人間は一面では語れない。それは企業も同じだ。
電機メーカーとして誕生したソニーはエレクトロニクス事業で世界を席巻したが、現在の中核はゲームや映画などエンターテインメント事業だ。ライターの栗下直也さんは「その根底には創業者の意外な趣味が関係している」という――。
■世界的な指揮者とソニー社長の知られざる関係
1989年7月16日、オーストリアのザルツブルク。世界的な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが息を引き取る前、最後に自宅を訪れた客は一人の日本人経営者だった。ソニー社長(当時)の大賀典雄である。
世紀の巨匠カラヤンと日本のエレクトロニクス企業のトップとは、一見すると不思議な取り合わせだが、この二人を結びつけていたのは音楽への情熱だった。そして、その結びつきをたどると、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫にまで辿り着く。この意外なつながりこそが、今日のソニーグループの成功を形作る重要なピースなのだ。
1930年、静岡県沼津市千本の裕福な家庭に生まれた大賀は、幼い頃からピアノを弾き、「声がいい」と言われていた。近所に住んでいた帝大出の人から、電気の配線図や数学、物理だけでなく、クラシック音楽の楽しさやオーケストラの総譜の見方も教わった。
沼津中学に進学後は声楽家を目指し、毎週往復10時間をかけて東京へレッスンに通った。当然、授業は欠席がちだったが、友人で後に詩人となる大岡信がノートを貸してくれた。
学校側もこの才能ある生徒の音楽活動を応援していた。当時の沼中は自由な雰囲気で、大賀が授業を休んでも叱られることはなかったそうだ。
■井深と盛田が見つけた原石
1946年、焼け野原となっていた東京で、井深大と盛田昭夫は「東京通信工業」(後のソニー)を設立した。
2人の出会いは戦争末期の1945年、海軍技術中尉だった盛田が誘導ミサイルの技術研究会で井深と知り合ったことから始まる。井深は盛田より13歳年上だったが、2人は妙に馬が合った。盛田は井深との出会いがなければ、長男の宿命で300年続く造り酒屋を継いでいた可能性が高い。
東京芸術大学に進んだ大賀が2人と出会ったのは、大学がテープレコーダーを購入する際だった。1950年、井深のひらめきから生まれた日本初のテープレコーダーを東京芸大が導入することになり、大賀が町工場だった東京通信工業に出入りして要望を伝えた。
技術に詳しい知識を持ち、製品に対して的確な注文をつける大賀の姿を、井深と盛田は見逃さなかった。「この芸大生は何者だ」となり、仲間に加わらないかと熱心に誘ったのはいうまでもない。しかし、当たり前だが、当時の大賀は声楽家を目指しており、会社勤めする気は全くなかった。
それでも井深と盛田はあきらめきれず、1953年に大賀がドイツのベルリン国立芸術大学に留学する際も、「嘱託契約」という形で彼との縁を切らなかったのである。

■前例のない「二足のわらじ」
大賀はドイツの留学中にカラヤンと知己を得た。ドイツ在住で先輩歌手の田中路子から「これから面白い人に会わせてあげる。ついてらっしゃい」と言われ、お供して、出会ったのがベルリン・フィルハーモニーの指揮者だったカラヤンだった。
田中は戦時中に自分の家で多くの人をナチスから匿った。カラヤンもその中のひとりだった。田中の紹介で出会った大賀とカラヤンは生涯の友となり、大賀はCDの規格化などビジネス面でもカラヤンの協力を得ることになる。
留学から帰国した大賀に、盛田は「週に一日くらい、社に来ないか」と声をかけた。「何もしなくていい、給料は出す」という誰もがうらやむ特別待遇だった。
大賀は世の中には美味しい話があるものだと飛びついたが、もちろん、そんな美味しい話はない。翌年には「週一回」が「週二回」に増え、さらには本格的な説得が始まった。
盛田は「経営がぼんやり分かるまでに十年かかるんだ。いま会社に入らなければ遅い」と説いた。
大賀は「そんなこといわれても、そもそもビジネスには興味はありません」と断り続けた。
大賀の言うとおりだが、盛田はそれでも諦めなかった。「音楽活動をやめなさいと言ってるわけじゃないんだよ。日本語には二足のわらじ、という言葉がある」と粘り強く交渉した。頑なだった大賀も「二足のわらじなら、ありかな」と心が揺らいだ。
■わずか5年で取締役に
最終的な決め手となったのは、盛田が赤坂の料亭に大賀夫妻を招いた時だった。夫婦そろって説得し、ついに29歳の秋、大賀は入社を決意する。井深と盛田は実に9年かけて彼を仲間に引き込んだのだった。
大賀は入社当初から異例の出世コースを歩んだ。第二製造部長に始まり、デザイン室長、広報部長も兼務した。
大賀が「もう少しイメージを統一しないと」と上司に進言すれば「それではあなたがやってください」と任され、広告が気に入らなければ「それもあなたが」と責任を与えられた。そのように職務をこなしていたら、実績が積み上がり、スピード出世を遂げた。
わずか5年足らずで取締役に就任した。
1968年、CBS・ソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の設立にあたっては、アメリカのCBSとの交渉を担当した。合意にこぎつけた時、盛田から「この会社を運営してほしい」と言われ、自らがその社長に就任することになる。「なんだ、それならばもっと交渉を粘って条件を良くしておけば良かったなと思った」と振り返っている。
入社前の約束通り、二足のわらじを履いた大賀の転機は1961年に訪れる。広島でのオペラ公演「フィガロの結婚」で伯爵役を演じた際、商談後の疲労から舞台袖で居眠りをし、出番に遅れてしまったのだ。「もう二足のわらじは履けない」と音楽家の道を一度諦めることになる。
もちろん、音楽への情熱は決して消えることはなく、60歳の還暦祝いでオーケストラを指揮し、再び音楽家としての一面を取り戻すことになる。
■ウォークマン発明の意外なきっかけ
ソニーの代名詞となった「ウォークマン」誕生の裏にも音楽愛好家としてのソニーの経営者たちの感性があった。といっても、意外かもしれないが、大賀はウォークマンには関わっていない。自身で唯一関わっていない製品開発がウォークマンとすら語っている。
ウォークマンの商品化に熱心だったのは盛田と井深だ。
2人ともアイデアマンであるだけでなく、音楽にも造詣が深かった。盛田は音楽マニアで後年は東京フィルハーモニー交響楽団の会長を務め、個人で数億円規模を寄付している。井深も息子を音楽会によく連れて行くなどクラシック好きとして知られていた。
商品化のきっかけは1978年、当時すでに70歳になっていた井深がアメリカへの出張の際に発した言葉だった。「飛行機の中でいい音で音楽を聴きたい。再生専用のコンパクトカセットプレーヤーを作って欲しい」。この要望を受けて、技術者たちは録音機能を省いた小型のカセットプレーヤーの試作品を製作した。
そのプロトタイプを見た盛田は「あっ、これは商売になる」とひらめいた。当時の常識では、音楽は「スピーカーで聴くもの」という概念が強く、ヘッドホンだけで音楽を楽しむという発想は一般的ではなかった。しかし盛田は、若者がこの製品を持ち歩き、外出先でも自分だけの音楽空間を楽しむ姿を想像したのだ。
■バリトン歌手の大手柄
技術的には革新的な要素はなく、既存の技術の組み合わせだった。ソニー内部からも「売れるわけがない」という反対意見が多かった。
それでも盛田の直感を信じて1979年に発売されたウォークマンは、予想を大きく上回る大ヒット商品となった。
世界中の若者のライフスタイルを変えた。当時、70歳の井深と58歳の盛田という「年配」の経営者が考案した製品が、世界的ヒットとなった事実は、ソニーの創造性を物語っている。
大賀がCBS・ソニーレコードで成し遂げた最大の功績は、CDの普及だろう。「自分がレコード産業にかかわっている間に、何とか次世代のメディアを世に送り出したい」という思いから、オランダのフィリップス社と共同開発したCDを世界に広めることに尽力した。
当初は世界のほとんどのレコード会社に見向きもされず、合弁相手のCBSですら「そんなもの駄目だ」と反対していた。しかし大賀は親会社のソニーやCBSに頼らず、自力でCDの製造ラインを建設し、「あなた方からの投資は必要ありません。CDを発売してくれるだけで結構です」と辛抱強く各社に売り込んだ。
この執念が実り、CDはわずか5年でLPレコードを世界から駆逐。後にCD-ROMとしてコンピューター世界にも革命をもたらし、デジタル時代の扉を開いた。大賀は後に「ソニーは私を雇うことでずいぶん得をしたなあ」と述懐している。
■エレクトロニクス企業→コンテンツ企業へ
2023年度、ソニーグループの連結売上高のうち、エンターテインメント事業(音楽、映画、ゲーム)が占める割合は55%に達した。7.3兆円という売上高は、テレビやオーディオ機器などの従来型エレクトロニクス事業の2.4兆円を大きく上回る。営業利益も7000億円でエレクトロニクス事業の1900億円に圧倒的な差をつけている。
この成功は、井深が1977年に「われわれの考えがハード一辺倒なら、明るい将来は望めない。ソフトを深く開拓することにより、世界中に入り込むことができる」と述べたビジョンの実現を愚直に進めてきた結果だろう。
1989年には米コロンビア・ピクチャーズを買収し映画事業に進出、1994年には家庭用ゲーム機「プレイステーション」を発売しゲーム事業に参入した。テレビ事業が赤字を垂れ流し、何度も「ソニーは終わった」と言われながらも、ハードウェアメーカーからコンテンツ企業への転換を早くから進めてきたことが実を結んだ。
ソニーのパーパス(存在意義)は「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす」。これは、創業者たちが育んできた音楽への情熱と、その表現技術を追求する姿勢の延長線上にあるのはいうまでもない。
■すべては好奇心から
ソニーが今日の姿になったのは偶然ではない。井深と盛田が音楽を愛し、その価値を理解していたからこそ、大賀という音楽家を経営者として迎え入れた。そして大賀は、自身の感性を武器に、エレクトロ二クス産業に革命を起こした。
現在のソニーグループが進めるIP(知的財産)戦略も、井深たちが描いた世界の延長線上にあるといってもいいすぎではない。音楽、映画、ゲームという3つのエンターテインメント事業の相乗効果を最大化し、ゲームの人気キャラクターを映画化するなど、ひとつのコンテンツから複数の収益機会を生み出す「IP三重奏」は、文字通り音楽的な発想だ。
電機メーカーとして誕生したソニーが、世界有数のエンターテインメント企業へと進化した背景には、経営者たちの「B面」とも言える音楽への深い理解と情熱があった。盛田は音楽だけでなく多趣味で知られたが、「広いが浅い。凝り性じゃないですからね」と謙遜している。ただ、その好奇心こそがソニーの今を切り開いたのである。

参考文献

「[わたしの道]大賀典雄さん(6)ウォークマン トップの2人が考案(連載)」「読売新聞」1995年4月2日朝刊14面

「友よ夢を駆けよ 井深大(20)はるかな人脈の先」『産経新聞』1997年5月7日夕刊1面

「香陵の風――沼津東高の百年(20)=第2部・輝く――世界駆け回る音楽家」『静岡新聞』2001年8月17日朝刊21面

「ソニー取締役会議長大賀典雄氏(8)ドイツ留学――国際的感覚身につく(私の履歴書)」『日経新聞』2003年1月9日朝刊44面

「特集:日立・ソニー・パナソニック ソニー進化論 エンタメ事業は7.3兆円に成長 「ソフトのためのハード」が奏功」麻倉怜士『週刊エコノミスト』2024年11月12日・19日合併号

本の話――盛田昭夫の趣味は仕事

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栗下 直也(くりした・なおや)

ライター

1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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(ライター 栗下 直也)

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