※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
■あまりにも絵が下手だった徳川家光
武士はあくまでも「人」ではなく「家」こそが主役である。そんな徳川家の堅苦しい気風をつくり上げた人物こそ、家康その人でした。
そんな彼の意識が色濃く出ているのが「長子相続」という慣習でしょう。
(2代将軍)秀忠とお江の方の夫婦には、2人の男の子が生まれました。兄は竹千代(のちの家光)、弟が国松(のちの忠長)です。
当初、この夫妻は、弟の国松を将軍にしようと考えました。通常は兄がいる場合、兄を跡継ぎにするのが一般的ですが、彼らは弟を選ぼうと決めたのです。
この問題は、後世には「お江が弟の国松を猫可愛がりし、将軍にしたがったのだ」と伝わっています。中には、
「兄の竹千代は乳母の春日局が育て、弟の国松はお江が自ら育てたから、弟のほうが可愛かったのだろう」
などという説まで出てくる始末です。
本当にそんな感情を、お江の方が抱いていたのか。
こうした疑問を抱いていたところ、とある奇妙な史料を目にする機会があり、私は一つ合点がいきました。その史料とは、徳川家光本人の描いた絵です。それを見たとき、何より驚かされたのはその絵の下手さ加減でした。
■自分を認めない父・秀忠への反発
皆さんも小学生の頃、お絵描きをしたことがあると思いますが、頭のいい子であれば、絵心がなくてもそれなりにうまく描けるものです。三次元を二次元に描き起こすには特別な才能が必要ですが、誰かが二次元化したものを真似るだけなら、絵は描ける。当時よく描かれた鷹や鶏などの上手な絵を模写すれば、誰でも50点か60点くらいは取れるような作品を作り上げられるのです。
ところが徳川家光の絵には、そうした工夫の跡が一切見られません。家光の絵は完全に独創的で、ある意味オリジナリティにあふれていましたが、裏を返せばそれは「真似ることができない、知的能力に問題がある」ことの証明でもありました。実際、あの絵を見た私は、「家光って馬鹿なんじゃないか」と思わざるを得ませんでした。それほどに彼の絵は衝撃的に下手だったのです。
描いた絵をはじめとするさまざまな片鱗から、秀忠とお江の方の夫婦が、「この子ではなく弟に将軍職を譲るべきだ」と考えたのは、自然なことかもしれません。
では、当の徳川家光は、自分の能力をどう思っていたのでしょうか。彼があれほど祖父・家康を敬愛した理由は、自分が弟よりも劣っていることを自覚していたからではないかと私は思います。
■賢明でない人物にもプライドはある
そしてその劣等感が募った末に、弟を最終的に死に追いやるほどの葛藤が生まれたのではないか。つまり、家光のおじいちゃん子という性格には、そうした複雑な意味合いが隠されているように思えるのです。
また、家光は父・秀忠をあまり好まなかったのではないかとも考えられます。弟を後継者に推したことからも、「自分のことを認めてくれない父だった」という思いが、彼の中に強く残っていたのでしょう。
家光は自分の異母弟である保科正之を重用しています。正之自身の技量がすぐれていたことは間違いありませんが、そこには、自分を認めなかった父が同じく認めなかった弟・保科正之に対して、なんらかのシンパシーを感じ、可愛がったのではないかと思うのです。
世の中の二世議員などを見るとよくわかるのですが、あまり賢明でない人物であっても、それなりの自意識やプライド、負けず嫌いな感情を抱いているものです。彼らは、仮に自分の技量が周囲よりも劣っていると知っていても、自ら「私は馬鹿ですから」と認めることなど、まずありません。むしろ、自分なりの考え方や主張を持っているものなのです。
家光の場合も同様で、「お前は馬鹿だ」と周囲に言われても、内心は「この野郎。
■人の上に立つ将軍はバカでもいい
初代将軍である家康から、「たとえ馬鹿でもいいから兄に将軍職を継がせなさい」と言われた秀忠とお江の方の夫婦は、表面上は「わかりました」とその言葉に従いました。ですが、心の内では「あなたは言っていることとやっていることが違うではないか」と感じていたに違いありません。なぜなら、家康自身も次男・秀康を差し置いて、三男・秀忠に後継者の座を譲った張本人だったからです。
もし、家康にその矛盾を指摘したとすれば、おそらく「いや、時代が違うのだ」と反論したことでしょう。
「秀忠を将軍に指名した時代は、能力のある人間を後継者にしなければ徳川家が滅びる危険があった。今や徳川の世は安泰なのだから、多少能力に欠けても長男に継がせるほうが安定する。お前は馬鹿ではないから後継者にしたのだ」
と、言い訳したことでしょう。
しかし、ここで考えるべきことがあります。それは、「そもそも将軍に求められる能力とは何か?」という問題です。
将軍は単純に頭が良ければよいのかといえば、決してそうではありません。徳川幕府がすでに成立し、何年も経て体制が固まってしまえば、人の上に立つ将軍にそれほどの能力は必要なくなるからです。
■だから徳川将軍は15代も続いた
政治や実務は周囲の家臣がこなしてくれるので、将軍はただ人の上に「君臨する」ことができればいい。たとえるなら、現代の二世、三世の政治家にも似通(にかよ)うところでしょう。
この考え方をもってして、「弟のほうが優秀だから、弟を将軍に据えよう」と考えた秀忠夫妻に対して、家康は「その考え方は『お家騒動』を招く」と忠告したのです。
兄が愚かで弟が優秀だとすると、兄をことさら馬鹿扱いして弟を立てようとする争いが起きてしまいます。しかし、最初から「長男が継ぐ」と決めておけば、お家騒動は起こりません。兄は愚かでも家を継ぎ、弟はどれほど優秀であっても将軍にはなれないというルールを作れば、秩序が保てる。
そして、愚かな将軍の代わりに優秀な家臣が政治を執(と)り行えば、江戸幕府は安定して続いていく。家康の思惑は、そこにあったのではないか。そう私は考えています。
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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)