現在、わが国の経済は、物価が下落する“デフレ”から、物価が上昇する“インフレ”へ変わりつつある。
1990年代後半から、わが国は景気の低迷もあり、“価格破壊”などと言われるような物価下落=デフレが続いた。
それが2022年、前年比2.5%に跳ね上がった。昨年7月の消費者物価は前年同月比3.1%上昇した。品目別に、コメの価格が同89.9%上昇するなど食料、日用品の値上がりペースは急だった。
■モノの価値は上がり、お金の価値は下がる
インフレは、わたしたちの日々の暮らしに大きな影響をもたらす。主要都市では不動産価格の高騰が鮮明だ。物価が上昇するに伴い、わが国の金利にも上昇圧力がかかった。預金金利を引き上げる銀行も増加傾向にある。コスト増などにより倒産する企業も増えた。
当面、わが国のインフレ環境は続くだろう。消費者の心理も変わりつつある。人々の心理は「これから物価は上がるだろう」とのインフレマインドに切り替わりつつある。
インフレは、基本的にお金の価値が下がることを意味する。物価の上昇に加えて、株式や不動産などの実物資産の価格は上がりやすくなる。私たちは発想の転換が必要になるだろう。
■「金利のある世界」になってから1年半
消費者物価の変化率を見ると、2021年9月、物価総合指数は前年同月の実績を上回り始めた。2022年4月には、物価上昇率は日銀の目標である2%を上回った。この間、政策当局の物価に対する基調判断も目まぐるしく変化した。それは、内閣府の月例経済報告から確認できる。
2021年1月、内閣府は消費者物価を「横ばいとなっている」と評価した。同年8月、「このところ底堅さがみられる」に判断を修正し、11月に「底堅さがみられる」に引き上げた。2022年3月には「このところ緩やかに上昇している」、5月は「このところ上昇している」、7月は「上昇している」と修正し、足元の評価も、物価は上昇しているとなった。
2021年後半から2022年前半にかけて、わが国はデフレからインフレ環境に変化した。
2024年3月にマイナス金利を解除し、長短金利操作も撤廃した。わが国は金利のある世界に戻った。
■人手不足が物価をさらに押し上げている
物価上昇の要因はいくつかある。まず、初期の段階では、世界的なモノやサービスの価格上昇が影響した。米国では、コロナ禍対策としての大規模な財政出動により、過剰貯蓄が出現した。それが、消費や投資に回り世界的に物価は上昇した。
米利上げの予測から日米の金利差は拡大し、外国為替市場で円が売られた。それに加えて、ウクライナ戦争や中東情勢緊迫化から、エネルギー資源や穀物の価格が上昇した。また、タンカー輸送コストは増え、わが国が海外から輸入するものの価格は上昇した。それによって輸入物価も上昇した。
次に、わが国の人手不足による人件費の上昇だ。わが国の生産年齢人口(15~64歳)は減少している。日銀の短期経済観測の雇用人員指標は、2021年秋以降人手不足が一段と深刻化したことを示している。それによって、人件費の高まりが物価を押し上げることになった。
事業運営に必要な人員、人工知能(AI)などの専門人材を確保するために賃上げを実行し、販売価格にコストを転嫁する企業は増加傾向だ。
さらに、消費者の間で、「物価が上がりそうだ」とのインフレマインドが醸成されたことだ。今年の新米の価格は、場所によって5キロ7800円に高騰した。それでも売れる。先々の値上がりを見込む消費者はわが国全体で増加しているようだ。
■収入は増えないのに、支出は増える一方
今、わが国では、基本的に、賃金の上がり方が物価上昇ペースに追いついていない。そのため、個人消費に勢いはない。
物価の上昇は、わが国で生活する人々の生活環境を劇的に変えた。
それに人件費の上昇が加わり、2025年の食品値上げ点数は2年ぶりに2万品を突破する見込みだ。異常気象による卵や豚肉などの生産減も、食料品価格の上昇に響いた。
食品スーパーに行くと、ここ数年で価格が2倍近く上昇した菓子もみられる。少し前までの、物価が上がらなかった環境のほうが暮らしやすかったと思う人は多いかもしれない。
■不動産や株式に資金を振り向けるしかない
インフレによってモノやサービスの価格は上がり、その分お金の価値は減少する。そのリスクを回避するため、大手の投資家や個人投資家は、株式や不動産(実物資産)に資金を振り向けた。典型例が東京23区の中古マンション価格だ。
東京カンテイによると、7月、23区の平均で1億477万円(70平方メートル当たり)だった。前年同月比の上昇率は38.7%、前月比でも1.4%上昇した。
2021年1月以降、円安の傾向は続いている。
インフレにより国内の金利は上昇した。9月3日、新発10年物国債の流通利回りは2008年7月以来の1.64%に上昇した。財政破綻への警戒感から、当日の30年金利は3.285%にまで上昇した。30年国債が発行されて以降の最高値である。
日銀の利上げ、長期金利上昇で住宅ローン金利も上昇した。マンションの賃料、電力料金の値上がりなどもあり、支出を減らす家計は増えた。交通インフラが充実し、雇用機会も豊富な都市部での生活をあきらめ、地方に移住する人もいる。反対に、コロナ禍で地方に移住した後、「やはり都市がいい」と思い直したものの、住む場所を確保することが難しい人も多い。
■「ゆとりがなくなってきた」が6割超
日銀が公表した6月の「生活意識に関するアンケート調査」では、1年後の物価上昇率予想が12.8%だった。現在の調査方式になった2006年9月以降で最高水準だ。
「生活のゆとりがなくなってきた」と答える人の割合も上昇し、6割を超えた。「ゆとりが出てきた」と答えた人は3.8%しかいない。わが国で、人々の「物価上昇が続きそうだ」とのインフレマインドが醸成されている。
一方、経済の供給サイドに目を向けると、人口の減少により人手不足の深刻化は避けられない。規模の大小を問わず、企業は賃金を引き上げる必要がある。それに加え、トランプ関税などで米国経済が減速する懸念もある。わが国の経済を牽引する自動車分野の業績懸念が高まると、賃上げをできる企業と、難しい企業の差は拡大するだろう。
賃上げが難しく事業継続に行き詰まる、事業者(いわゆる人手不足倒産)は増えると予想される。それが厳しさを増すと、日々の生活を見直さざるを得なくなる消費者は増えるはずだ。
■リスクを恐れていては生き残れない
今後、米欧でみられたように、有権者の不満が高まってわが国の政治体制が不安定化する恐れもある。また、ばらまき政策で財政悪化の懸念が高まると、悪い金利上昇も本格化するだろう。住宅ローン金利の上昇による消費者マインドの悪化、企業の資金繰り懸念が高まる展開も想定される。
1990年以降、わが国ではバブル崩壊の「後遺症」により、リスクテイクを過剰に恐れる個人・企業が増えた。それによって、経済全体で新しい需要創出に取り組む機運(マインド)が失われた。そして、今回、日本経済はデフレからインフレへの重要な転機に差し掛かっている。
今、わが国の個人や企業は環境変化に対応することが求められている。そうした取り組みが遅れると、人手不足の深刻化、物価上昇予想の高まりや金利上昇に対応が難しくなる。私たちや企業経営者は、迅速に発想の転換をする必要がある。
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真壁 昭夫(まかべ・あきお)
多摩大学特別招聘教授
1953年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。ロンドン大学経営学部大学院卒業後、メリル・リンチ社ニューヨーク本社出向。みずほ総研主席研究員、信州大学経済学部教授、法政大学院教授などを経て、2022年から現職。
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(多摩大学特別招聘教授 真壁 昭夫)