人生には悪いことが重なることがある。現在40代の女性は父親を56歳で亡くし、夫とは他愛ないことで離婚した。
ひとり暮らしとなった女性の癒しの時間は、YouTubeで見知らぬ人が料理し食べる「飯動画」を眺めることだった――。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
■スパルタの母親と気前の良い父親
関東生まれ、関東育ちの毛利花梨さん(仮名 40代)は、母方の祖母と両親、兄と弟の5人家族で育った。両親は2人とも国家公務員で、父親が25歳、母親が20歳の時に結婚。母親は21歳の時に兄を、その5年後に毛利さんを出産し、毛利さんの3歳下に弟が生まれた。
「父は温厚で正義感が強く、優しい人でしたが、職場では一部から“イカツイ組合会長”のようなイメージで見られていたようです。母は当時としては珍しいキャリアウーマン。
志が高く負けず嫌いで、自分にも子どもにも厳しい人でした」
母親は家事も手を抜かなかった。毎晩帰宅してから家族の夕食を作り、弁当も用意。掃除も洗濯も夜の間や休日にまとめてした。
「部下を持ってからは、全員が帰るまで職場に残り、帰宅は深夜になることもありました。一般的な優しいお母さんとは違い、会社の上司のようで、遊んでいて門限を破ったり、学校の成績が悪かったりすると張り手され、怖くて逆らうことはできませんでした」
家事に手を抜かなかった母親だが、子どもと過ごす時間は多くはない。毛利さんはお祖母ちゃん子に育った。
明るく人懐っこい祖母は、家の前のバス停でバスに乗り遅れた人がいると、家にあげてお茶を出すほど面倒見が良かった。
やがて兄が反抗期を迎えると、暴君化。キレると家の中のものを破壊するようになり、バットで父親の車を潰したこともあった。
公立中学が荒れていたため、毛利さんまで兄のようになってしまうことを恐れた母親は、私立の女子中学校を受験させた。
食べることが大好きだった毛利さんは、高校生になると母親の代わりに家族のお弁当を作るようになった。
父親は39歳の時に国家公務員を辞め、自動車関係の会社を始めていた。
短大を卒業した毛利さんは、父親の会社を手伝うことに。父親が52歳の時に会社が倒産。21歳の毛利さんは金融系の会社に転職した。
「気前の良い父は、会社が景気の良い時は部下に500万円もボーナスを払ってしまい、母に激怒され、お詫びに母にマンションを購入しています。倒産後は家も車も何もかも失ったため、母のマンションに一家で移り住みました」
就職して8カ月後には、毛利さんは母親のマンションを出た。
「スパルタの母と怖い兄と早く離れたくて、転職後は6畳一間の狭いアパートで一人暮らしを始めました」
■父親への後悔
22歳になった毛利さんは、友達が企画する合コンに参加し、20歳の国家公務員の男性と出会い、交際に発展。1年3カ月後に結婚した。
同じ頃、毛利さんの54歳の父親が肺がんと診断され、余命3カ月との宣告を受ける。
「急に体重が10kgほど落ちたため、不安になって病院へ行ったところ、肺がんとわかったようです。1日に2~3箱も『シンセイ』を吸うヘビースモーカーだっただけに『やっぱり』と思いましたが、動揺しました」
父親は手術を受け、約1カ月で退院。退院後、2カ月ほどで体力が戻ると、バイクでガスの集金のアルバイトを始めた。
宣告されていた余命の3カ月を超え、安堵していた父親と毛利さんたち家族だったが、手術から10カ月後に脳溢血を起こし、父親は半身不随になってしまう。

現役で働き続けていた母親は忙しく、毛利さんと兄は結婚して家を出ているため、父親の介助をするのはまだ20代で独身の弟がメインだった。
父親は集金のアルバイトを辞めざるを得ず、自宅で過ごすように。
さらにその3カ月後、脳に腫瘍がみつかり、55歳になっていた父親はホスピスに入った。
「社会人になってからの私は、仕事のストレスで、実家に行く度に父に当たり散らしていました。それは父が病気になってからも変わらず、結婚を控えていた頃はなおさらピリピリしていたと思います。結婚してからは月に1度ほど実家を訪れ、どんどん衰えていく父の様子に胸が張り裂けそうになりました。父に申し訳ないことをしたという思いはあったのですが、なかなか面と向かって謝ることができず、入院先の病院へはよく父の好物の和菓子を持って訪れていました」
ホスピスに入ってからは、週2~3回面会に行き、父親と穏やかな時間を過ごした。
2004年2月。父親が危篤状態となり、施設から連絡が入る。毛利さんと夫とで駆けつけた時、すでに母親が到着していた。
「私がホスピスに駆けつけたときは、生にしがみつこうと必死な形相の父の姿に胸が苦しくなりました。握っていた父の手は、息を引き取った後もしばらく温もりが続きました。
父に吐いた心ない言葉や態度を後悔するばかりでした……」
父親は56歳で亡くなった。
そして結婚から2年後、夫が北海道に転勤が決まる。毛利さんは仕事を辞めたくなかったため、夫は1人で北海道に行った。
「夫からは、『上から2年で戻れると言われている』と聞いていたものの、3年経っても4年経っても戻らず、新居での一人の生活が当たり前になっていきました」
■YouTuberとの出会い
夫の単身赴任から5年後。毛利さんが聞いていた日より1日早く夫が帰ってきたが、その時毛利さんは入浴中。夫は鍵を持っていなかったため、毛利さんが玄関を開けるまでインターホンを鳴らし続けた。その後、大喧嘩になり、夫から別れを告げられた毛利さんは、32歳で離婚。
単身赴任からの離婚で、1人の生活に慣れきってしまっていた毛利さんだったが、ふと、自分のように1人で食事をする人たちに興味を持つ。
もともと食べることや料理することが好きだった毛利さんは、YouTubeで「飯動画」というものがあるのを知り、見てみた。するといつしか、毎晩、飯動画を見ながら晩酌をするようになっていた。
「配信者の多くは、1人で食べているシーンを写しています。無言でただひたすら食べるだけの人、膨大な量をたやすく完食する人、画面に語りながら楽しそうに食す人、新商品を紹介しつつ食べて感想を言う人……さまざまな人の食卓を目にしながら夕食に向かう私は、他から見たら奇妙だったかもしれません」
最初は、特に思い入れもなく、ただ他人が食べている美味しそうな食事を前に食事していた。

だが次第に、1人の男性YouTuberの「飯動画」を頻繁に目にするようになっていく。
その男性は自分で料理し、綺麗に盛り付けて、1人で語りながら食事をする。そうかと思うと、ときには斬新な料理やデカ盛り弁当を作り、気持ち良いほど美味しそうに豪快に頬張って見せた。
穏やかな気持ちにさせてくれたり笑わせてくれたりするその男性に、毛利さんは惹かれていった。
■YouTuberの過去
毛利さん(当時30代)はその男性YouTuberの過去動画を遡っていくと、2013年12月に彼は舌がんが判明し、大手術の末、舌の半分を失っていたことを知った。
男性は手術前の入院から少しずつ回復していく経過を動画として配信していた。
手術後は食事もままならず、ミキサーで液状にした流動食。食べることで毛利さんのようなファンを楽しませていたのだった。
日を追うごとに少しずつ普通の食事へと変化していく様子を目にして、毛利さんは安堵を覚えた。ところが、2014年7月の動画を最後に、配信はプッツリと途絶えてしまう。
毛利さんは、毎日彼の配信を待ちながら、過去の配信を見て「もう、無理なのかな?」と寂しさを滲ませていた。
しかしある日、その男性YouTuberが健康な頃に配信していた一人旅の動画を発見。
彼は和歌山県の日の岬灯台に行ったようだ。毛利さんはその動画に引き込まれ、感動を覚えた。
「彼には舌がんの手術の影響で、声帯の片方が麻痺してしまう兆候がありました。そこで今度は声帯の手術を受けたようですが、効果には個人差があるのか、一週間は元の声を取り戻しましたが、すぐに掠れ声に戻ってしまったとか……。でも、食欲はだいぶ戻って、多くのファンが待つ動画界へと少しずつ復帰されていきました」
■YouTuberの試練
2015年5月初旬。毛利さんは彼が新しく配信した動画の題名を目にしたとき、愕然とした。
舌がんの再発だった。
「日々、私の独りの晩餐の夜を、多くの動画で楽しませてくれた人。大病を患って声も掠れて、それでもここまで元気に回復したというのに、あっけなく再発してしまったと知り、ショックでした。彼に対する思いが募っていた私は、今までは傍観してきただけでしたが、『今自分にできることは、感動したということを伝えることだ』と思い、日の岬灯台の旅動画にメッセージを送りました」
すると5月末、彼から返信があった。
メッセージの冒頭には、返信の遅れの理由とお詫びがあり、最後に、「たまにでいいのでポチポチメッセージいただけませんか。僕のエネルギーです」と綴られていた。
「病気の再発を抱える彼からのそんな謙虚な一文に、私は彼の他者には語れないつらい心情を垣間見たような思いでいっぱいになり、『私にできる範囲であなたを助けたい』と返信しました」
6月。彼は大手術へ向け入院。手術を受けた5日後、彼は動画の傍で綴っていたブログのみ更新した。今回受けた手術について説明する内容だった。
「首を大きく切開して舌を出し、がんを取り除いたわけですが、全身麻酔から覚めると、開いた傷口から痰があふれ出て、その痰で呼吸できずに溺れそうになるほどで、ゆっくりと眠ることすらままならない日々を過ごしているとのことでした……」
空気を吸っても上手く酸素を取り入れられず、喉が乾いても口から水すら摂取できない。栄養は鼻から通したチューブで、流動食を直接胃に流し込むだけ。そんな過酷な状況を知った毛利さんは、言葉を失った。
「どんな言葉を伝えても、彼の抱える苦しみは当人でしかわからないことで、私では理解の及ばないこととわかっていましたから、無力な自分が悔しくなりました」
だからただ、彼が無事でいられたことに安心したとだけ伝える。するとまた、彼から返信があった。
「僕の夢です。花梨さんと粋な居酒屋で晩酌すること。それを考えるだけで、病気も治りそうです。これからも、よろしくお願いします。病室のベッドより」
その後も他愛のないメッセージのやり取りは続いた。
■告白
彼は術後の傷の痛みで眠れないことが少なくなかった。そんなとき、毛利さんは彼を気遣うメッセージを送った。すると翌日、彼からの返信に、こう綴られていた。
「花梨さん。痛みが激しく眠れない時に、花梨さんからメッセージを頂きました。すごく、嬉しく拝見しました。直球で言います。花梨さんが好きです」
毛利さんの心が大きく揺さぶられた。(以下後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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