朝ドラ「あんぱん」(NHK)に、やなせたかし氏をモデルとする嵩(北村匠海)の義理の妹として登場する蘭子(河合優実)。TVドラマに詳しい田幸和歌子さんは「映画雑誌で批評を書く蘭子のモデルは、やなせ氏と交流のあった向田邦子氏とも考えられる」という――。

■河合優実と妻夫木聡の「指スリスリ」が話題
NHK連続テレビ小説「あんぱん」で、ヒロイン・のぶ(今田美桜)の妹・朝田家次女の蘭子(河合優実)と八木(妻夫木聡)の関係が急接近。9月2日の第112回では、雨音と雷鳴の響くなか、2人は1本の傘の下で無言のまま見つめ合い、その後、鮮やかな赤い傘が真上から映し出されるカットになり、2人の姿は傘に隠れて見えなくなったという演出が話題を呼んだ。さらに妻夫木聡はSNSで「#指スリスリは無意識だったなぁ」と投稿。そこだけねっとりとした湿り気を帯び、恋愛映画のような異質な雰囲気を醸し出す蘭子×八木のカップリングに視聴者は日々、大いに沸いている。
八木のモデルがサンリオ創業者・辻信太郎会長であることはすでに報じられている。辻会長は、やなせたかしが詩集『愛する歌』を出版する際、周囲の反対を押し切って資金援助を行った恩人だ。
ところで、蘭子のモデルについては「向田邦子ではないか」という説が一部で浮上している。
■蘭子のモデルは亡き脚本家・向田邦子か
向田邦子(1929~1981年)は、「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」などの脚本、『父の詫び状』『眠る盃』などのエッセイ、直木賞を受賞した短編集『思い出トランプ』などで知られる昭和を代表する作家で、家族の機微を繊細に描く作品を数多く残している。
実は、この推測が生まれた理由はいくつかある。
まず、やなせたかしと向田邦子に実際の交流があったこと。蘭子が映画雑誌に投稿し、やがて物書きとして成長していく設定が、向田の経歴を彷彿(ほうふつ)とさせること。河合優実の持つ知的で芯の強い雰囲気が、向田邦子のイメージと重なることなど。

ただし、ドラマで描かれる蘭子と八木の恋愛関係は完全なフィクションである。そもそもやなせと向田が義兄妹だったなどという事実は一切ないし、サンリオ会長と向田邦子が恋愛関係にあったという史実も存在しない。実際、辻信太郎さんは会社を立ち上げる前の山梨県庁時代に結婚しており、1952年に長男の邦彦さんが生まれている。また、向田邦子は生涯、独身を貫いたことでも知られる。
やなせたかしは『アンパンマンの遺書』(岩波文庫)で、向田邦子との出会いを記している。やなせは映画雑誌『映画ストーリー』で仕事をしていた。その原稿を取りに来ていたのが「ベレー帽をかぶった眼の大きな女の子で、やなせさんの原稿は面白いから、毎号読むのが楽しみとお世辞をいった」(『アンパンマンの遺書』)。その人物こそが向田邦子であり、二人は気が合い、「あっちこっち、いっしょに展覧会を見に行ったりした」という。
■やなせたかしと向田邦子の知られざる交流
ドラマでは八木から仕事の依頼を受けた蘭子が「やってみたいことがあるんです」と言い(第114話)、シナリオ執筆の展開を示唆するようなセリフが登場する。
実際、向田は雑誌『映画ストーリー』の編集者を経て、脚本家の道を歩み始める。その初期について、やなせは以下のような興味深い記述を残している。
「『映画ストーリー』が廃刊になったあと、(向田が)シナリオを書いて生活していることを知ったぼくは、(編集部註:やなせが関係者だったTVドラマ)『ハローCQ』にも二本ばかり推薦して書いてもらった。
出来上ったシナリオに、ぼくが手を入れた。『どんどん直して下さい』と彼女は言ったが、今思えば冷汗ものである。許して下さい、向田さん」(『アンパンマンの遺書』)
後に向田が日本を代表する脚本家・作家になったことを思うと、やなせがシナリオを修正したことについて恐縮するのも、無理のない話かもしれない。
■直木賞作家となった向田邦子を襲った悲劇
やなせはその後、向田から雑誌『銀座百点』に掲載するエッセイ『父の詫び状』の挿絵を依頼される。これは向田の代表作の一つとなり、『思い出トランプ』で直木賞を受賞してからは、猛烈な勢いで売れていく。一方、当時の自身の状況について、やなせは『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)でこう記している。
「ぼくはといえば、相変わらず陽の当たらない場所でゆきあたりばったりのその日暮らし。本業は霧に閉ざされて、このまま雑業の便利屋で得体の知れないまま人生が終わりそうな気配。運命やいかに? なんてね」
また、『アンパンマンの遺書』ではそこから向田と疎遠になった経緯をこう記している。
「身分ちがいになったぼくは、気おくれしてしまって逢うことはなくなった。はじめのうちは本が出るたびにおくっていたが、それも途絶えてしまった」
そして、1981年8月22日。向田邦子は台湾での飛行機事故により51歳で急逝した。
遠東航空103便墜落事故により、取材旅行中だった向田は帰らぬ人となった。当時62歳だったやなせたかしは、作詞家として「手のひらを太陽に」などのヒット曲を生み出していたが、本業の漫画家としては、まだ代表作を生み出せずにいた時期だった。
■「手のとどかないところへ行ってしまった」
やなせは、向田の訃報を新聞の記事で知った時の衝撃をこう記している。
「今度こそ本当に手のとどかないところへ行ってしまった。孤独なランナーは猛烈なラストスパートをして、人生の最後のテープを切ってゴールインした。ぼくはまだスタートラインの近くで迷ってうろうろしていたのに……。なにかしら、自分の中でひとつの準備がはじまっているような気がした。でも、まだすべては漠然として霧の中だった。ぼくはいったい、どのへんをどっちの方向に向って歩いているのだろう?」(『人生なんて夢だけど』)
この言葉からは、向田が創作者として全力疾走し続け、51歳という若さで急逝したことへのやなせの無念さが伝わってくる。実際、やなせが『アンパンマン』を世に送り出すのは、この8年後の1988年、69歳の時である。
■「あんぱん」の脚本家も向田邦子ファン
ところで、蘭子=向田邦子モデル説の裏付けには、もう一つの重要な要素がある。
それは、「あんぱん」の脚本を手がける中園ミホと向田邦子との関わりだ。
中園は2012年度に「はつ恋」「Doctor-X 外科医・大門未知子」で第31回向田邦子賞を受賞している。
中園は向田のエッセイ「手袋をさがす」について「今も妥協しそうになるたびに『手袋をさがす』をめくります。ここだけ色が変わっていて、付箋だらけ。一言一言が心に刺さって打ちのめされるし、励ましてくれるし、背中を押してくれる」「もし、この本に出合っていなかったら、きっとまわりの大人たちの言うまま結婚して脚本家にもならず、違う人生を送っていたかもしれません」と語っている。
さらに「向田さんが亡くなった年齢をとうに越してしまいましたが、いまだに雲の上の人。手の届かない憧れの人です」と、その影響の大きさを明かしている(クウネル・サロン『脚本家・中園ミホさんが恋した4冊』より)。
ちなみに、「あんぱん」で描かれた、蘭子と愛する人・豪(細田佳央太)の出征前のシーンは、向田邦子の『あ・うん』の別れのシーンと驚くほど似ている。
向田の『あ・うん』は、1980年にNHKでドラマ化され、1981年に文藝春秋から小説として刊行された向田唯一の長編小説だ。昭和初期の山の手を舞台に、製薬会社のサラリーマンの水田仙吉と親友の実業家門倉修造、門倉に思われる仙吉の妻たみ、一人娘さと子を中心に、戦争が迫る時代の人間模様を描いている。
■蘭子と豪の別れは名作「あ・うん」に酷似
この作品の終盤、水田家の娘・さと子の恋人である義彦に召集令状が届く。出征前夜、義彦が別れを告げに来ると、門倉(父の親友)は「さと子ちゃんは今夜一晩が一生だな」とつぶやき、さと子に雪の中を去っていく義彦を追いかけるよう促す。つまり、戦争で死ぬかもしれない若い恋人たちに、最後の一夜を共に過ごさせようという大人たちの切ない配慮が描かれているのだ。

これに対して、「あんぱん」第29回では、豪の出征前夜、母・羽多子(江口のりこ)が蘭子に着替えを渡すと「豪ちゃん明日行ってしまうがで。今夜はもんて(戻って)こんでええ」と伝え「豪ちゃん、蘭子をよろしゅうお願いします」と頭を下げた。のぶと羽多子に見送られ、蘭子と豪は共に歩き始める。そのまま2人で汽車に乗り、蘭子はそっと豪の肩にもたれかかった。戦争で引き裂かれる若い恋人たちに最後の一夜を過ごすことを大人たちが黙認し、むしろ後押しする構図は、まさに『あ・うん』のシーンと同じである。
■中園ミホが「あんぱん」に込めたもの
ちなみに、1989年には高倉健主演、降旗康男監督により『あ・うん』が映画化された。17年ぶりに銀幕復帰した富司純子(旧芸名・藤純子)や板東英二が脇を固め上品で感動的で温かい作品に仕上がっていると評された。
蘭子が向田邦子をモデルとしているかどうかは、現時点では制作サイドから明言されていない。それでも、映画雑誌での交流、『父の詫び状』での協働、戦時下の別れのシーン──これらの要素は、やなせたかしと向田邦子の実際の交流、そして中園ミホが向田から受けた影響を考えると、偶然とは思えない符合だ。朝ドラ「あんぱん」の蘭子というキャラクターに、その記憶が投影されているとしたら、それは中園ミホによる二人の創作者へのオマージュなのかもしれない。

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田幸 和歌子(たこう・わかこ)

ライター

1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。
ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など

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(ライター 田幸 和歌子)
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