■「諦めないことです」
「鈴木修さんから学んだことは何ですか?」
こんな質問を、スズキのインド事業に従事する日本人やインド人にぶつけてみた。
「諦めないことです」
こう答えたのは、スズキの子会社であるマルチ・スズキ・インディア(本社はニューデリー、以下マルチ・スズキ)社長を務める竹内寿志。4月1日からスズキの専務から副社長に昇格し兼務している。
1986年入社の竹内は2003年、04年と鈴木修の秘書を務めたが、それだけではない。引き続き05年、06年と鈴木修直属の特命課長を担った。
「僕に部下はなし、ボスは修さんだけ。どんな特命を受けたかって? それは申し上げられない。秘書時代を合わせ足かけ4年間、修さんに間近で仕えました」
竹内は、エンジニアではなく鈴木修と同じに、いわゆる“事務屋”。40歳を挟んだ働き盛りに、鈴木修の側近中の側近だったのだ。鈴木修を徳川家康に例えるならば、竹内は忍びの棟梁である服部半蔵の立ち位置だったろう。
この4年間、鈴木修は63歳から66歳であり会長を務めていて、超長期政権の中頃に当たった。また、スズキは成長と混沌、すなわち光と影とが交錯していた時代だった。
02年度の連結売上高は2兆円を超えたが、4年後の06年度には3兆円を超え、翌07年度は一気に3兆5000億円を突破する。世界戦略車「スイフト」の世界同時立上げ(04年~05年)、インド第二工場に当たるマネサール工場開設(06年、開所式は07年2月)、ロシア進出(07年)と、大型案件が相次いでいた。鈴木修は、「急な成長に対し、会社の実力が伴っていない。本当は危うい状態」と警鐘鳴らしてもいた。
一方、06年3月、経営が行き詰まりつつあった米ゼネラル・モーターズ(GM)は保有していたスズキ株の大半を売却する(スズキは市場から自己株として取得)。スズキにとってはGMからの出資比率が、20%から3%へと大きく減少した。GMとの資本関係が完全になくなった後の2010年1月、鈴木修は筆者に次のように話した。
「(1981年の提携以来の)GMとの関係は、このとき(06年3月)に切れたと思った。対外的には『GMはいまでも師だ』と言い続けたけどね」
GMに代わる、新たなパートナー探しが始まる時期と重なっていたのだ。
また、国内軽自動車市場では06年度、ダイハツ工業がシェア(市場占有率)トップに浮上しスズキは2位に沈む。
竹内は、家康の命を受けた半蔵として水面下を動き回ったに違いない。難題に対しても、決して諦めることはなく。
09年ハンガリー工場のマジャールスズキ社長を経験した竹内がマルチ・スズキに副社長で赴任したのは、コロナ禍の最中だった21年4月。22年4月から現職である。
■カースト制度に挑んだ日本的モノづくり
竹内は言う。
「スズキのインド事業は、人づくりが基本にあります。スズキにとって人づくりとは、修さんにある。修さんが遺した教えを、インドの自動車産業だけではなく、製造業全体に伝え根付かせていきたい。
このため、『オサム・スズキ・センター・オブ・エクセレンス』、OSCOEという新たな教育機関を創設していく」
インドの企業社会は、日本のような終身雇用ではない。
「以前、マルチに勤めていました」と挨拶してくれるインド人ビジネスマンが、同業のライバル社を含めて製造業には大勢いるそうだ。この人たちが共通に有しているのが、「マルチで学んだ修さんの教え」と竹内は指摘する。
では、具体的に鈴木修の教えとは何を指すのか。
「日本的モノづくり、つまり修さんが築いたスズキのモノづくりなんです」と竹内。
インド政府との合弁工場(グルガオン工場)で自動車生産が始まったのは1983年。インドにはカースト制度があって、幹部は個室を設え、さらに工場のブルーカラーと同じ社員食堂でランチをとらなかった。一カ月に一回のペースでインドに出張していた鈴木修は、まず幹部用個室の壁を壊し大部屋に変えた。また、社員食堂で鈴木修は社員と同じに並び順番を待った。
「生産現場では、幹部もワーカーも平等であるという意識、日本流ワーキングカルチャーをまずは根付かせたことが、日本流であり、修流なんです」
と、竹内。
■なぜ技術者が部品の値段を言えるのか?
マルチ・スズキの藤井辰彦・四輪技術本部長でありスズキ常務役員(四輪技術責任者)は話す。
「『1グラム1円』と『小少軽短美(モノを小さく、資源やエネルギーを少なく、重さを軽く、時間や距離を短く、美しい製品やサービスを生む)』です。多くを学んだうち、この二つが大きい。
藤井はボディー設計の出身。
「例えば、サプライヤーのエンジニアに、部品の値段を尋ねると『自分は営業ではないので分かりません』という答えが返ってきます。スズキの技術者にはそれがない。
修会長は毎年、工場監査を実施して無駄はないかと、目を光らせていた。特に、小さいところに気を配っていました。
このため、自然にコスト意識がエンジニアにも身についたのだと思う。インドの技術者たちにも伝わっています」
スズキR&Dセンター・インディア(ニューデリー)のマユール・シャー執行役員は話す。
「『(マルチの工場に働く)末端のインド人労働者は何を考えていると、あんたは思うか?』。鈴木修さんからこう問われたとき、インド人の私は感動を覚えました。この経営者にはとてつもない深さがある。いつも現場を廻っているため、現場視点で物事を見ることができて、懐の深さにつながっている、と感じました。現場視点が、一番学んだことでしたが、こんなトップはめったにいない」
1971年にインド西部のグジャラート州で生まれたシャーは、日本に留学した学生時代に鈴木修に一度だけ実は会っている。
当時のシャーは邦銀のデリー支店に勤務。インドに進出する外国企業のコンサルタントだったが、経営者はインド人コンサルタントに対し率直な意見を求めてきたのだ。そもそも「末端の~」などという質問自体、初めて受けた。「私自身、この問いへの答えを準備してはいなかった」が、感動が戸惑いを呑み込んだそうだ。
シャーはインドの大学院、日本の大学院を卒業した後、日本の電機メーカー、インドのIT企業、日本のメガバンク、ベンチャーキャピタルなどをジョブホッピングして2024年から現職である。
■いまやインドは作れば売れる状況に
グジャラート州にあるのがマルチ・スズキのグジャラートハンサルプール工場。2017年に稼働を始めた第3の四輪組立工場だが、村松孝洋工場長は言う。
「一番学んだことは小少軽短美。スズキのポリシーであり精神。インド人に伝わってます」
スズキの世界生産量は、2025年度(26年3月期)の見込みで346万台(前年度比5.2%増)。このうちインドが228万台(同8.5%増)と世界全体の66%を占める。
インドでは25年9月に間接税が改正されて、25年暦年の乗用と商用を合わせた自動車販売量は過去最高の514万台となり、中国、アメリカに次ぐ世界3位の市場にインドは成長した。
メインである乗用車市場は24年度で434万台(同4%増)の規模。
このうちマルチ・スズキは176万台(同100%)を販売しシェア(市場占有率)は40.6%。2位以下は10%台が続くため、圧倒的首位である。
また、生産したうちの33.3万台をアフリカ、中近東、日本などに輸出した。
竹内は「(83年12月の)生産開始から年間200万台生産するまでに40年かかった。しかし、次の200万台を6年から7年で実現させようと計画してます」と話す。
早ければ2030年にインドの生産量は400万台を超える計算になるが、大いなる野望でもある。
インドは人口が急増していて、自動車ローンを組める中間所得層(世帯収入が年50万ルピー~300万ルピー=85万円~510万円)が拡大中。
「いかに増産体制を確立していくかがポイント。いまは作れば売れる状態です。それでも、所得のアップに伴い消費者のニーズは多様化しているため、人気の高いSUV(スポーツ多目的車)をはじめ、商品ラインナップを広げていく必要はあります。1車種で年間5万台を生産できれば黒字化できるが、年間10万台以上を生産する車種を増やしていきシェア50%獲得を目指す」(マルチ・スズキ首脳)としている。
ハンサルプール工場でも今夏、4番目の組立ラインを立ち上げ、年間75万台だった生産能力を年100万台としていく。
新ラインはEV(電気自動車)専用ラインとなり、スズキ初のEV「eビターラ」を生産する。
「eビターラ」は日本で今年1月、インドでは2月に発売された。現在、既存ラインでSUV「フロンクス」などと混流生産しているのを、新設ラインに移管しEVの生産体制を拡充していく。
今年2月に参入したくらいだから、EV化にマルチ・スズキは出遅れている。インドのタタ・モータズや同じくマヒンドラ&マヒンドラ、韓国の現代自動車などが先行する。
電動車両としてマルチ・スズキは、ハイブリッド車(HV)にこれまでは注力してきた。
■できる、できないとかではなく、やり抜く
「『考えるより動け。できる、できないとかではなく、やり抜くんだ』という教えです」
TDSリチウムイオンバッテリーグジャラート社(TDSG)の高柴久則社長は、鈴木修から学んだこととして、こう答えた。
同社は車載用リチウムイオン電池(LIB)を製造する合弁会社。出資比率は東芝40%、デンソー10%、スズキ50%。高柴はスズキ常務役員を兼ねている。
会社設立は2018年だったが、それ以前に合弁成立のため水面下で調整作業を行ったのは高柴だった。TDSGの従業員は905人いて、うち874人がインド人、残りが日本人。
「インドに駐在する私たちは、修さんの教えを現場で働くインド人に落とし込む、いわば伝道師」
マルチ・スズキのハンサルプール工場の敷地内にTDSGはあって21年3月から生産を開始。昨年7月に累計生産は1000万セル(100万パック)を超えたが、全量をマルチ・スズキのHV(マイルドHV、ストロングHV)向けに出荷している。EV向けは生産していない。
■EVにおける機械屋と科学屋のカベも超え
自動車組立のグジャラート工場の従業員は、その85%は非正規の期間工。2S(整理、整頓)やゴミゼロ、スズキの生産方式といった基本を3週間から1カ月にわたり教育し工場現場で働く。全国から集まり寮に住み、おおむね1年で期間工の契約は解除されていく。
これに対しTDSGのインド人従業員は「日本で言う高専(工業高専)卒か大卒」と高柴。いわゆるワーカーとは一線を画す。水分を徹底して排除したドライルームをはじめ、高精度な生産設備と向き合い、機械設備を監視して制御、管理できる高い専門性は求められる職域で働く。
ちなみに、LIB工場はドライルームの敷設が、設備投資のかなりの部分を占めるのは特徴だ。
一般に、自動車メーカーは機械工学出身の“機械屋”が多くを占める。これに対し、電池は化学工学出身の“化学屋”が占める。専門の違いから壁ができ、軋轢が発生しやすいが、「修さんは『とにかくやれ』なので、壁や軋轢などを許さなかった」と高柴は話す。
TDSGはインド唯一の車載用LIB工場。しかし、3年から5年で従業員はスカウティングなどで別業種のメーカーへ転職していく。
高柴は「インドの若者たちの向上心は凄まじい。現状に安住せずに、自分や家族のため、高いポジションと高い報酬を目指している。電池の専門家としてではなく、スズキの企業文化で働いていた点が評価され転職につながります」と指摘するが、こうしたジョブホッピングをするビジネスマンを通して、インド産業界に鈴木修の教えが広く浸透していくのだろう。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)

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