■多くのプロ野球選手を育てた重鎮が山奥の高校で野球を教える理由
小鹿野と書いて「おがの」と読む。秩父のさらに山奥で埼玉県の西の端に位置する、人口約9900人の町だ。
鉄道が通っていないので町の中心部に行くには西武秩父駅からバスで45分ほど揺られる。秩父多摩甲斐国立公園の山々が近く、幹線道路では「鹿など獣に注意」といった看板を見かける。
筆者が小鹿野高校野球部の試合を初めて観戦したのは2012年の夏の埼玉大会だった。
プロアマを通じた球界の重鎮・石山建一氏(83歳、以下敬称略)が、そんな山深い高校の野球部の外部コーチをしていると聞いたからだ。
早稲田大学野球部出身の石山は早大、プリンスホテル野球部監督などを歴任しただけでなく、読売巨人軍のフロントである編成本部長も務め野球界の王道を歩いてきた。
元阪神監督・岡田彰布氏(早大出身)ら数多くのプロ野球選手を育て、故長嶋茂雄氏からも一目置かれた存在だ。
巨人退団後はその経験を買われて、全国の高校から臨時コーチなどの指導オファーが続いた。金足農(秋田)、日本文理(新潟)、菰野(三重)などを甲子園に導いていて指導力には定評があった。その力を借りようと小鹿野も石山を招聘し強化に乗り出していたのだ。
当時、小鹿野は生徒数が減少し、周辺の学校と合併するとか最悪のシナリオとしては廃校もありうる、という噂が出ていた。
「大物」の外部コーチ招聘は簡単ではない。現在、地元の秩父盆地野球振興会副代表理事である大塚勝はまず、露払いとして、子供向けに石山の野球塾を開く企画を立てた。
「町おこしを含めて、小鹿野をどうするかということは町長、校長、PTA会長らがいろいろ会議をしてきました。同窓会長が野球びいきの人だったときに野球で盛り上げていくのはどうか、ということになった」
石山はそのころ、同じ埼玉の狭山ヶ丘高校の外部コーチをしていて、そこに小鹿野野球部監督の息子がいて、小鹿野も見てもらえないかと石山の名前が浮上する。そして、小鹿野野球部に在籍中だった大塚の長男が石山の即席指導を受けた。
大塚はその強烈な記憶を語る。
「(長男は)ホームランなんて一度も打ったことがなかったのに夏の大会前に打った。打球音が変わったんです。息子を含む同級生4人が卒業すると、小鹿野高校単独で公式戦に出られなくなる。新年度に部員が来てくれるために石山先生の名前を借りようということになりました。有志3人でお金を出し合って石山塾を立ち上げた。また当時の校長が賛同し、100万円単位の私財を供出してくれて繋ぐことができました」
町も賛同し、NPO法人を作って正式に契約したのが2012年の春だった。
■強豪・浦和学院相手に唯一、爪痕を残せたチーム
同年夏、抽選の結果、小鹿野が埼玉大会の初戦で対戦することになったのは、優勝候補の浦和学院だった。石山は苦笑いするしかなかった。
「浦和学院も以前、教えていたことがあって、(埼玉に)200校もあるんだから、当たるわけないと思っていたら、初戦でぶつかるんだもん」
先攻の小鹿野は初回、先頭打者が幸先よく二塁打を打ったが、相手は全国区の強豪だ。後続打者はあっけなく抑えられた。
だが、部員集めに苦しむ僻地の公立校である小鹿野が、野球のレベルは段違いの敵に果敢に挑み、食らいつく姿は見る者の心を打った。
石山仕込みの基礎の徹底、一球一打諦めないという方針が選手全員に浸透していた。
序盤の小鹿野のピンチの場面では、ダブルプレーを取った。観客の多くはコールドゲームでの敗戦を予想していたが、終盤には当時1年生で翌年センバツの優勝投手になる小島和哉(早大から現千葉ロッテ)を引っ張り出した。
結果は、0対6。
ジャイアントキリングとはならなかったが浦和学院はこの埼玉県大会で優勝し、甲子園に行った。地方大会5回戦までのほとんどの試合でコールド勝ちという圧倒的強さ。
そんな中、小鹿野だけがコールド負けを免れたことは今でも仲間内では語り草だという。
小鹿野はその後、着実に力をつけた。2年後の2014年夏の埼玉大会は一つ勝って3回戦は伝統校上尾に4対5と善戦。
16年の秋の県大会では私学強豪の本庄一に逆転負けを喫するが一時は大量リードした。この試合に勝っていれば春の甲子園「21世紀枠」の推薦校になっていた可能性もあった。
球界で選手・指導者として長年の輝かしい実績のある石山の強力なサポートがあったとはいえ、なぜ、山奥の弱小高校がじわじわと強くなることができたのだろうか。
■引きこもりの子を復活させた83歳の元読売巨人軍編成マン
チームの特徴は活発な打線だ。歌舞伎の拍子木のようにリズムよく連打が続くことから「歌舞伎打線」といわれ、応援席にも「連打! 歌舞伎打線」の横断幕が常にある。
実は、小鹿野高校は町おこしを兼ねて、町が援助して寄宿舎生活を送れる山村留学生を以前から募っていた(来年度以降は未定)。
その制度開始時は民間の老舗・須崎旅館の女将が趣旨に賛成し、部員を受け入れた(2年目からは国民宿舎の両神荘に移る)。
そこは野球部だけの寮ではなくて一般生徒、一般客と一緒の宿舎でもあるため閉鎖的にはならず、今夏に広島の広陵高校で問題になった寮内の暴力事件なども起こりにくい環境だった。
ある父兄は「専用の合宿所だと親御さんでも訪問できないなどの規則もあるようですが、ここは自由なので食材なども持っていきやすい」と話す。
さらに一般客と入り交じる施設で生活するということは社会性も学べるというプラスαがあった。
石山は自慢げにこう話す。
「挨拶などの礼節や風呂の入り方など一般常識が身について、やんちゃな高校生が更生されるケースも多かったんです」
甲子園を目指すという目標を持った部活と、山村留学という学校の方針はマッチし、ある年の野球部員は3学年で30人に増えた。それにより単に野球部が強くなった、というだけではなく、高校生を大人へと成長させていったのだ。
初期のころ、東松山市の老舗料亭の御曹司が小鹿野野球部に入部してくる。実は小学校の時から引きこもっていた不登校児童だった。
石山が「将来は“管理職”になるんだから野球を通して勉強してみては」と口説いて、親はダメもとで山村留学させたという。すると、これが大化けした。
石山が振り返る。
「親御さんは、警察や学校からいつ呼び出しがあるか、毎日、気が気でならなかったらしいけど、しっかり授業や部活にも参加できて、仲間に支えられて無事に卒業できた。しかも、推薦で大学に合格して、体育会のゴルフ部で頑張ってキャプテンになって、社会人アマチュア大会で入賞するまでになった」
人生の崖っぷちにいた中学生は小鹿野高校野球部で人生を見事に再生させることに成功したのだ。
こうした事例は他にもあって、石山は母子家庭の生徒が忘れられないという。
「旦那さんの家庭内暴力から母子は逃げていて、長瀞に流れ着いて身を隠すように生活していました。小鹿野で野球をやるんだけど、貧乏でバス代がなくて通学できないっていうから、地元の人が廃棄寸前のオートバイを探してくれて、3年間続いた」
この生徒もやはり推薦で大学に行って、現在も野球を続けているという。
前出の須崎旅館の社長と女将夫婦は今年の大学野球選手権の東海大学対早稲田大学戦を観戦した。小鹿野卒の長男が東海大の4年生で学生コーチをしていて、早大にコールド勝ちを収めた。チームの一員として、欠かせない存在となったのだ。
女将は言う。
「小鹿野の野球部から大学でも頑張ってくれた。すべては石山さんとのご縁のおかげです」
須崎旅館は今では山村留学の生徒受け入れをしていないが、毎夏の埼玉大会に向けた小鹿野野球部の出陣式の会場になっていて、今年も6月中旬に行われた。
石山のここでの外部コーチ歴は15年以上。これほど長く続いているところは他にない。部員が少ない分、石山と選手、その親とは近い距離感にある。試合の後など、石山は父兄に囲まれる。
「どの親御さんがどの選手の保護者かすべてわかっています。ケガした時や調子の良し悪しを直接伝えると、安心してくれますね」
部員の技術指導だけでなく、心の成長なども親に適宜フィードバックしているのだ。
「ここには指導者としての醍醐味がある」
孫、ひ孫のような年の差のある選手が山奥の学校のグラウンドでボールを追う様子を石山はやさしく見守りながら、頷いた。
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清水 岳志(しみず・たけし)
フリーランスライター
ベースボールマガジン社を経て独立。総合週刊誌、野球専門誌などでスポーツ取材に携わる。
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(フリーランスライター 清水 岳志)