■「丸山ワクチン」とは一体どういうものか
『アンパンマン』の作者・やなせたかしさん、その妻・暢(のぶ)さん夫妻をモデルにしたNHKの連続テレビ小説「あんぱん」が最終話を迎えました。
最終話近くでは、日本テレビのアニメ『それいけ!アンパンマン』が始まり、北村匠海さんが演じるやなせさん、今田美桜さんが演じる暢さんが喜び合う姿は幸福感に溢れていましたが、暢さんは乳がんであることがわかり、手術を受けることに。退院後「今年の桜は見られないかもしれない」とつぶやく暢さん、そんな暢さんを励ますやなせさん。実際には、暢さんはその後も5年間は元気に過ごされたそうですが、その理由が「丸山ワクチン」を使用したからだという説を見て驚きました。
丸山ワクチンとは、日本医科大学の丸山千里博士が開発した結核菌由来の抽出物です。もともとは皮膚結核の治療を目的に研究されましたが、肺結核患者に肺がんが少ないという観察に基づき、がん治療への応用が試みられました。1970年代には抗悪性腫瘍剤として承認申請されたものの、有効性が確認できず未承認のままです。
ただし、研究継続は認められ、その後も例外的に「有償治験薬」として、患者が実費を負担するかたちで使用が可能となっています。
■暢さんの病気の詳細は正確にはよくわからない
さて、まさに先日、医療ジャーナリストの木原洋美氏による「『あんぱん』では描けない、やなせたかしが晩年に明かした後悔…“余命3カ月”の妻・暢と過ごした“最期の5年”」という記事がプレジデントオンラインに掲載され、丸山ワクチンについていろいろと記されています。
この記事によると、暢さんの乳がんについて「緊急入院し、即日手術を受けた後、担当医から別室に呼ばれたやなせさんは、『奥様の生命は長く保ってあと3カ月です』と告げられる」とあります。
また、「病気のことは誰にも明かさないまま仕事を続けていたが、異変に気が付いたのは漫画家の里中満智子さんだった。事情を聞かれ、生命があと3カ月と宣告されたことを打ち明けた。すると思いがけない提案をされる。『私も癌だったの。私は手術がいやで、丸山ワクチンを打ち続けて7年目に完治したの。試してみませんか』」と書かれています。しかし、里中満智子さんのインタビュー記事を見ると、初期の子宮頸がんに対して円すい切除手術を受けているのです。「7年目に完治」の意味はよくわかりませんが、丸山ワクチンなしでも普通に起こり得る経過です。
やなせさんは医学の専門家ではありませんし、記憶違いもあるでしょう。そのため、このような「体験談」から病気の実際の経過を正確に知ることは困難です。
■42万人以上が使っても承認されない理由
この記事では、「42万人以上が使用、それでも“認可されない理由”」として、丸山博士の功績を嫉んだ有力者による圧力が背景にあると指摘しています。もしかすると、丸山ワクチンが開発された1970年代にはそのような圧力があったのかもしれません。
しかし、2025年現在にいたるまで丸山ワクチンが認可されていない理由は、もっと単純です。それは、丸山ワクチンが効くことを示す質のよいエビデンス(臨床的根拠)が存在しないからです。
丸山ワクチンに本当に効果があるなら、【丸山ワクチンを投与した群】と【プラセボ(偽薬)を投与した群】とを比較したランダム化比較試験で有意差が出て効果を示せるはずです。比較試験なしに、何十万人という使用実績のみで、承認するわけにはいきません。それは適切な比較を行わない限り、丸山ワクチンに本当に効果があるかどうかを判断できないからです。使用実績だけでは薬が効いたのか、もともとの病気の経過や他の治療の効果なのかを区別できません。
■余命宣告より長く生きることは少なくない
すると、「でも、やなせたかしさんの妻には効果があった。余命3カ月と宣告されたのに、5年以上も生きられたではないか」という反論が出ることが予想されます。確かに、短い余命を告げられた患者さんやご家族にとって、その後思いがけず長く生きられれば、治療の効果だと信じたくなるのは自然なことです。
しかし、そのような「体験談」は丸山ワクチンの有効性を示す根拠にはなりません。
余命宣告が正確だったとしても、それを大きく超えて長生きする患者さんも一定の割合で存在します。一般的に余命は生存期間の中央値のことを言います。つまり「余命3カ月」とは、「同じような病態の患者さんが100人いたとしたら、そのうちの50人は3カ月以内に亡くなる」ということです。残りの50人は余命よりも長生きするどころか、割合としては小さくなっていきますが、数年以上も長生きする人もいます。
■あやしい治療法にも「体験談」だけはある
そもそも「余命3カ月と宣告されたが5年生きた」といった体験談は、たいていのあやしい治療法でも繰り返し語られるもの。こうした体験談の裏には、余命宣告が不正確だったり、標準治療を併用していたりなどの隠された事情があります。中には、そもそもがんではなかったとしか思えない事例もあります。
そうした科学的根拠がなく体験談のみに基づいた治療は、患者さんの不利益になります。効果が不確かなまま高額な費用を払ったり、標準治療を受ける機会を失ったりするリスクがあるからです。
医療においても、EBM(根拠に基づいた医学)という概念のなかったころは、「効果がある」と誤認されたことで、多くの患者さんが効果のない治療を受けさせられました。医療に関わるすべての人は、この教訓を忘れず、「体験談は決してエビデンスになりえないこと」を十分に承知しておかなければなりません。
では、体験談でなく、臨床試験ならどうでしょうか。「副作用はほぼないが効果も証明されていない…そんな『日本独自の薬』が50年以上販売され続けているワケ」で詳しく解説した通り、丸山ワクチンのランダム化比較試験は、子宮頸がんに対する放射線療法と並行して投与する方法で複数実施されていますが、その有効性は示されていません。
■2006年の「第3相ランダム化比較試験」
2006年に行われた丸山ワクチンの「第3相ランダム化比較試験」では、実際の臨床で用いられてきた「丸山ワクチンA液(2μg/mL)」と「丸山ワクチンB液(0.2μg/mL)」を交互に投与する方式は採用されませんでした。なぜか実薬群として【A液の20倍の濃度の40μg/mL】、対照群として【丸山ワクチンB液】が投与されたのです(※1)。
臨床試験では、実薬群と対照群を比較して統計的に有意差があるかどうか――つまり効果があるかどうかを検証します。ですから、丸山ワクチンが効くと思っているなら、対照群にはB液ではなく、生理食塩水などのプラセボを使うはずです。
しかし、木原氏は「丸山ワクチンは効くと確信しているからこそ、低用量でもワクチンの成分が入ったプラセボを用いることを選んだという解釈もできる」「丸山千里氏は0.2μgのB液こそが本命だと言っていた」と述べています。理解不能です。
なお、2006年の第3相試験では、予想に反して薄いB液を投与された対照群のほうが実薬群よりも生存率が高かったという結果が出ました。「B液が効いた」「偶然誤差」「濃度の濃い丸山ワクチンが有害」といった可能性があります。
※1 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16360199/
■2014年の「第3相ランダム化比較試験」
木原氏は、この結果について「(実薬群の)5年生存率は42%ぐらいでしたが、当時の日本産婦人科学会のがん登録の結果が約40%ぐらい」であることをもって、丸山ワクチンが「『有害である可能性』を指摘する根拠はない」と主張していますが、医学的に間違っています。
臨床試験には、貧血や血小板減少がないといった適格基準をクリアしていなければ参加できません。一方、日本産婦人科学会のがん登録者の中には造血機能が低下しているなど基準をクリアできない人も含まれます。治療後の経過も、厳密に管理される臨床試験のデータと、より多くの幅広い患者さんが含まれるがん登録のデータでは条件が違うのです。だから単純に比較はできません。
その後、2014年に、実薬群には【丸山ワクチンB液】、対象群には【生理食塩水】を投与した「第3相ランダム化比較試験」の論文が出ています(※2)。実薬群において生存率がよい傾向はあったものの有意差は認められませんでした。丸山ワクチンに効果がない、もしくは効果はあるが検出力不足で有意差が出なかったという可能性があります。
※2 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24569914/
■アジア7カ国共同のランダム化比較試験
この結果を受け、対象者600人超と症例数を増やした、アジア7カ国国際共同の新たなランダム化比較試験が行われました。検索すれば、製薬会社のサイトに「主要評価項目である全生存期間において有意差が認められなかった」という記述があるのは、すぐにわかります。
しかし、2022年に研究が完了しているにもかかわらず、2025年9月の段階でも私の検索した範囲内では論文として発表されていません。有意差はないとしても傾向ぐらいはあったのか、気になる有害事象はどうだったのか、正確な投与プロトコルは……などの研究の詳細は不明のままです。
ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則を宣言したヘルシンキ宣言では、「研究者は、人間を対象とする研究の結果を一般的に公表する義務を有し報告書の完全性と正確性に説明責任を負う」とされています。その説明責任は果たされていません。
■臨床試験は倫理的責任を負って行うもの
木原氏は「この臨床試験では不思議なことに、『通常A剤とB剤を隔日で交互に皮下注射する』のが基本の丸山ワクチンを『2週間に一度』の投与に留めている。有意な結果が出なかったのは当然なのではないだろうか」とも述べています。
もしも「有意な結果が出なかったのは当然」といえる設計の臨床試験が実施されたなら、重大な倫理問題でしょう。臨床試験は、人体実験のようなもの。それが許されているのは、ひとえに未知の知見を得て将来の患者に資するという科学的妥当性がある場合に限られます。実際のところは、この研究のスポンサーは丸山ワクチンの製造会社で、主任研究者は同剤の臨床試験を継続してきた医師であり、投与方法は彼らが定めたプロトコルに基づいています。過去の論文を見れば明らかなとおり、放射線療法後に「2週間に一度」投与するスケジュールは一連の臨床試験と同一です。
医療ジャーナリストを名乗るなら、「不思議なことに」と書く前に、製薬企業や主任研究者へ「なぜ実臨床で用いられてきたA液・B液の交互投与を検証しなかったのか」を取材してほしいところです。
■なぜ丸山ワクチンは使い続けられるのか
丸山ワクチンは、臨床試験では結果を出せませんでした。しかし、利点が2つあります。一つは害が小さいこと。高濃度(40μg)では毒性の懸念がありますが、実際の臨床で用いられているものは低濃度で安全です。もう一つの利点は、がんの自由診療としては費用が安いこと。丸山ワクチンは自費ですが、1クール分(20本、40日分)で9000円です。有害かもしれない高額な自由診療を選ぶぐらいなら、丸山ワクチンのほうが無難でしょう。がんを診る臨床医のあいだで丸山ワクチンが「水のようなもの」と評されつつも完全排除されていない一因には、こうした背景があると私は考えます。
なお、私が現時点で主要な臨床試験登録サイトを確認した範囲では、丸山ワクチンの進行中/計画中の試験は見当たりません。製薬会社としては、臨床試験を行わなくても薬は売れ続けるので、積極的に臨床試験を行う動機に乏しいのです。これまでコストをかけて何度も臨床試験を行った挙句、否定的な結果が出てしまったので、もう新たな臨床試験は行わないのかもしれません。
今後も、効くのか効かないのかよくわからないまま、おそらく効かない丸山ワクチンは使われ続けるのでしょう。効果があるなら臨床試験で示すべきですが、印象的な体験談、臨床試験の不適切な解釈で擁護してくれる医療ジャーナリストがいるうちは製薬会社は安泰です。本当に必要なのは、丁寧な検証と批判的吟味を担う健全なジャーナリズムです。
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名取 宏(なとり・ひろむ)
内科医
医学部を卒業後、大学病院勤務、大学院などを経て、現在は福岡県の市中病院に勤務。診療のかたわら、インターネット上で医療・健康情報の見極め方を発信している。ハンドルネームは、NATROM(なとろむ)。著書に『新装版「ニセ医学」に騙されないために』『最善の健康法』(ともに内外出版社)、共著書に『今日から使える薬局栄養指導Q&A』(金芳堂)がある。
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(内科医 名取 宏)