終戦後の昭和天皇には何が待ち受けていたのか。朝日新聞の北野隆一記者は「GHQの思惑もあって退位しなかった昭和天皇は晩年まで戦争への責任を問われ続けた」という――。
(第3回)
※本稿は、北野隆一『側近が見た昭和天皇』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■弟・三笠宮から問われた進退
神格化された君主から象徴的な存在へ。1945(昭和20)年8月の敗戦から、46年11月の新憲法の公布までの期間は、皇室の存続が危ぶまれ、天皇に近い立場の人たちから退位論が語られた。天皇と民心との距離をどう埋めるか、模索された時期でもあった。
46年2月27日の枢密院本会議。首相や大臣、親王らが出席する天皇の最高諮問機関で、昭和天皇の末弟・三笠宮が立って、手元の紙片を読み上げた。
「現在天皇の問題について、また皇族の問題について、種々の論議が行われている。今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔いを後に残すおそれありと思う」
発言は、遠回しに天皇の進退を問うものだった。厚生大臣として列席した芦田均は、日記に
「陛下の今日のご様子はいまだかつてない蒼白な、神経質なものであった」と天皇の様子を書きとめた。
背景にあったのは、天皇の戦争責任問題だった。
「読売報知」紙が同じ27日、「宮内省某高官」(後に皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)元首相と判明)の話として、天皇が戦争責任を引き受けて退位する計画があり、多くの皇族方も賛成だと報じた。
退位論の発信者は、皇族や側近、政治家ら、体制内で指導的立場にある論者たち。
「天皇制を守るためにも退位が必要」と考えた。
■幻に終わった「昭和天皇出家構想」
同年1月に極東国際軍事裁判(東京裁判)の設置を定めた条例が発効。連合国軍総司令部(GHQ)による戦争指導者らの訴追がすでに具体化していた。
昭和天皇の退位をめぐっては、開戦直前まで首相だった近衛文麿が早くも終戦前の45年1月、「降伏した場合は天皇が出家して仁和寺(にんなじ)に入る」との構想を語っていた。京都にある仁和寺は宇多天皇が平安時代の9世紀に創立して皇室とゆかりが深い「門跡寺院」の一つ。
高橋紘、鈴木邦彦の『天皇家の密使たち 秘録 占領と皇室』(現代史出版会、1981年、文庫版は文春文庫、1989年)によると、退位して「裕仁法皇(ゆうにんほうおう)」となれば戦争責任も追及されない、と近衛らは期待した(文庫版13~14頁)。
天皇自身も揺れた。
降伏直後の同年8月、天皇は側近の木戸幸一内大臣に「自分が一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」と相談した、と木戸は日記に書いている。東京裁判で死刑判決を受けた東条英機らA級戦犯7人が48年12月23日に絞首刑に処された際も、三谷隆信侍従長に「私は辞めたいと思う」ともらした、との逸話が伝わる。
■マッカーサーが天皇を戦犯にしなかったワケ
連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は、昭和天皇を在位させて日本統治に利用しようと考えていた。
東京・赤坂の米大使館で天皇を迎え、初の会見を果たしたのは1945(昭和20)年9月27日。その後、軍事秘書ボナー・フェラーズから、天皇を無罪とすべきだとする報告書やメモを受け取った。

「天皇が戦争犯罪に問われれば、政府の機構は崩壊し、大規模な暴動が避けられないであろう。そうなれば、大規模な派遣軍と数千人の行政官が必要となろう」との内容だった。
翌46年の元日、天皇は詔書を発表した。現人神(あらひとがみ)ではないことを明確にした「人間宣言」だ。ソ連やオランダ、オーストラリアが天皇訴追を主張するなか、マッカーサーは米陸軍参謀総長ドワイト・アイゼンハワー(後の米大統領)に「天皇免責が得策」との機密電を送り、翌2月には米統合参謀本部から天皇免訴が伝えられた。
■昭和天皇が固めた決意
マッカーサーは46年1月、幣原喜重郎首相とも会談。豊下楢彦・元関西学院大学教授や古関彰一・獨協大学名誉教授らの研究によると、「できるだけ早く戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争をしないと決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとすると憲法に明記する以外に、天皇制を続ける方法はないのではないか」という点で一致したという。
マッカーサーは2月、GHQに命じて天皇制存続と戦争放棄を盛り込んだ新憲法案を9日間でつくらせ、日本政府に示した。日本政府が象徴天皇制と戦争放棄を規定した憲法改正草案要綱を閣議決定したのは3月6日だ。
「昭和天皇実録」によると、天皇はこの日の夜、木下道雄侍従次長に、現状では退位の意思はないとの趣旨を伝えた。その2週間後、マッカーサーが天皇訴追反対を米国本国に報告したことが、フェラーズから宮内省(現宮内庁)御用掛に内々に伝えられた。天皇は戦犯訴追の最大の危機を脱した。

■国内外で直面した「戦争責任」
昭和天皇が退位しなかったことは何をもたらしたのか。
『昭和天皇退位論のゆくえ』(吉川弘文館、2014年)著者の冨永望は「1952(昭和27)年発効のサンフランシスコ講和条約以降は、退位論がしだいに下火になり、戦争責任の議論も国内ではうやむやになった」と指摘する。
しかし、外国は忘れていなかった。天皇が71年に訪欧した際、戦争責任の問題を厳しく指摘された。ベルギーでは車に卵、オランダでは魔法瓶が投げられた。英国では歓迎夕食会でエリザベス女王が過去の戦争に触れたのに対し、天皇は訪英の思い出を語るにとどまり、批判を浴びた。
昭和天皇は75年の訪米の際、「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」と述べ、初めて「過去」に触れた。しかし帰国後の10月31日に行われた記者会見で戦争責任について聞かれ「言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねる」と答えた。さらに原爆についての質問には「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないこと」と答え、ともに批判を浴びた。
この記者会見の後、天皇が「自信を失っている」と書かれた侍従の日記の存在が明らかになった。記していたのは、74年に昭和天皇の侍従となり、天皇死去後も2000年まで宮内庁に勤めた小林忍。
共同通信が遺族から日記を入手し、2018(平成30)年8月に内容を報じた。
19年に『昭和天皇 最後の侍従日記』(文春新書)として出版されている。
■侍従長に見せた涙
記者会見後の75年11月22日の日記で小林は、入江相政侍従長から聞いた話として、「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、(略)御自信を失っておられる」との天皇の様子を記している。これに対して入江が「お上の素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど具体的につぶさに申しあげ、自信をもって行動なさるべき」と申し上げたところ、天皇は「涙をお流しになっておききになっていた」とのことだった(47頁、320頁)。
さらに晩年の87年4月7日の日記。天皇は「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と弱音をもらした。これに対し小林はこう励ましたと記す。「個人的には色々おつらいこともおありでしょうが、国のため国民のためにお立場上、今の状態を少しでも長くお続けいただきたい」(192頁、327頁)
昭和天皇の逝去を受けて89年に即位した平成の天皇も海外へ慰霊の旅を重ね、戦争に対する反省の念を示してきた。
冨永は語る。「昭和天皇が退位しなかったことが、天皇が外国の元首と会見する場で戦争について何か言わなければならない前例をつくったともいえる」

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北野 隆一(きたの・りゅういち)

朝日新聞記者

1967年、岐阜県生まれ。90年に東京大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社。
新潟、宮崎県延岡、福岡県北九州、熊本の各市に赴任し、東京社会部デスクや編集委員を経て現在、社会部記者。皇室のほか、慰安婦問題などの戦後補償問題、拉致問題などの日朝・日韓関係、水俣病、ハンセン病、在日コリアン、人権・差別などの問題を取材。著書に『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日新聞出版)、『プレイバック東大紛争』(講談社)など。

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(朝日新聞記者 北野 隆一)
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