アメリカのトランプ政権による新たな「相互関税」が8月7日に発動された。ドイツ在住作家の川口マーン惠美さんは「“宣告された30%→15%に引き下げ”と、税率だけを見れば、一見うまく切り抜けたように見える。
しかし、問題は、引き換えにのんでしまった不利な条件の数々だ。実行されれば、EUの産業は本当に瓦解するかもしれない」という――。
■目標は関税の“ゼロゼロ”だったが…
スコットランド西海岸のターンベリー。その瀟洒な館は、悠々とした大自然の中に威風堂々と立っていた。まるで19世紀の小説の1シーンを思わせるような古風な光景。
見渡す限り続く手入れの行き届いた草原も、その滑らかな起伏を利用して作られたゴルフ場も、全てはトランプ大統領のものだ。トランプ氏の滞在中、広大な敷地は1000人以上のSPに守られているという。
7月27日、トランプ氏は早朝からそこでゴルフをしていた。そして、1プレイ終えると、きちんと背広に着替えて、館の応接室でEU欧州委員会のフォン・デア・ライエン委員長を迎えた。
トランプ大統領はEUに30%の関税をかけると宣告していた。そこで、EUを背負って立ったつもりのフォン・デア・ライエン氏は、トランプ氏との交渉のために、この美しい“僻地”に出向いたのだった。米国とEU間の関税をゼロゼロにするのが目標だった。

交渉はあっという間に終わった。内容をまとめると、次のようになる。
■あまりに不利な合意内容
1.関税

米国は全てのEU製品に、原則15%の基本関税をかける。ただ、いくつかの製品については税率は適宜。たとえば鉄鋼とアルミは、一定の輸出量を超えた分には50%など。一方、EUは米国製品に対する関税を撤廃。
2.自由貿易

関税外障壁を取り除くため、互いの産業規格を認める。特に自動車。
3.エネルギー、テクノロジー

EUは米国から、2028年までに7500億ドル分のエネルギー製品と、400億ドル分のAI用チップを購入する。
4.投資

EUの企業はこれまでの投資に加えて、米国に6000億ドルの追加投資をする。もし、これが守られない場合は、基礎関税が15%から35%に引き上げられる。

二人は握手をして一件落着。
フォン・デア・ライエン氏を見送ると、トランプ大統領は上機嫌でゴルフ場に戻った。結局、関税をゼロにしたのはEUの方だけだった。
フォン・デア・ライエン氏の交渉は、ディールはおろか、子供のお使いにもならなかったわけだ。それでも氏は笑みを振り撒き、あたかも自分が大役を果たし、より大きい災い(関税30%)からEUを守ったような顔をしていた。
■「歴史に残る屈辱」現地メディアが揶揄するワケ
ドイツ政府は直ちに、この交渉を成功として演出することを試みた。メルツ首相は、これで欧米間の通商の無用な摩擦が防げるとして、合意歓迎の意を表した。
ところが、普段は政府に忠実なドイツの主要メディアが、今回ばかりは違った。
南ドイツ新聞はこの交渉を、「歴史に残るヨーロッパの屈辱」と書き、公共第1テレビは、「ゴルフ、交渉、またゴルフ」と揶揄した。独善的なドイツメディアが、ここまで自嘲的になるのは珍しいことだった。
ただ、この交渉の中身は確かに非現実的で、これらが実行されたら、EUの産業は本当に瓦解するかもしれなかった。悪いのはいつも通りトランプであるとしても、記者たちは、このような不利な条件を丸ごと呑んでしまったフォン・デア・ライエン氏にも腹を立てていた。
では、何が問題なのか?
EUが28年までに7500億ドル分のエネルギー製品を輸入するということは、来年26年から、年間2500億ドル分だ。
EUが昨年輸入したエネルギー製品(ガス、石油、石炭など)の価格は合計4360億ドルで、うち米国からが900億ドル弱だった。それを一気に2500億ドルに増やせるのか?
そんなことをしたら、ロシアへのエネルギー依存が米国への依存に変わるだけだ。
しかも、そもそも米国にはこれほど大量のエネルギーを輸出する力があるのか?
ロシアからのエネルギー輸入は、バイデン政権下で全面的に禁止されている。しかし現況をみれば、その一部がロシア由来で、決算だけが米国経由となる可能性も否定できない。
■「最悪の場合、テロが起こるかもしれない」
二つ目の問題は、EUが定めた2050年の脱炭素だ。
フォン・デア・ライエン氏は19年に欧州委員長に就任するとまもなく、EUを50年までにCO2フリーにすると宣言し、以来、GX(グリーン・トランスフォーメーション)を強硬に推し進めてきた。
しかも、ドイツはどの国よりも前のめりで、脱炭素の目標を45年に据えた。しかも21年、気候保護は次世代の人間の基本的人権に寄与するものであるということをドイツの憲法裁判所(最高裁判所に相当)が認め、さらに25年に決まった史上最高の新規借入金では、そのうちの1000億ユーロがGXに充てられるということが、基本法(憲法に相当)に書き込まれた。
しかし、2500億ドル分の化石燃料を買うなら、GXは間違いなく吹き飛ぶ。
私としては、GXが吹き飛んでも大した障害は起こらず、それどころか、弱ってしまったEUの産業が蘇る可能性が出てくるので、国民にとってはメリットの方が多いと思っている。
ただ、EUではCO2敵視と脱炭素信奉がことのほか根強く、産業の発展にはブレーキをかけるべきだと思っている人たちが少なくない。しかも、そういう人たちがこれまで政治的な力を振るってきたため、今後、エネルギー製品の輸入をめぐり、論争が激化することが想像された。

気候保護を謳うグループにはかなり過激な人たちもいるので、サボタージュや、最悪の場合、テロなどが起こるかもしれない。
■そもそも氏に交渉権限はあったのか
ただ、何と言っても最大の問題は、フォン・デア・ライエン氏が交わしてきた約束を、EUの誰が実行するのかということだ。いったい誰が米国からガスを買い、誰が米国に投資するのか?
それらにEUが直接関与することはできないし、EUの執行機関である欧州委員会も、そんなことを加盟国の政府に強制する権利はない。さらにいうなら、各加盟国の政府も、輸入や投資を自国の企業に強いることはできない。EUは自由主義経済を標榜しているのだから、企業が国家から割に合わない輸入や投資を強いられるいわれはない。
だとすると、また、政府の財政出動? これまでも再エネ企業への膨大な補助金ばら撒きで、基幹産業を弱体化してきたEUではないか。今回、再び特定の産業の支援に走るとしたら、それこそ合法かどうか疑わしい。
非EU国であるスイスのジャーナリスト、ロジャー・ケッペル氏は、常に的確なEU評で有名だが、その氏が、「そもそもEU諸国は、そんな権限をフォン・デア・ライエンに与えてはいない。権限もなしに、他人のお金を勝手に米国に約束するなど、組織的犯罪に等しい」と呆れていた。
■“欧州理事会”というブラックボックス
ドイツのジャーナリスト、ガボア・シュタインガートは、フォン・デア・ライエン氏は「政界の裏部屋で生まれた子供」だと書いている。「彼女は選挙運動をしたこともなければ、その名前が投票用紙に載ったこともなかった」。
EUに来る前はドイツで家庭相、労働相、国防相を務めた。
しかし、どのポストでも自己宣伝とメディアへの露出は異常に多かったが、功績はほとんどなかった。そもそも、なぜ、今、氏がEUの欧州委員長なのかさえ、よくわからない。
EUというのは、多くのことが加盟国の国民の知らない間に、「欧州理事会」の一部の首脳らによって独断的に取り決められる伏魔殿のような組織だ。EUで唯一、国民によって選出されるのは欧州議会だが、最高の権限を持つのは議会ではなく欧州理事会。そして、その密室で多くが決まるが、その一つが、EUの首相とも言える欧州委員長だ。
2019年と、2024年、欧州委員長が選出された時、本命だった候補者の代わりに、突然、フォン・デア・ライエン氏が浮上し、そのポストを得た。
なぜ、確実視されていた候補者が押し除けられたのか、そのシナリオを書いたのは誰だったのかは、今も私たちにはわからない。
いずれにせよ、EUというのは、私たちが思っているほど民主的な組織ではない。
■ワクチンをめぐる“不正疑惑”
その後、フォン・デア・ライエン氏はEU内を水を得た魚のように泳ぎ回り、自身の権力増大に熱中。他国を制御下に置き、いうことを聞かない国は反民主主義だとして、補助金カットなどで脅した。
しかし、自身の行動は極めて不透明で、密室政治が目立った。
実は、その前のドイツ国防相時代、氏が正規の手続きを踏まず、縁故採用で雇ったコンサルタントらに巨額の報酬を支払っていたことが明るみに出て、大問題になったことがあった。
それでも罪に問われなかったのは、証拠のSMSを完璧に消去してしまったからだ。
ところが、その後、氏はEUでも同じことを繰り返した。
米ニューヨークタイムズ紙などによれば、コロナ禍の最中、氏が秘密裡にファイザーのCEOと交渉し、法外な金額で大量のワクチンの買い取りを決め、EUに莫大な経済的損害を与えたことがほぼ確実とされる。そのため、複数の告訴がなされたが、裁判は遅々として進まず、しかも、肝心の証拠のSMSはまたもや全て消去されたと言われている。
ハンガリーのオルバン首相はXで、「ブリュッセルの帝国主義的エリートは去るべき」と、氏の辞任を要求。独立系のメディアや多くの識者も、EUがすべき喫緊の改革はフォン・デア・ライエンの更迭だと長らく主張していた。
そして7月10日、欧州議会では実際に氏の不信任案の採決が行われた。不信任案自体は否決されたが、しかし、氏に掛けられた網は間違いなく縮まっている。
■米国依存は日本だけの問題ではない
なお、現在、氏がトランプ氏と取り決めた内容がじっくり検討された結果、新たな批判が浮上している。
これらは全て米国との二国間の取り決めであるため、WTO(世界貿易機関)の原則である「多角的通商体制」に反しているというのだ。
また、WTOには、自国民と他国民の差別禁止、関税に関しての数量制限の禁止という原則もあり、フォン・デア・ライエン氏とトランプ大統領の取り決めは、これらの国際通商ルールにもことごとく反している。
ただ、EUが不利な条件を強いられたにもかかわらず、メディアや政治家がトランプ大統領をあまり責めない背景には、米国にウクライナ支援から手を引かれると絶対に困るという弱みがあるからだという。
ロシアに制裁をかけ、正義の味方を気取っていたEUが、実は張子の虎であったことが証明されたようなものだ。
いくら偉そうなことを言っても、米国の支援なしにはEUもNATOも、ウクライナどころか、自分たちの防衛さえおぼつかない。ヨーロッパの米国依存は日本とよく似ている。
バイデン政権下とは違い、トランプ政権は無力な客人を必ずしも丁重には扱ってくれない。それもあって今回、フォン・デア・ライエン氏の胡散臭さや無力さが、あっという間に世界に晒されてしまった感がある。EUの女王は裸だったのだ。
プーチン大統領は、お腹を抱えて笑っているのではないか。
新しい関税率は、8月7日から有効となっている。現在、ドイツの輸送物流会社DHLは、EUから米国への法人の貨物をストップしてしまった。受け付けているのは、個人の100ドル以下の「贈答品」のみ。世界はだんだん不便になっていくようだ。

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川口 マーン 惠美(かわぐち・マーン・えみ)

作家

日本大学芸術学部音楽学科卒業。1985年、ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。ライプツィヒ在住。1990年、『フセイン独裁下のイラクで暮らして』(草思社)を上梓、その鋭い批判精神が高く評価される。2013年『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』、2014年『住んでみたヨーロッパ9勝1敗で日本の勝ち』(ともに講談社+α新書)がベストセラーに。『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)が、2016年、第36回エネルギーフォーラム賞の普及啓発賞、2018年、『復興の日本人論』(グッドブックス)が同賞特別賞を受賞。その他、『そして、ドイツは理想を見失った』(角川新書)、『移民・難民』(グッドブックス)、『世界「新」経済戦争 なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか』(KADOKAWA)、『メルケル 仮面の裏側』(PHP新書)など著書多数。新著に『無邪気な日本人よ、白昼夢から目覚めよ』 (ワック)、『左傾化するSDGs先進国ドイツで今、何が起こっているか』(ビジネス社)がある。

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(作家 川口 マーン 惠美)
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