9月29日スタートの朝ドラ「ばけばけ」(NHK)は、明治時代、日本に帰化した文学者ラフカディオ・ハーンと妻セツがモデル。セツの故郷・島根県松江市で史料を調べた長谷川洋二さんは「セツはサムライの世が終わった、まさに激動の時代に生まれた」という――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。ドラマ「ばけばけ」(NHK)のネタバレが含まれます。
■トキのモデル、小泉セツの両親のプロフィール
出雲18万6千石の城下町松江の、上級士族の屋敷が立ち並ぶ静かな南田町(みなみたまち)の一角。
東は堀を背にし西は中之町の通りに面して、門越しに松江城を望む小泉邸に、一人の女の子が産声を上げた。時は慶応4年(1868)2月4日。生まれた子はセツと名づけられた。
小泉家は代々300石を食(は)み、50人の組士の侍を統率する番頭(ばんかしら)を務めてきた家柄であった。松平出羽守(でわのかみ)に仕えて出雲・隠岐の民30数万人を支配した、およそ3千人の侍の中で、足軽などを除くいわゆる士分の侍(本士)は、ほぼ千人を数えたものである。その中でも、家老・中老・番頭の3職を務める家は、約50家あって上士(じょうし)と呼ばれ、藩公への御目見(おめみ)えが許され、また、広く敬意の目で仰ぎ見られたもので、小泉家も、そうした由緒ある家の一つであった。
セツの父親の小泉弥右衛門湊(やえもんみなと)は、当時満31歳で、前の年の9月に、父7代弥右衛門岩苔(がんたい)の病気引退の後を受けて、家督を相続したばかりである。彼は小柄ながらも意志強固で、しかも覇気に富んだ侍であった。青年時代から武芸に秀でていた彼は、当時、藩の習兵所の取締役を務めていたし、幕末の激動期にあって、あるいは京都の守衛に、あるいは長州戦争での1隊の指揮に、その力量を発揮してきた。

一方、セツの母親のチエは、当時満30歳になっていたが、「御家中(ごかちゅう)一番の御器量(ごきりょう)」と褒めそやされた美人であった。また、彼女は14歳で花嫁として小泉家に迎えられるまで、松江城三の丸御殿を真向かいにした塩見家の広壮な屋敷で、名家老増右衛門の一人娘として、30人近くの奉公人にかしずかれて生い育った女である。
■本当の名前は「セツ」か「節子」か?
ドラマ「ばけばけ」(NHK)のヒロインのモデルであり、このたび新版を上梓した著書『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の主人公の名は、相当数に上る戸籍手続きの資料のすべて及び墓碑において、「セツ」である。のちに夫となったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は一貫して「セツ」と呼び、「Setsu」と書いた。
しかし、本人は「節子」の名を好み、早く熊本時代に書かれたハーンの遺言状に、「Setsuko」(1892)及び「小泉節子」(1894)となって表われており、神戸時代の終わり(1896)だが、実母チエのセツ宛書簡の封筒にも、「小泉節子様」という宛名が見える(池田記念美術館資料)。セツは早い時期から、手紙等で「節子」を用いたものであろう。
■2月の節分の日に生まれたから、セツという名に
ハーンの没後は「節子」が前面に出ている。チェンバレンのセツ宛日本語書簡の1通(1906)は、「ロンドンにて チヤムブレン出ス 5月廿9 小泉節子様」(池田記念美術館)で結ばれているし、田部隆次の『小泉八雲』(1914)に収められた「思ひ出の記」の著者も、「小泉節子」であった。
なお、「セツ」は「節分の日の生れ」に由来するという(セツ令孫小泉時「妻節子と供たち」『国文学 解釈と鑑賞』所収)。また、娘の頃には「おシェさん」と呼ばれた。「シェ」は「セ」の出雲訛なまりで、ハーンが「シェンシェ」と呼ばれたことに通ずる。
■小泉の父には11人の子、セツは6番目だった
セツの父は、初め俊秀(としひで)で、維新後に改名して湊と称した。
セツの長男の小泉一雄は、この湊の別名を、「亡き母を語る」(根岸磐井『出雲における小泉8雲』所収)では茂衛門、『父小泉八雲』(1950)では常右衛門としているが、『雲藩列士録』(以後『列士録』)をはじめとする古文書類は、小泉家当主が、3・4・5代目で弥一右衛門の名を用いたほかは、代々弥右衛門を称したことを示しており、さらに『松平定安公伝』にある氏名と突き合わせれば、弥右衛門襲名の前に右門の名を用いたことが分かる。
なお、彼はチエとの間に11人の子を儲けて、セツは6人目に当たり(「亡き母を語る」)、戸籍簿と照合すれば、5人の子が夭折している。
■セツの父で8代目、藩ではセレブの家柄
『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は、本国近江(おうみ)、生国(しょうごく)(出生地)因幡(いなば)の侍である。はじめ、讃岐丸亀藩4万5千石の藩主である山崎虎之助(治頼(はるより))に仕え、家老を務めていた。しかし、明暦3年(1657)、虎之助が夭折し、嗣子なき故の除封となるに及んで江戸に出、翌年(万治元年)、出雲松平家の祖である直政に召し抱えられた。初めは使番(ばん)、後に20名の徒(かち)(足軽)を統率する者頭(ものがしら)を務めている。
その後の小泉家は、2代目弥右衛門が50人の本士を率いる番頭を務めて以来、代々、セツの父8代目弥右衛門に至るまで、一定期間、者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭に進んでおり、また、嫡子には家督相続と同時に、組外(くみはずれ)という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が「一国中の貴族」と表現した、上士に限って与えられた待遇であった。
■城下町の松江、セツの生家は武家屋敷
セツが生まれた小泉家の屋敷の位置は、ほぼ確定することができる。昔、家中屋敷の立ち並ぶ侍町の東隅に、要地を抑える目的で置かれた、家老大橋茂右衛門の例外的に広大な屋敷があった。その西側で米子橋を経て松江城へ向かう道へ進み、すぐに左折して左手3軒目が、往時の小泉家の屋敷であった。
同じ南田町に在住された角田喜代子さん(筆者の訪問時にご健在)が、子供の頃その屋敷の南隣に住み、祖母から「セツ夫人の生家」だったと聞き、また久しく残っていた門長屋をよく記憶しておられたが、その位置が、昨年(2024)出版された『小泉セツ ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』所収の「松江城下絵図」(嘉永年間)で示され、「文久元年の松江城下図」(『城下町松江の今昔』所収)で、「小泉弥」と記されている屋敷の位置と正確に一致する。

そして、明治8年(1875)に小泉湊が家禄を奉還した時の住所が、「南田町」と記されている(『島根県士族家禄奉還資金調』)ところから、まず、当の屋敷をセツの生家とみてよいと思われる。当の屋敷は『嘉永5年屋敷調』での記載から、西に向いた表の間口が17間2尺(32メートル)、奥行が33間(60メートル)もある、大きな屋敷であったことが知られる。
■明治の新政府に組するか? 瀬戸際の松江藩
セツが生まれた時、松江城下は重苦しい空気に包まれていた。松江は過去200年余りの間、その藩主が、全国のおよそ300の諸大名の中でも、御家門の流れを汲み、とりわけ有力な「国持十八家」に数えられることを、誇りとしてきた。しかし、時はあたかも、その松江の誇らかな地位が失われ、また広く武士階級の消滅を運命づける、緊迫した事態にあったのである。
王政復古の大号令とともに新政府が樹立された後、官軍と幕府軍が京都郊外の鳥羽・伏見で戦い、幕府軍が致命的な敗北を喫したのは、ちょうど1カ月前のことであった。この天下の大局を決した戦いにおいて、松江藩は、いずれの側に就くべきかを決めかねる、極めて苦しい立場に立たされたのである。
それというのも、山陰の地に位置する藩でありながら、家康の孫の松平直政が松江に封じられて以来、代々の藩主が、家紋を同じくする将軍家の有力な一門として、格別な名誉を与えられてきたからであった。そうした成り行きから、折しもセツの生まれた日には、松江藩を「鎮撫」する官軍の一隊が、松江進撃の本営と定めた鳥取の城下に進駐しつつあって、松江の侍たちは、これに対処する方策を必死に探っていたのである。
■長州にも近く、藩主は松平家だが新政府に恭順
京都の新政府を連合して推し立てたのは、西国の有力な諸藩であり、その間にあって孤立無援に陥っていた松江藩の事態は、いかんともし難かった。遠く江戸にある将軍の城の陥落を待つまでもなく、松江は、天皇を戴く新政府に対して、ただひたすら恭順の意を示すほかに道はなかったのである。
そして、セツが生まれて24日目に当たる2月28日の夜、京橋から松江城の三の丸に通ずる広小路の両側に、家老をはじめとする出雲の侍たちは、皆、裃を着け無刀で、路上に積もる雪や泥土の中に土下座平伏し、当時満18歳の西園寺公望(さいおんじきんもち)が率いる官軍を迎えたのであった。
うち並ぶ提灯に照らし
出された彼らの頭上には、冷たい雨が静かに降りしきっていた。
■否応なしに東北での戊辰戦争に巻き込まれる
山陰道鎮撫使の官軍の松江城入りは、セツ誕生時の特殊な情勢を象徴する。ただし、戊辰戦争における松江藩の進退と運命は、ハーンも『東の国から』で語る会津藩の場合とは違って、やや複雑であった。
松江藩は王政復古の後、「宗支の礼は正しくし」と、一度佐幕の方針を家臣一同に示しながら、鳥羽・伏見の戦いの時を含めしばらく、将軍家に対する「孝敬」と朝廷に対する「忠勤」との間を揺れ動き、1月16日に至って「只管(ひたすら)勤王の外無之(ほかこれなし)」と藩の態度を確定したのである(内藤正中『島根県の歴史』等)。しかし、これを新政府は受け入れなかった。
さらに、3月初め官軍が松江を去った後、新政府から泉州堺の警備を命ぜられて、セツの父の小泉湊も加わった。続いては奥羽出兵の命に服し、明治改元(9月8日)後の10月5日、家老神谷兵庫の率いる出雲の侍たちは、錦(にしき)の御旗(みはた)を掲げて盛岡城下に入るのである(『松平定安公伝』)。

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長谷川 洋二(はせがわ・ようじ)

歴史家

1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of
Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある

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(歴史家 長谷川 洋二)
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