■「秀吉」=「猿」を裏付ける文書?
「サルめ、やりよるわ!」
時代劇で信長が、そうつぶやいたりする。
豊臣秀吉がまだ身分の高くない時代に「サル」と呼ばれていたことは、あたかも歴史的事実のように広く認識されているが、実は、若き日の秀吉がそう呼ばれていたことを示す史料の多くは後世に書かれたもので、歴史的な裏付けは、実は無い。
いや、実は唯一、秀吉が信長から「猿」と呼ばれていた……かもしれない文書が一通だけ遺されている。
肥後熊本藩主細川家に伝わる「織田信長黒印状」(永青文庫蔵・重要文化財)である。
天正六(1578)年のものと思われるこの文書は、信長から長岡兵●(部、こざとへんのみ)大輔(細川藤孝)、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、瀧川左近(滝川一益)、惟任日向守(明智光秀)に宛てたもの。
猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、
又一若を差遣候、其面無油断雖相聞候、猶以可入勢候、
各辛労令察候、今日之趣徳若ニ可申越候也、
三月十五日 (天下布武朱印)
長岡兵部大輔とのへ
惟住五郎左衛門尉とのへ
滝川左近とのへ
惟任日向守とのへ
内容は「猿が帰ってきて、昨夜の様子をつぶさに言上した。まず、そのようにすることが大切である。一若を差し遣わすので、その向きは油断なく聞くことであろうけれど、なお以て入念に当たって欲しい。各々の心労のほどは察する。この趣は徳若にも伝えて遣わすものである。」というもの。
要件は「使者である一若と徳若から聞いてくれ」ということで、この文書だけではサッパリ意味が解らないが、一応、時代背景は判明している。
肥後熊本藩主細川家の家譜『綿考輯録』一(藤孝公)によると、この信長文書は天正六(1578)年の丹波攻めの際に発給されたもの。
そんな彼らに信長は「猿が帰ってきて、昨夜の様子を詳しく報告した」というのである。この「猿」は秀吉だろう、と飛びつきたくなるのも歴史好きの人情だろう。
しかし、である。
天正六年の三月、秀吉は播磨にあって、三木城に籠る別所長治を攻めている真っ最中であった。その秀吉が、わざわざ信長のいる安土に帰って、さらに丹波攻めに有効な情報を伝えたとは、ちょっと考えにくい。
それに、この時の秀吉は、かつての木下藤吉郎ではない。既に信長の幕僚たる武将のひとりであり、官途もいただいて羽柴筑前守となっている。本人相手になら「猿めェ」などと呼びかけることはあったかもしれないが、他の幕僚へ宛てた手紙の中で、同僚の幕僚を貶めるような呼び方はしないはずである。
■織田信長の「猿」たち
してみれば、この文書の「猿」とは何だろうか?
信長からメッセージを託された一若と徳若は、信長の近くに仕える「小者」だったと考えられる。「コモノ」だからといって、とるに足らない者とばかりはいえない。
武家に仕えて下働きをする奉公人「小者」の中には、主人の密命を受けて諜報活動にいそしんだり、敵を攪乱させる噂をふりまいたりする、いわゆるラッパ・スッパ、つまりは忍者のようなはたらきをする者もあった。
では、この文書に出てくる一若がその人かといえば、違うような気がする。
江戸時代の商家では、どんなに立派な名前を持っていても、丁稚として奉公したら「○吉」にされてしまうのが倣いだった。長右衛門は長吉、清兵衛は清吉、仙太郎は仙吉にされた。大坂では「○どん」だ。少し出世して手代になると「○助」、番頭になれば「○兵衛」と、名前を見れば、その店の中での序列が解った。すべての商家で一様に、ではないが、そういうものだった。
たとえば「○阿弥」という名前は、本来は阿弥陀仏を信仰する時宗僧の法号だったが、室町時代になると、武家に仕えて調度の管理をしたり、茶を点てたりする「坊主」は、一様に○阿弥と呼ばれ、自らもそう称するようになる。
察するに「○若」は、信長の身近な小者につけられたニックネームではあるまいか。一蔵でも、徳兵衛でも、信長の小者になったら、一若になり、徳若になる。
そして、そういう諜報活動をする小者の総称が「猿」だったのではないか。
伊賀の藤林左武次保武が著した忍術書『万川集海』には、「猿のように軒下に潜んで敵の内証を探る役」として「簷猿(のきざる)」という呼称が紹介されている。
どうやら軒猿とは、ホンモノの忍者ではないまでも、しょろっと諜報活動もできる者を指すようだ。機転が利いて、人を垂らし込むのが巧くて、必要な情報をしれしれと引き出して、上手に立ち回る……なんだか若き日の秀吉そのもの、のようではあるが、そういう「猿」たちが、信長のまわりにはたくさんいたのだろう。
「諜報活動をしている小者が帰ってきて、様子を詳しく報告してきた。その小者である一若と徳若を使者として遣わすから、よく話を聞いて対応するように」
信長は、そう伝えてきたのだろう。
■「サル」と呼ばれたかった秀吉
信長が秀吉につけた正真正銘のあだ名は、実は「ハゲネズミ」だった。信長が、秀吉の夫人である「おね」に宛てた手紙『羽柴秀吉室杉原氏宛消息』(大阪城天守閣所蔵)には、「あのハゲネズミは、お前にはもったいない」という内容がしたためられている。家来の女房に気を使う、信長の一面が垣間見える史料だ。なるほど、肖像画をよく見ると、小柄で貧相な感じは、サルというよりネズミに近いかもしれない。
「サル」というあだ名は、秀吉の捏造である――といったら、「そんなことをしても、メリットがない」と反論されるかもしれないが、いや、メリットはあったのである。
秀吉が低い階層の出身であったことは、よく知られている。このために彼は大変苦労し、武士となり、武将となった後も、たびたびぞんざいな扱いを受けたらしい。
たとえば、武家の頭領としての征夷大将軍には、鎌倉時代以来の伝統をもって源氏の血を引く者しか就任することができなかった。多少の例外はあるが、鎌倉幕府の頼朝、頼家、実朝はもとより、室町幕府を開いた足利家も、江戸幕府を開いた徳川家も、名目上は「源氏」である。
もちろん、そう都合よく源氏の子孫ばかりが実力者になるわけではない。徳川家にしても、松平姓を用いていた頃は、賀茂氏の子孫とも、藤原氏の子孫とも称していた。桶狭間の戦いでの今川義元が討死したことにより、今川氏からの独立を果たしたのを契機に家康は、松平姓を徳川に改め、正式に源氏を名乗るようになるのである。おそらくもうこの時に家康は、ゆくゆくは将軍となって幕府を開くことを夢見ていたのだろう。
つまり、本当に源氏の子孫かどうかはどうでもよく、「前例として源氏が征夷大将軍になるものだから、その良き前例を守る」という、秩序尊重の姿勢を見せることが重要だったのだ。北条早雲の「北条」も、織田信長の「自称平氏」も、そうした捏造によるものである。
■日吉神社と猿
したがって秀吉も、しれっと「源氏です」などと言ってしまえばよかったのだが、それにはあまりにも「身分の低い庶民の出」ということが知れ渡り過ぎていた。そこで秀吉はまず、信長に将軍職を剝奪された足利義昭の養子になろうとした。しかし、そこは落ちぶれたりとはいえ元将軍である。
とはいえ秀吉も、捏造のために涙ぐましい努力……というより、噴飯モノのこじつけを重ねている。
御伽衆の大村由己に書かせた伝記『天正記』の「関白任官記」には、「秀吉の母である大政所は実は萩中納言という貴族の娘であり、いちど宮仕えした後に尾張に来て、秀吉を生んだ」とある。暗に、「天皇の御落胤である」ということを窺わせようとした作文であるが、大嘘の皮であることはいうまでもなく、当時でさえ信じる者は稀であった。
そこで、せめて「全くの庶民の出ではない」ことを宣伝したかったのか、関白に任官した頃から、「日吉(日枝)神社に由来して、幼名を日吉丸といった」という話を広めはじめた。その頃から「猿」というあだ名で呼ばれることが多くなってくるのである。なぜなら、日吉神社の御前神(みさきがみ)……つまりお使いが「猿」であった。
■生年月日も捏造
日吉神社の有力な社家に樹下という家がある。ジュゲと読むのだが、訓読みすればキノシタになる。「幼名の日吉丸は、日吉神社に由来する」というウソも100回つくと、「秀吉が昔名乗っていた木下という苗字は、ひょっとして日吉神社の神官の樹下さんと関係あるの?」なんて思うひとも出てこないでもない。
このために、秀吉は、本当は天文六(1537)年の生まれにもかかわらず、その前年の生まれだと詐称するようにさえなるのである。
末世とは別にはあらじ木の下の猿関白を見るにつけても――これは、天正十九(1591)年二月に京で詠まれたという落首である。
猿関白とは、貴族の猿真似をする秀吉を揶揄したものだが、この頃には、秀吉=猿=日吉神社=神主=樹下=木下=ひょっとして秀吉も神官の出? 的なインチキ連想ゲームが、定着しつつあったのかもしれない。
----------
髙山 宗東(たかやま・むねはる)
近世史研究家、有職故実家
歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター協力研究員、大阪市ワインミュージアム顧問、昭和女子大学非常勤講師(日本服飾史)などを務める。専門は江戸時代における戦国大名家関係者の事跡研究、葡萄酒伝来史、有職故実、系譜、江戸文芸、食文化、妖怪。
----------
(近世史研究家、有職故実家 髙山 宗東)