なぜ、『ドラえもん』は世代を超えて愛され続けているのか。『パンチラインの言語学』(朝日新聞出版)を上梓した言語学者の川添愛さんは「大人になって読んでも深い含蓄と読み応えがあるし、使われている語彙も多岐にわたり、セリフの表記も面白い」という――。

■『ドラえもん』で初体験する言葉
多くの人が指摘していることだが、『ドラえもん』(藤子・F・不二雄/原作)は大人になって読んでも深い含蓄と読み応えがあるし、使われている語彙(ごい)も多岐にわたる。
この作品から学んだ言葉は多い。私以外にも、「Yロウ」で「賄賂」という言葉を初めて知った人は少なくないはずだ。
後から「そうだったのか!」と気づくことも多い。ライターの形をした道具で、中にシナリオを書いた紙を入れて点火すると周囲の人々がそのとおりに動く「シナリオライター」がlighterとwriterをかけた洒落であることや、「ウソ800(エイトオーオー)」や「流行性ネコシャクシビールス」といったネーミングがそれぞれ「噓八百」「猫も杓子も」から来ていることに気づいたときはさすがに笑った。今でも、ふとしたときに「わすれとんかち」は「薄らトンカチ」から来ているのかな、などと思うことがある。
のび太を始めとする小学生たちも、大人っぽい発言をすることがある。子どもの頃、第3巻「ママをとりかえっこ」でスネ夫がのび太に「公平にみて、きみにも、反省すべき点があるよ。」と言うのを読んだときは、何を言っているか分からなかったが、「ああ! なんとおとななんだこいつは!」(©藤子不二雄Ⓐ先生)と思った。
■「あ」行を使う長母音の表記
今読み返して気づくのは、セリフの表記の面白さだ。藤子・F・不二雄先生の他の漫画にも通じる特徴だが、日本語の長母音(長く伸ばす音)を表記する際に長音符「ー」ではなく、「あ」行を使うことが多い。
たとえば「だれかあ! たすけてえ‼」のように、「か」を伸ばした音を「かあ」、「て」を伸ばした音を「てえ」と表記する。
「だれかー! たすけてー‼」ではないのである。
個人的な感覚だが、「ー」だとそのまま伸ばす感じになるが、「あ」行だと独自のピッチアクセント(音の高低差)が生まれて、独特のおかしみが出るように思う。
第7巻の「山おく村の怪事件」にはパパとママが童謡「どこかで春が」を歌うシーンがあるが、それも「どおこおかあで春が生まれえてる。」「どおこおかあでめえの出る音があするう。」というふうに長音がすべて「あ」行で表記されており、どことなくシュールな感じがする(もっとも、ジャイアンの歌声を表す「ボエー」などの描き文字では、長音符が普通に使われている)。
また、第4巻の「ソノウソホント」では、のび太はひみつ道具を使ってパパに素手で石を割らせ、見物に来たジャイアンたちに「すごうい」と言わせる。ここで、「ご」を伸ばした音を「ごう」、つまり「う」を利用して表現しているのが面白い。「ご」は音声的には[go]なので、それに忠実に表記したら「すごおい」なのだが、「すごうい」の方が発音の際に唇の動きがあってメリハリが出る。余談だが、同じコマのパパのセリフが「へ」「ん」「だ。」と一文字ずつ別のフキダシに入れられているのも、パパの当惑ぶりが分かって面白い。
■クスッと笑える「。」の使い方
また、藤子F作品における句点「。」の使い方についても述べておきたい。セリフに句点のある漫画は他にもある(*1)が、F作品の句点はかなり特殊であるような気がする。
たとえばF作品では、「たすけてえ。」のように「叫び」に近いようなセリフも句点で終わらせていることが少なくない。普通なら感嘆符「!」を使いそうなところでも、けっこうな割合で「。」が使われているのだ。「。」があることで、どんなに切迫した場面でもどこかしら力が抜けている感じがする。
なぜなのかを正確に把握するのは難しいが、一つには、「。」の存在が「これはあくまで書き言葉ですよ」「音声ではなくて文字なんですよ」ということを読者に思い出させ、意識の何割かを「今、自分は漫画を読んでいる」という現実に引き戻す効果があるのかも、と思う。

F先生による「ドラえもん誕生」の中に、トキワ荘に乗り込んできた編集長が若手時代のF先生とA先生を「藤子さん‼ あんたらやる気あるのかないのか。」と怒鳴りつける場面があるが、これも最後の「。」のおかげで少し緊張感が緩和され、クスッと笑える感じになっている。
A先生が『まんが道』等で描く若き日の話は、メガネにヒビが入ったり両先生が真っ黒な影と化したりして「ほんとうにたいへんだったんだなあ。」と思うが、同じ苦労話でもF先生が描くとそこまで深刻そうでない気がするのには、こういった語り口の影響もあるかもしれない。
■スネ夫のマルハラ「ていどひくい。」
その一方で、F作品の「。」には、セリフを発するキャラの意地の悪さや冷酷さを表現する効果もある。
代表的な例は、のび太が作ったプラモに対してスネ夫が言い放った「ていどひくい。」である。もちろん意味の面でもひどいが、最後の「。」があるのとないのとでは全然違うと思うのだ。
というのも、「ていどひくい」(句点なし)だと、何か含みがあるというか、「まだこの後に何か言うのかな?」という余韻が残るのに対し、「ていどひくい。」は完全に「言い切って」おり、そこから先に何のフォローもないことが分かる。
最近の若い人はLINEなどで文末に「。」がついているとなんか怒られている感じがするらしく、「句点のマル(。)によるハラスメント」略して「マルハラ」という言葉も生まれているが、「ていどひくい。」はまさしくスネ夫のマルハラだと言えそうだ。
■有名な感動作「おばあちゃんのおもいで」
これ以外にも「ばらばらのめためたにしてやる。」とか「きれいなジャイアン(*2)」などといった毒をふんだんにぶっ込んでくるF先生だが、感動的な話の「決め」も絶対に外さない。私が好きなのは、第4巻に出てくる「おばあちゃんのおもいで」だ。のび太がタイムマシンでおばあちゃんに会いにいく話で、知っている人も多いと思う。
まず、亡くなったおばあちゃんに道で遭遇し、感極まったのび太が思わず「生きてる。
歩いてる!」と言うところがすごい。子どもの頃はこのセリフにただただ笑っていたが、今考えるとあまりにもリアルだと言わざるを得ない。会いたかった故人が生きて歩いているのを目の当たりにしたら、まさにこういう言葉しか出てこないと思う。
のび太とおばあちゃんの交流も感動的だ。その世界にいるのび太はまだ3歳で、小学生ののび太がママに会ってものび太だと気づいてもらえないし、「じ、じつは、ぼくのび太だよ。」と言っても「かわいそうに。頭がおかしいのね。」と言われてしまう。
しかし、おばあちゃんは違う。のび太が意を決して「信じられないかもしれないけど。ぼく、のび太です」と告白すると、「なんとなくそんな気がしてましたよ」と言う。
それに続くやりとりがこれだ。
のび太:信じてくれるの? うたがわない?

おばあちゃん:だれが、のびちゃんのいうこと、うたがうものですか。
■循環論法と反語法の決めゼリフ
「だれが、のびちゃんのいうこと、うたがうものですか。」は実に奥の深いセリフだ。

まず、おばあちゃんが目の前の少年を「のびちゃん」という固有名詞で指すためには、おばあちゃんにとって「目の前の少年がのび太である」ことが「前提(*3)」、つまり「それまでの文脈ですでに成り立っていて、疑う余地のないこと」でなくてはならない。「うたがいませんよ」「信じますよ」などといった普通の返事とは、のび太に対する「受け入れ度」が格段に違うのだ。
また、このセリフは一種の循環論法にもなっている。おばあちゃんは、「自分(=おばあちゃん)はのび太の言うことを疑わない」ことを前提(*4)にして、「目の前の少年が言う『ぼくはのび太である』ということを疑わない(=つまり、目の前の少年はのび太である)」と言っているわけだが、この推論は「目の前の少年はのび太である」という隠れた前提がなくては成り立たない。つまり、推論によって出てくる結論自体が、前提として用いられているのである。
前提1:目の前の少年が、「自分はのび太である」と言っている。

前提2:私(=おばあちゃん)は、のび太の言うことを疑わない。

隠れた前提3:目の前の少年はのび太である。
結論:私(=おばあちゃん)は、目の前の少年が言う「自分はのび太である」ということを疑わない。(=目の前の少年はのび太である)

もちろん、循環論法自体は推論としては無意味だ。しかし循環論法には「AだからAなのである」という、独特の力強さがある。さらに言えば、おばあちゃんは「だれが~うたがうものですか」という反語法まで使っている。
こういったいくつもの要因が重なって、のび太への愛情が表現されていると考えると感慨深い。

*1 以下の2010年の調査によれば、「小学館の少年誌と青年誌に載る漫画だけ句読点がある」という。

松本圭司(2010)「吹き出しに句読点があるのは少年漫画だけ?(デジタルリマスター)」、デイリーポータルZ、2023年12月18日。

*2「きれいなジャイアン」の分析については、本書『パンチラインの言語学』p.35「今のあの子ではムリ」(『ガラスの仮面』)を参照のこと。

*3 ここで言う「前提」は、言語学用語の「前提(presupposition)」であり、「ある文が適切に発話されるために、それまでの文脈で『真』であることが成り立っていなくてはならない内容」のことである。その次の段落で述べる「前提(premise)」とは異なる概念であることに注意。

*4 論理における「前提(premise)」のこと。推論において、結論を導くための元になる命題のこと。その前の段落で述べている言語学用語の「前提(presupposition)」とは異なる。

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川添 愛(かわぞえ・あい)

言語学者

1973年生まれ。九州大学文学部卒業、同大大学院にて博士(文学)取得。2008年、津田塾大学女性研究者支援センター特任准教授、12年から16年まで国立情報学研究所社会共有知研究センター特任准教授。

専門は言語学、自然言語処理。現在は作家としても活動している。主な著書に『ふだん使いの言語学』(新潮選書)、『世にもあいまいなことばの秘密』(ちくまプリマ―新書)、『言語学バーリ・トゥードRound 2 :言語版 SASUKEに挑む』(東京大学出版会)、『「わかってもらう」ということ』(KADOKAWA)など。

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(言語学者 川添 愛)
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