をさけぶ』『永遠の0』『君の名は。』『シン・ゴジラ』『ゴジラ-1.0』製作。現在、取締役専務執行役員。

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(映画プロデューサー、東宝取締役専務執行役員 市川 南 構成=大場葉子)
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