■河合優実が演じる“蘭子”を贔屓にしていた
「あんぱん」最終回前日の129話(9月26日)。ヒロインのぶ(今田美桜)の妹・蘭子(河合優実)は、キューリオの社長・八木(妻夫木聡)から指輪を渡された。戦死した豪(細田佳央太)と戦後に出会った八木との間で苦しんできた蘭子だったが、幸福はすぐそこだ。
同時に不安が頭をよぎる。蘭子は難民キャンプの取材に行くという。つまり飛行機に乗るということ。まさか、事故?
蘭子は向田邦子さんがモデルだという説がもっぱらだった。河合さんの昭和な雰囲気は、確かに向田さんを思わせた。だから、51歳で亡くなった向田さんの最期、飛行機事故が頭をよぎる。まさか蘭子も? いえいえ、最終回で幸せな蘭子&八木を見られるよね。
そう信じていたのに、最終回、2人の出番なし。えーーー? 期待は9月29日から4話連続の「あんぱん特別編」だ。予告の動画や写真を見たが、蘭子と八木の姿は見当たらない。えーー、そんなー。
と、のぶでない話から入ってしまった。夫で「アンパンマン」の作者・嵩(北村匠海)の話でもない。蘭子を贔屓にしていたのだ。蘭子の口数の少なさが好きだった。言葉は少ないけれど、仕草で感情が伝わってくる。豪への恋心も、八木との距離も。河合さんはうまい。
■後半から見えてきた、のぶと嵩の“主従関係”
もう一つ、蘭子から始めた理由がある。
後半ものぶは一生懸命だった。漫画家として世に出てほしい一心で鉛筆を削り、懸賞漫画に応募するよう勧め、速記でメモを取っていた。だけど、そういうのぶを見ても、「いいぞ、いいぞ」とならない。
前半ののぶは「いいぞ、いいぞ」の人だった。前へと進む女性だったからで、その象徴が足の速さだった。走った先に愛国少女、愛国教師があり、夫との死別を経て、新聞社の雑誌記者、国会議員秘書になった。自分の足で、何者かになろうとしていた。それが消えてしまった。
転換点ははっきりしている。8月11日に放送された96話、のぶが嵩の髪を切る場面だ。三星百貨店という一流の職場をやめ、漫画に専念する嵩。アパートの小さい庭で髪を切りながら、のぶは嵩に言う。「仕事がなかったら、私が嵩さんを食べさせちゃるき」。
それまで「嵩」だったのが、「嵩さん」になった。「え?」と嵩自身が驚いている。「嵩さんはこれから有名な漫画家の先生になるのに、呼び捨ては失礼やろ」とのぶ。その頃は秘書として働くのぶの葛藤も描かれていた。だけど、やがてのぶは仕事をやめる。そうせざるを得なかったこともきちんと描かれていたけれど、家事をするのぶの「嵩さん」には主従関係の気配を感じてしまう。
■「嵩」と呼び捨てするまで“3週間”
この感情、人生の大半を「会社員」として過ごしてきたことが根底にあるとわかっている。
そう思うのは、「あんぱん」のチーフプロデューサー・倉崎憲さんを6月末にインタビューしたから(だから今田美桜さんが「朝ドラのヒロイン」になった…「あんぱん」最終オーディションで"のぶ"になった瞬間)。「史実はできるだけドラマに反映させたい」と語り、足が速く勝ち気だった暢さんの話をしていた。
久々にのぶの「嵩」が出たのは、散髪から3週後の112話だった。うれしかった。展開をざっと説明するなら、嵩は仲間の漫画家たちの世界旅行をきっかけに自己嫌悪を口にした。その当時、すでに「手のひらを太陽に」の作詞もしていたし、テレビ番組のレギュラーにもなっていた。今なら「マルチタレント」だが、嵩は基本、自己肯定感が低いクヨクヨくんなのだ。
するとのぶ、「嵩さん、雨もやんだし、行こ」と声をかけ、外に連れ出す。「走るで」と言うが、嵩はぐずぐずしている。そこでのぶが、「嵩、たっすいがーはいかん」と言ったのだ。
■「虎に翼」が揺さぶった、“結婚への信頼感”
「虎に翼」は説明もいらないだろう、日本初の女性裁判所長・三淵嘉子さんをモデルにした2024年度前期の朝ドラだ。主人公・寅子(伊藤沙莉)に女性たちが激しく魅かれた証しが、「とらつば」という愛称だと思う。たった6文字「とらにつばさ」を4文字に縮めて呼び、愛でる。そうなった理由は、初回でほぼ説明がつく。
女学生の寅子が、結婚への疑問を語るのだ。「結婚した自分が想像がつかない、それどころか全く心が踊らない」と。間もなく法科への進学という道を見つけ、結婚が幸せへの道だと説く母(石田ゆり)にこう言う。「私には、お母さんがいう幸せも、地獄にしか思えない」
結婚というものへの信頼感が、加速度的に揺らいでいる昨今だ。これでもう、女性の心は鷲づかみにされた。
「あんぱん」に話を戻すと、視聴者は「アンパンマン」という素晴らしい帰結を知った上で見ている。のぶの行動の行き着く先もわかっているから、嵩を助けるのぶの行動が虚しいとはもちろん思わない。アンパンマンという存在を広めようと、子どもたちへの読み聞かせをするのぶ。気づけば老眼鏡をかけている。その辛抱強さに敬服する。が、「のぶは私だ」と思うのは、昨今、かなり難しいのではないだろうか。
■丁寧に人物像や戦争を描き、“朝ドラ視聴者”を取り戻した
SNSの「あんぱん」についての投稿に、「内助の功は大嫌い」というのがあった。私はそこまでストレートには思わなかったが、「夫を支えるのぶ」にどうしていいのかわからないような気持ちだった。それが、寅子を知ってしまった「私たち」という現実だ。朝ドラがこれからずっと抱える問題だと思う。
一方、「あんぱん」は「おむすび」で一気に下がった視聴率を大きく戻す役割を果たした。初回こそ15.4%(ビデオリサーチ調べ=関東、世帯視聴率)と低調だったが、それは「おむすび」での朝ドラ離れの表れだったと思う。そこから上がっていったのはのぶという人物像が好感を持って迎えられたことがまずあった。そして丁寧に描かれた周辺の人々がいて、さらには戦争描写があった。
先述したインタビューで倉崎CPは、「戦後80年というタイミングでの放送」と何度も口にしていた。脚本の中園ミホさんは朝日新聞のインタビューに応じ、「やなせさんを描くことは戦争と向き合うことと考えた」と語っていた(9月17日)。インタビューで中園さんが「最も衝撃を受けた」とした映像が、戦場で嵩らがゆで卵をむかずに食べるシーンだった。脚本では殻をむいて食べることになっていたそうだ。
確かに衝撃的だった。ジャリジャリと音を立てながら、ほおばる嵩たち。中園さんのインタビューで、俳優陣が数日間、絶食して撮影に臨んだと知った。飢えとはそういうものなのか。あの音を私はいつまでも忘れないと思う。
■「あんぱんまんは2人の子ども」という結論
後半ののぶ像に話を戻すと、暢さん本人の実像に沿ったものだろうと想像する。その上で、「とらつば後」という状況を、倉崎CPも中園さんもわかっていたと思う。だから「戦争」を経た2人の思いが何度も描かれた。愛国教育への後悔から、「ひっくり返らない確かなもの」を探したのぶ。中国から帰り、「変わらない正義はあるか」と問う嵩。2人の出した答えが、アンパンマンだった。
最終週126話で、のぶの母・羽多子(江口のりこ)はのぶにこう言っていた。「嵩さんとのぶは長いことかかって、アンパンマンという子どもを産んで、一生懸命育ててきたがやね。あんぱんまんは2人の子どもながやねえ。なんて面白い夫婦やろ。のぶはなんて幸せなお母さんながやろ」
2人で作ったアンパンマン。視聴者への指差し確認のような台詞だった。
最後に9月23日に放送された「朝ドラ名場面スペシャル」のことを書く。「あんぱん」最終回と次回作「ばけばけ」の告知。狙いが明確なこの番組には、「夫婦で紡いだウル&キュン物語」とサブタイトルがついていた。
「虎に翼」の寅子と優三(仲野太賀)から始まり、「マッサン」(2014年度後期)に「ひよっこ」(2017年度前期)に「あぐり」(1997年度前期)や「芋たこなんきん」(2006年度後期)……。新旧織り交ぜて数多の夫婦がこれでもかと登場した。
■朝ドラは「結婚観をどれだけ揺さぶれるか」にかかっている
「朝ドラとは夫婦のことと見つけたり」。そう言わんばかりのこの攻勢、「ばけばけ」のヒロインのモデルが小泉八雲の妻だからだろう。夫婦っていいでしょ、でも内助の功バンザイではないですよ。そういう主張も見えてきた。
詳細は省くが、作家・吉行淳之介さんと俳優・吉行和子さんの母で美容家の吉行あぐりさんがモデルの「あぐり」では、夫の非・マッチョぶりが強調されていた。「芋たこなんきん」のヒロイン町子は作家の田辺聖子さんがモデルだが、彼女が「別居婚」を結婚相手に告げる場面が紹介された。
結婚が複雑化している。だから朝ドラが描いた「結婚」の多様性を訴える。それでも結婚は「ウル&キュン物語」だとまとめる。「『虎に翼を知った私たち』」への主張とエクスキューズ。それが「朝ドラ名場面スペシャル」だった。
29日から「ばけばけ」が始まった。描かれるのは、明治の初めの国際結婚。令和を生きる「とらつば後」の私たちの心が動かせるかどうかは、結婚観をどれだけ揺さぶることができるかにかかっているのではないだろうか。
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矢部 万紀子(やべ・まきこ)
コラムニスト
1961年生まれ。83年、朝日新聞社に入社。宇都宮支局、学芸部を経て、週刊誌「アエラ」の創刊メンバーに。その後、経済部、「週刊朝日」などで記者をし、「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理、書籍編集部長などをつとめる。「週刊朝日」時代に担当したコラムが松本人志著『遺書』『松本』となり、ミリオンセラーになる。2011年4月、いきいき株式会社(現「株式会社ハルメク」)に入社、同年6月から2017年7月まで、50代からの女性のための月刊生活情報誌「いきいき」(現「ハルメク」)編集長。著書に『笑顔の雅子さま 生きづらさを超えて』『美智子さまという奇跡』『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』がある。
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(コラムニスト 矢部 万紀子)