■東京・晴海に林立する孤島のタワマン
高層マンションが立ち並び、近代的なウォーターフロントとして知られる東京都中央区晴海。東京五輪選手村跡地を改造して生まれた「HARUMI FLAG(晴海フラッグ)」は、将来の値上がりを期待した投資の過熱で、今なお話題になっている(※1)。
そんな晴海の問題は、今なお鉄道駅から遠く離れていること。かつて、東京港を代表する埠頭として開発された晴海には、臨海部に張り巡らされた貨物専用鉄道「東京都港湾局専用線」が縦横無尽に走っていた。
その遺産である晴海と豊洲をまたぐ春海運河にかかる「旧晴海鉄道橋」では保存のための工事が進められており、今年夏以降に遊歩道としてオープンする予定だ(※2)。
しかし、ここで疑問が残る。かつて鉄道線路が張り巡らされていたにも拘わらず、なぜ晴海には鉄道駅が建設されなかったのか。
そこには、晴海誕生以来の開発頓挫の忘れられた歴史があった。
※1 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240527/k10014461811000.html
※2 https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kouwan/21390_hp_01_harumitetsudo_r6
■明治時代に始まった土地造成
現在の勝どき・晴海にあたる地域は、明治以降に東京湾の浚渫土を利用して造成された埋立地である。
明治時代まで、隅田川の河口は現在の石川島公園付近にあり、その先に石川島と佃島が浮かんでいた。この二つの島の周囲には浅瀬が広がっており(※3)、水運や港の開発を進めるには川底をさらう浚渫が不可欠だった。そこで、東京府会では1883年に航路浚渫事業の「東京湾澪浚」を決定、1887年以降には浚渫土を利用して土地造成が実施されることになった(※4)。
余談だが、河口付近が浅瀬という状況は浚渫が始まってからも長らく続いていて、石川島公園の先の隅田川と晴海運河を分かつ付近は、たびたび水死体が打ち上げられる場所であり、供養のための塔婆が水上に乱立している光景が、戦後しばらくまでは見られた(※5)。
この後、航路を確保するための浚渫と、その土砂を利用して海上を埋め立てて築港する方針は本格的に進み、現在の、月島(月島一号地)、勝どき(月島二号地・月島三号地)、晴海(月島四号地)が誕生していくことになる。
一号地、二号地、三号地はもともとあった佃島や石川島を拡張する形で埋め立てが進み、大正時代には完成を見た。現在のように堤防はなく、台風シーズンになると高潮で溺死者が出ることが繰り返されるような土地であったが、石川島の造船所をはじめ工場とそれに連なる長屋が建ち並び、さらには水上生活者も集う湾岸の工業地帯としての発展をみた。
※3 https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/61/pdf/J-42.pdf
※4 豊島寛彰『隅田川とその両岸 上巻』芳洲書院 1962年
※5 『中央区史 中巻』1958年
■「幻の東京万博」の予定地に
これに遅れて、晴海が完成したのは1937年のことだ。
この時点で、晴海は五号地(現在の豊洲。ここは月島を冠せず東京湾埋立五号地などと呼称されていた)と共に1940年の開催に向けて準備が進んでいた「紀元2600年記念日本万国博覧会」の予定地とされていた(※7)。
計画が進む中で1937年に四号地は京橋区晴海町、五号地は深川区豊洲一丁目から五丁目とそれぞれ新町名が決まり、開発が進められることになった(※8)。
この時期、東京湾に拡大していく埋立地は将来有望な開発予定地として熱い視線を送られ、様々な計画が語られている。『東京朝日新聞』1936年10月26日付朝刊では「東京湾上に浮かぶ世界的の歓楽境(ママ)」として、これから進む埋立地の開発計画を取り上げている。
ここでは、現在の中央防波堤の内側までの埋め立てを見越して「隅田川河口東京湾上に現東京市の半分にあまり約1千2百万坪の新東京が出現」するとし、その後の開発計画を語っている。
計画によれば、現在の有明に相当する土地には「活動写真街」やホテルが建ち並び、さらには飛行場と海水浴場も整備されるというのだ。当時の公文書でも二業地(いわゆる花街)、遊郭街、カフェー街などを設ける計画に触れているものもあり、実現可能性の高い計画だったようだ(※9)。
※6 紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局 万博 (31);12月號 1938-12
※7 紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局 万博 (31);12月號 1938-12
※8 『東京朝日新聞』1937年8月10日付朝刊「土地整備が終ると四号地は京橋区晴海町、五号地は深川区豊洲一丁目から五丁目という新町名が出来て、万国博の会場に当てられる、また現在洲崎飛行場がある埋立五号地は道路、架橋等会場工事の関係で今月中に埋立七号地に移転させる。
※9 中央区立京橋図書館所蔵、矢田英夫寄贈資料内「埋立地開発施設概要」
■鉄道の敷設計画、高まる開発熱
晴海の開発が期待された理由は、なによりも都心、銀座への距離の近さだった。この時期、晴海では万博後に埠頭を開発し、国際的な玄関口とすることや、東京市庁舎を移転建設し、名実共に大東京の中心とすることも計画されるほど、熱が増していた。
こうした盛り上がりの中で、晴海に鉄道を敷設する計画は早くから立ち上がっている。
『東京朝日新聞』1936年11月10日付夕刊では「万国博を期し省線月島へ乗入か 鉄道省も計画進む」という記事を報じている。一部を引用してみよう。
四年後の万国博や市庁舎建設業等月島埋立地開発の好条件を控えて市港湾部では博覧会に押し寄せる観衆は1日十万人以上に達する見込みで先ずその交通整理に頭を悩ましている。
文中の、近助役とは1936年5月から1937年11月まで助役だった近新三郎のこと。近は都市計画の専門家として、早期から東京港に鉄道網を整備する案を提唱している。
実際、万博は決まっていたが、当時の晴海はたいていの人が「どうやっていけばよいのか?」と首をかしげる場所である。当時の万国博覧会事務局が発行していた機関誌ですら、東京駅から新宿からバスで月島渡に行き、渡し船。あるいは市電に乗って門前仲町で月島行きに乗り換えると書いているほど、交通機関に乏しかった(※10)。
だから、万博開催時はもちろん、その後の開発を進めるなら交通インフラを整えるのは当然のことだと考えられていたのだ。
※10 紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局 万博 (33);2月號 1939-02
■越中島から汐留・浜松町まで
さて、近の構想は開発関係者の座談会を収録した『新興勢力東京港を語る 其の1』(東京港湾研究会 1934年)で、より詳細に記録されている。
鉄道は五号埋立地を通りまして、四号埋立地即ち市庁舎の建つ予定の島を通りまして、此岸壁の突堤まで伸びて居ります。此越中島埋立地迄来る鉄道は総武線の亀井戸駅(ママ)から分岐しております。亀井戸駅(ママ)から約三里位来ると越中島駅であります。亀井戸駅から約二里程で洲崎の東方に汽車会社というのがありますが、その汽車会社の構内迄は、鉄道は開通して居ります。
この文献に、添付されている地図には、まだ建設されていない越中島方面から晴海を結ぶ線路はすでに記されている。
どうやら、関係者の間では、万博を契機として新橋駅か浜松町駅あたりから分岐して、月島(当時の資料では現在の晴海・勝どきも含めて月島と呼称している)を経由して越中島から亀戸駅方面へ向かう鉄道の建設までは確実と見られていたようだ。
■東京万博を見越した鉄道計画
当時、1940年の万博は総入場者数約3000万人、1日平均20万人、日曜祭日等の最高入場者数は約70万人と予測されていた(※11)。比較のために記すと、大阪で開かれている万博は2023年時点で、総来場者数2820万人、1日最高28万5000人までで予測を立てている(※12)。
それよりも多い来場者数を見込んでいたわけだから、鉄道計画は急ピッチで進められていたようだ。『東京朝日新聞』1937年2月26日付朝刊では「大型電車の運転で一日六万人を運ぶ東部環状線の具体案」という見出しで東京市都市計画課が、新橋駅から亀戸駅にいたる計画案をまとめたことを、報じている。ここで示された路線の詳細はこうだ。
総工費三千六百六十二万円を投じて省線新橋駅から月島四号地、五号地を経て省線亀戸駅にいたる延長一一キロ三四九に平床式高架線の大型電車を建設、新橋、月島四号、五号、越中島、南砂町、小名木町、大島町、亀戸に停留所を設け四分おきに六両連結の電車を運転して、一日に六万人運ぼうというのである。
※11 東京朝日新聞 1937年6月17日朝刊
※12 https://www.expo2025.or.jp/wp/wp-content/uploads/expo2025_raijyoushayusougutaihousin_03_honpen_231120.pdf
■戦争で計画はストップ
実際、これらの計画はどれほど実現性のあるものだったのか。
ともすれば、突飛な提案を新聞が拾って記事にしているだけのようにもみえなくもない。
しかし、実際にはこれらの計画はかなり具体的に議論されるレベルのものだったようだ。
中央区立京橋図書館に戦後まで中央区選出の都議会議員を務めた矢田英夫の寄贈した資料が保存されている。この中に1934年の「埋立地開発施設概要」という文書がある。ここでは、その最初に「省線ノ引込」として以下のように記している。
貨物線ハ汐留駅ヨリ旅客線ハ新橋駅ヨリ何レモ地下線トシ月島地先四号埋立地ニ乗入レ規定計画臨港引込線ト連絡ス
多くの文書に記述が出てくるくらいだから、計画はかなり進んでいたのだろう。
しかし、これらの計画はすべて水の泡となってしまう。日中戦争の激化などを理由として、1938年7月、万国博は延期が決定(※13)。もうひとつの開発起爆剤であった東京オリンピックも開催返上したことで、鉄道計画は消滅。晴海の開発そのものも完全にストップしてしまったのである。
既に建設されていた万国博覧会事務局棟は「東京第一陸軍病院月島分院」に転用されたが(※14)、そのほかは開発が止まった荒れ地が広がるのみ。初夏には潮干狩りが賑わい、夏には海水浴場が開かれる長閑な風景が広がることになった。太平洋戦争中は、高射砲陣地が整備されたことなどもあり、万国博由来の施設もことごとく空襲で焼け落ちて、その風景は失われた。
※13 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/banpaku/pdfs/banpaku_kaisetsu.pdf
※14 『中央区の昔を語る16』中央区教育委員会 2002年
■荒れ地として放置された晴海
こうして戦後しばらく、晴海は半ば荒れ地として放置されていた。
そんな土地で開発が再起動するのは容易ではなかった。というのも、都心への近さに加えて埠頭があるために、晴海では多くの土地が米軍に接収され飛行場まで整備されていた。特に初期では、現在も晴海にある月島第三小学校など、学校施設まで米軍に接収され倉庫や事務所に使用されていた。
そうした中でも昭和20年代半ばになると、将来の接収解除を睨んで国や都、関係機関などによる開発が始まっている。戦後の開発計画では、改めて晴海に1万トン級の大型船が接岸できる埠頭を整備し物流基地とすることが目指された。
そもそも、東京港が港湾として本格的に発展したのは戦後になってからである。埋立地の整備によって港湾整備が進んだのは昭和初期から。外国貿易港として開港したのは1941年5月のことである。この時点では、入港できる船はアジア地域のみに限定されていた。
■「水の銀座」への期待感
この開港後、間もなく戦争が始まったこと、さらに戦後は米軍に接収されたことで、埠頭の整備そのものも停滞していた。
1949年、東京都はようやく埠頭整備を再開、東京都修築5年計画をまとめ大型船が接岸できる豊洲・晴海・品川埠頭の建設に着手した。さらに1951年に東京港が港湾法に基づく特定重要港湾に指定され、東京都が管理者のなったことで、ようやく開発が本格化することになる(※15)。
『朝日新聞』1954年6月2日付朝刊の「外国貿易の晴海埠頭 水の銀座の実現も近い」では、晴海開発の将来像を、次のように記している。
岸壁の完成を待って、岸壁際に本船一隻に対し、近代的なスマートな三階建上屋兼倉庫(九千坪)が七むね(ママ)並び、倉庫の中を列車が通り抜け、荷役した物資をすぐ目的地に運ぶ設備にする。また埠頭の中央には昭和通りより広い五〇メートル幅の道路を縦横に走らせ、その沿道に商店街をつくる。これが完成すれば、いまの銀座八丁よりはるかに長い“ミナト銀座”が誕生するので、潮風に吹かれて散歩する銀座マンの楽しみがまた増えるという。
ようやく開発がはじまったことで、1955年には晴海で初めての「東京国際見本市」が開催、以降、国際見本市会場は整備され、長らく大規模な展示会の会場として利用されることになる。
また、都心への近さは有利に働いた。日本住宅公団は1956年1月に晴海埠頭の約1万坪の土地を利用して4階建て15棟、収容約500世帯の団地を建設することを決定(1957年以降竣工)。一戸あたり13坪で六畳と四畳半の部屋、台所とトイレと風呂が備わった設備は、当時としては、やや高級な設計で注目を集めた(※16)。
そして、1957年11月に懸念材料であった、米軍飛行場の返還が実現すると、いよいよ晴海における開発が本格化することになる。
※15 https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kouwan/22606_hosoku1
※16 朝日新聞 1956年1月22日付朝刊
■「丸の内に似たような」高層ビル街
この返還を報じた『朝日新聞』1957年11月6日付朝刊の「本格的開発に着手 晴海埠頭米軍から飛行場還る」では、早くも地図上に豊洲方面と新橋方面を結ぶ鉄道路線図を書き込んでいる。その上で本文中には、この計画を次のように記している。
豊洲埠頭に入っている常磐線の引込線を延長して同町(注:晴海のこと)の真中を走らせ、築地の中央市場から汐留駅を経て新橋に結ぶ“晴海線”の仮説も計画されている。これは現在でこそ晴海フ頭(ママ)は貨物線の発着がほとんどを占めるが、将来国際貿易センターが完成すれば当然貨客線も横付けされ、観光客の出入りも激しくなるので、この貨物線に電車を走らせ、一般の利用をはかるねらいもある。
東京商工会議所の機関誌『東商』1957年12月号に掲載された当時の東京都港湾局長・加藤清の寄稿「東京港の現状と晴海埠頭開発計画」では、民間、地元、都で決定した「晴海町開発利用計画」を詳細に解説している。
これによれば、勝どき方面より黎明橋を渡った両側を「丸の内に似たような」高層ビル街に設定。その裏には店舗住宅等を設けるとしている。つまり、海側に埠頭と倉庫を配置し、それに付随する商業地と住宅地をバランスよく配置するというものだ。ここでは、鉄道の計画について、国鉄が将来中央市場、汐留駅延伸する意向を持ち、そのための用地確保も行われていることにも触れている。
■貨物専用の「晴海臨港鉄道」ができる
こうして、晴海の将来の基盤となる晴海臨港鉄道は、1958年5月8日に開業。晴海には機関区も設置された。これを報じた『朝日新聞』1958年5月9日付朝刊の記事「晴海臨港鉄道が完工」では、初の列車を出迎える行事が行われたことと共に「将来は汐留駅で東海道本線と結ぶ案も関係当局の間で検討されている」と記している。
この後も、晴海線を汐留方面で接続し旅客化する計画は検討が進んだようだ。『読売新聞』1958年2月6日付朝刊の記事「埋立地に新鉄道を計画 輸送の大動脈へ 月島線は33年度に着工?」では、さらに壮大な計画が示されている。
これは、当時の千葉県がまとめた「新臨海鉄道計画」を報じたもの。ここでは晴海から亀戸方面へ延びる鉄道を途中で分岐し、行徳経由で船橋で総武線と接続し京葉地域との利便性を図ることが提案されている。ここでは、当時千葉県の副知事だった友納武人(後、千葉県知事)の記者会見での説明を報じた上で、こう記している。
月島線建設については国鉄が実現に本腰を入れているので三十三年度中には着工の見通しだが、県計画によると五井・八幡地区臨港線を三十四年度に着工し、その後引き続き行徳線と京葉海岸線を手がけたい意向である。
■パタリと消えた旅客化議論
実は、これまでの調査で国鉄が晴海線にどのような計画を立てていたのかに関する資料は発見できていない。ただ、こうした資料からは晴海線が単なる貨物専用の引込線ではなく、総武線・東海道線と接続し旅客化されることは、かなり現実味を帯びた話だったことがわかる。
しかし、こうした盛り上がりとは別に、この後晴海線の計画はパタリと姿を消し、まったく触れられることはなくなってしまう。千葉県の計画は貨物専用の京葉臨海鉄道として実現するが、東海道線との接続には至らなかった(※17)。
そして、モータリゼーションの進行と共に、東京港に張り巡らされた鉄道網は徐々に縮小していった。その中でも晴海線は最後まで利用されたが、1989年には廃止されるに至った。その後、晴海では再開発が進められ、現在は鉄道橋を除いて、かつて線路があったことを伝える遺構はない。
資料を読む限り、開発が進む中で、晴海線は東海道方面へ延伸、さらに旅客化へと計画は前向きだったと思われる。にもかかわらず、なぜ頓挫してしまったのか。高度成長期以降、交通インフラの整備が進んだ東京で早期から計画されていた、この路線が実現しなかったのは解せない。
筆者がここで注目したいのは、当時の晴海を含む月島地域の地位の低さとの関連だ。物流基地としては発展が期待されていたようにみえる晴海だが、実のところ、晴海の発展が地域に恩恵をもたらすとは認識されていなかったようだ。
例えば、晴海線が開通した前後の中央区会議事録を読んでみても、晴海線や晴海の開発計画については、まったく言及されていない。中央区は1947年3月に日本橋区と京橋区の合併によって、誕生している。だが、元来、京橋区の一部であったはずの月島地域の存在は極めて軽かった。
※17 京葉臨海鉄道『二十年史』1983.3
■なぜ計画は実現しなかったのか
戦前から発行されていた地域紙『中央月島新聞』1949年6月5日号では「月島一等地区論」というタイトルで社説を記し、区内における月島の扱いの軽さを批判している。
然るに中央区議会の如きは旧態依然として日本橋京橋地区の選出議員が幅を利かせ、月島を三等地区扱いにして、議長一人さえ配給しない状態である。
実際、開発間もない月島には江戸時代から続く伝統を持つ日本橋・京橋地区とはまったく異なる世界が広がっていた。『読売新聞』1957年6月10日付朝刊では中央区役所が発表した、区立中学校卒業生の進路を紹介している。その内容は次のようになっている。
進学:
日本橋地区 78%
京橋地区 65%
月島地区 47%
就職:
日本橋地区 9%
京橋地区 21%
月島地区 33%
夜学:
日本橋地区 8%
京橋地区 11%
月島地区 15%
このように、区内には歴然とした格差が存在していた。
そんな土地の印象は、地元紙の『中央月島新聞』でも「月島はその環境から痴漢出没に都合のよい環境と見られ、時々婦人を脅かしている」(※18)と書いているほどである。
月島は取るに足らない地域であり、晴海はその先にある荒れ地(路上強盗や痴漢も多発)、そんな意識が当たり前に蔓延していたのである。
月島・晴海地域の社会的地位の低さにより、区内での政治的発言力が弱く、晴海線の延伸・旅客化が区全体の重要課題として取り上げられることはなかった。結果として、計画は実現せず、国や都の決定に従うのみとなった。
※18 中央月島新聞 1959年9月15日付
■インフラ整備を放置したツケ
ところが、交通インフラ整備を重視しなかったツケは昭和40年代には早くも問題になっている。
『読売新聞』1974年2月15日付朝刊の「中央区の小学校に珍現象 こちら過密、片や過疎」では、日本橋・京橋ではオフィス街化したことで児童数が激減している一方、月島・晴海では環境の悪化によって工場が次々と移転、跡地を民間のマンションや社宅に転換する現象が起き、人口が増加「この4年間で1500人近く増加(現在3万1000人)」したと報じている。
さらに、東京国際見本市会場は内外から多数の来場者を集めるものに成長し、晴海は居住人口と共に来訪者も多い地域になっていた。
にもかかわらず、交通インフラは極めて貧弱だった。1968年には都電の日比谷~月島間が廃止。都心からの交通手段は当時二系統しかなかった都営バスのみになっていた。
『朝日新聞』1969年10月26日付朝刊の「晴海栄えて土地っ子嘆く 交通マヒ・騒音・排気『地元をどうしてくれる』」では、特に盛況な「東京モーターショー」が開催されると、会場から銀座までがすべて渋滞。運転手同士が車から飛び出して喧嘩する光景も見られ、バスに至っては有楽町まで40分はかかるとも記している。
この後、1988年6月に有楽町線月島駅が開業。ようやく月島地区は鉄道空白地帯ではなくなったものの、依然として利便性は低かった。
これを踏まえ、1980年代から盛り上がった臨海部再開発計画では都営十二号線(現大江戸線)を臨海部に延ばし問題を解決することも検討された。当初の検討では月島から分岐し、晴海から豊洲、有明方面への延伸が図られたが、これは実現しなかった。
■地下鉄新線の完成まで「陸の孤島」状態は続く
その後も、ゆりかもめ開通後には、豊洲から晴海を経由して勝どき延伸することも期待され、豊洲駅は延伸を念頭においた形で建設された。しかし、東京駅から築地を経由し、有明に向かう地下鉄を検討していた中央区が懸念したために、これも頓挫。「晴海フラッグ」においても、交通インフラはBRTを整備することで解決が図られることになった。
現在、東京都では2040年までの開業を目指し、中央区の要求していた東京を起点に築地、晴海を通るルートで、全7駅の地下鉄新線の事業化を進めているとされる。この計画が実現するまで、晴海の「陸の孤島」状態は今後十数年続くことになる。
いかにタワーマンションが建ち並び、マンション価格が話題となろうとも、その土地としての魅力が向上したとは言い難い。現に、中央区の歴史の中で、いまだ一度も月島地域から区長が選出されたことはない(現在の山本泰人区長は日本橋の老舗・山本海苔店の出身)。区内における月島・晴海地域の政治的存在感の薄さは、戦前から続く地域間格差の名残といえる。
結局、長期にわたる交通インフラ整備の遅れこそが、晴海地域の開発や不動産価値の不安定さ、そして地域の社会的地位向上を妨げる根本的要因となってきたといえる。最初に万博が頓挫したことこそが、現代の晴海が抱える都市問題の原点なのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)