※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
■なぜ2代将軍・秀忠は四男の存在を世間に隠したのか
徳川秀忠という将軍は、非常に優秀な息子(四男の保科正之、会津23万石を領する大名で、四代将軍家綱の補佐役として幕政の中心人物となった)を授かりながらも、存在を世間には必死に隠し続けました。これは、おそらく妻であるお江(ごう)の方に対して、後ろめたい気持ちがあったためだろうと思われます。
ただ、このことについて一つ疑問が残るのです。それは、秀忠がなぜそこまで妻に対して引け目を感じ、子どもの存在を隠す必要があったのか、という点です。
一般には秀忠が恐妻家だったのは、お江の方が非常に怖い女性だったから、彼女以外の女性が生んだ子どもの存在を許さなかったのだ、というイメージが伝わっています。しかし、本当にそうだったのでしょうか?
もちろん、現代の感覚ではあってはならないことですが、当時の社会では一夫多妻はごく普通のことでした。また家の存続や繁栄を考えれば、子どもは多ければ多いほど良いという考え方が一般的だったのです。裕福な家であれば当然、跡継ぎとなる子どもが多いほうが望ましい。武士の娘として育ってきたお江の方に、その感覚がわからなかったとは思えません。
さらに、秀忠は、のちの三代将軍となる家光の前にもう一人の男子をもうけています。この子はお江が生んだ子ではありませんでしたが、自らの幼名(長丸)をつけるなどして扱っています。残念ながら、彼は早くに命を落としたのですが、もしもこの子が長生きしていたら、長子相続が慣習化されつつあった徳川幕府において、将軍職を継いでいた可能性もあったのです。
■「正室のお江=恐妻」の真偽
この前提をもって、先ほど触れた保科正之の存在を、秀忠が妻から必死で隠した理由について考えてみましょう。一部には、「もしお江の方に子どもの存在が知られれば、後継者問題などを懸念され、殺されてしまうかもしれない」という極端な見方をする人もいますが、私は以前からそれには疑問を抱いています。
なぜなら、お江の方が秀忠と結婚して数年が経過した時点で、自分以外の女性が生んだ男の子が生まれたものの、これに対して彼女が激怒したという話はまったく残っていないからです。
これを考えてみると、お江の方が特別に嫉妬深い女性であったのだという評価は、彼女に対して気の毒に思えてなりません。
■信長の姪という家柄を恐れたのか
では、なぜ秀忠は恐妻家として知られていたのか。
その他の可能性として考えられるのは、お江の方の実家を恐れていたという説です。
当時、女性が夫に対して居丈高(いたけだか)に振る舞えるのは、一般的に自分の家柄が極めて高貴で、「本来はあなたの家になど嫁ぐ立場ではないのに嫁いであげた」という状況に限られます。
しかし、お江の方には、実は政治的な後ろ盾はほとんどありませんでした。
確かに彼女は浅井長政の娘であり、織田信長の姪にあたる立派な家柄の生まれではあります。
また、彼女は秀忠と結婚する前に二度結婚しており、最初の結婚相手は、尾張の織田一族に連なる佐治一成という武士でしたが、歴史的にはほとんど影響力を持たない小規模な勢力でした。ですから「蝶よ花よ」と大切にされ、政略結婚のために育てられた姫君ではなかったのです。
■徳川と豊臣を結びつける強引な政略結婚
そんな彼女の事情が変わったのは、姉の淀殿が秀吉の側室になってからです。秀吉の意図により、彼女は一度離婚させられ、別の男性と再婚。新たな夫との間に一人の娘を生みました。
ところが、その後、淀殿は秀頼という男子を生んだことで、社会的地位が急激に上昇していきます。淀殿の立場が上がれば、必然的に、妹であるお江の立場も上がります。その結果、再婚相手と死別していた彼女が秀忠の正室候補として浮上することになったのです。
当時、お江が秀忠より7歳も年上で、しかも二度の婚姻歴があり、すでに子どももいたことを考えると、この結婚は、徳川家と豊臣家を結びつけるための、かなり強引な政略結婚だったといえるでしょう。
豊臣秀吉が存命の間は彼女には強い後ろ盾があったかもしれませんが、秀吉が亡くなり豊臣家も滅亡した後には、お江の方には実家というものはなくなります。
また、江戸時代は、特にのちの儒教思想が強まるにつれて、離婚歴がある女性や、すでに子どもを生んだ経験を持つ女性は、残念ながら結婚相手として低く評価されてしまう社会的風潮がありました。
お江の方は、当時の基準に照らすと、夫に対して強い態度を取れるような立場ではなかったはずです。もちろん、夫婦関係というのは外部からはうかがい知れない側面がありますが、少なくとも歴史の表面に見える範囲では、お江の方に秀忠をそこまで支配するほどの背景があったとは考えにくい。
そうなると、考えられるのは、秀忠自身が妻に頭の上がらない、なんらかの事情を抱えていた可能性が高い、ということです。
■戦国武将の武勇伝に抱いていた憧れ
秀忠がお江の方に過剰なまでに配慮した理由として、一番考えられるのは、夫婦間における心理的な関係性でしょう。秀忠がお江の方に対して深い遠慮や負い目を抱いていたため、このような行動を取った可能性が極めて高い。
いかに将軍のほうが立場が偉いとはいえ、夫婦の間のことは他人にはわからないものです。結局のところ、秀忠が妻を恐れ、息子の存在をひた隠しにした理由は、秀忠個人の性格的な弱さや、お江の方の性格的な強さに行きつくのかもしれません。
ここで、徳川秀忠という人物の精神形成を分析するとき、一つ着目したいのが、彼がなぜあれほど戦国武将の話を聞きたがったのかという点です。
秀忠は、戦場で武将たちがどう戦ったかという話を聞くのが大好きでした。伊達政宗や立花宗茂、あるいは織田信長の家臣・丹羽(にわ)長秀の息子だった丹羽長重といった武将たちを身近に置き、戦国時代の戦いの話を熱心に聞き入っていたようです。
特に立花宗茂や丹羽長重に関しては、その人柄を大変気に入っていました。実はこの二人は、かつて関ヶ原の戦いで西軍についたため、一度は領地を没収されていましたが、秀忠が彼らを気に入った結果、少しずつその領地を返還しています。
最終的に立花宗茂は、かつて治めていた柳川城を取り戻して10万石の大名に復帰しました。丹羽長重についても、かつての居城であった加賀の小松ではないものの、福島県の白河に領地を与えられて、再び10万石の大名に返り咲いています。これらの事実を見る限り、秀忠が彼らの人柄や武勇談に大変惹(ひ)かれていたことは間違いないでしょう。
■戦場経験ゼロという将軍のトラウマ
そこで、なぜ秀忠がこのような心情になったのか。それには、やはり彼の生い立ちに関係があるように思うのです。
秀忠という人は、生まれたときから父・徳川家康の後継者として大事に育てられたため、実はほとんど戦場に出た経験がありません。戦国武将として、自ら戦ったという経験も一切ありません。天下分け目の重要な合戦である関ヶ原の戦いでも、彼は遅参しており、結局間に合っていません。
つまり秀忠は、徳川家の将軍でありながら、関ヶ原という最も重要な合戦で実際に戦っていないのです。
この経験は、どうやら彼にとって深刻なトラウマになったようです。
秀忠は、自分が将軍という武士の頂点に立つ立場でありながら、戦場で武功を立てたことがないというコンプレックスを抱えてしまった。だからこそ、実際に戦った武将たちの生々しい戦の話を熱心に聞きたがったのではないか。そう考えるのは、むしろ自然なことだと思われます。
■お江は和田アキ子だったという仮説
そこで私は一つの仮説を思いつきました。お江の方という女性は、もしかすると歌手の和田アキ子さんのようなタイプだったのではないか、という仮説です。
もし彼女が非常に体格が良く、力強くて男勝(まさ)りな性格だったならば、秀忠が彼女に惚れ込んだとしても無理はないと考えたのです。
なお、私がこの説を思いついたことには一つの根拠がありました。お江の方の父である浅井長政は、背が高く体格も非常に堂々としていたと伝えられています。もし彼女がその特徴を受け継ぎ、当時としては大柄な165センチから170センチほどの身長を持ち、男性よりも立派な体格の女性だった可能性はあります。
ところが、残念ながら、この仮説はあっけなく崩れ去ることとなりました。その理由は、徳川秀忠夫妻の遺骨が、東京の芝にある増上寺に埋葬されていることにあります。
増上寺は、二代秀忠をはじめ、六代、七代、九代、二代、四代将軍など、多数の徳川将軍が葬られている非常に有名なお寺です。
ところが、増上寺の徳川家墓地は戦争中の東京大空襲で焼けてしまい、現在の東京タワーの真下という一等地のため、戦後に墓地の整備・移転が行われることとなりました。
その墓地の移転時、徳川家将軍たちの遺骨は詳細な調査が行われています。二代将軍秀忠から皇女和宮の夫であった一四代将軍・家茂(いえもち)までの遺骨はすべて調査され、骸骨は写真撮影され、分厚い報告書としてまとめられています。
その報告書の中にはお江さんの遺骨に関する記録もあり、それによれば彼女はむしろ華奢(きゃしゃ)な体格であったということです。したがって、お江の方は、体格的には和田アキ子さんタイプではなかったようです。
とはいっても、精神的には和田アキ子さんのような包容力と強さを持つ女性だった可能性は、いまだ否定はできません。
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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)