■やなせたかしの学生時代にあった出会い
アンパンマンを生み出した、やなせたかしとその妻・暢の夫婦をモデルにした今回のNHKの連続テレビ小説「あんぱん」。ドラマでは、主人公の嵩が紆余曲折ありながらもついに「絵を描いて生きていく」と決心し、東京高等芸術学校に入学しました。本格的に美術の道へと足を踏み入れました。
やなせたかしは「アンパンマン」以外にも、「手のひらを太陽に」「アンパンマンマーチ」の作詞家としても知られています。実はそのほかにもデザイナーや舞台芸術、シナリオライターなどさまざまなジャンルで活躍しました。
その仕事ぶりは、手塚治虫や立川談志、永六輔など、そうそうたる顔ぶれから頼りにされるほど。やなせたかしに「遅咲き」というイメージを持つ人も多いかもしれませんが、むしろ今でいうマルチクリエイターの先駆けとして若いころから活躍していたのです。そんな彼の方向性を決定づける出会いが、実はこの学生生活にありました。
嵩が通う東京高等芸術学校は、実際にやなせたかしが通った「東京高等工芸学校」がモデルになっています。
この学校は、私が現在所属する東京科学大学(旧東京工業大学)の前身である、東京高等工業学校の工業図案科を源流としています。
■異例の最先端教育
この学科は、工業学校と美術学校との境界領域(産業デザイン)を教授する学科として1897年に設立されています。
今でこそスタンフォード大学が2004年にDスクールを設置するなど、理工系教育とデザイン教員の融合は世界のエリート校で進められていますが、19世紀末の日本で工業とデザインを融合する最先端教育が行われていたのです。
しかし、残念ながらこの工業図案科は、1914年に東京美術学校(現・東京藝術大学)に併合されてしまいます。工業教育とデザイン教育は不可分だ、という学科長の松岡寿や安田禄造ら教員たちが立ち上がり、工業や商業で図案、デザイン、美術とセットで学べる場を作ろうとした結果できたのが、新たに1921年に東京市新芝町(現・港区田町)に開校した東京高等工芸学校でした。初代校長は松岡寿です。
もし工業図案科が東京高等工業学校から引きはがされて東京美術学校に移管されていなかったならば、その後の東京工業大学、現在の東京科学大学は、世界でも最先端の工業とデザインを融合した教育成果を次々と生み出していた可能性があります。
東京高等工芸学校は戦後、学制改革で新制千葉大学工学部となりますが、同大学工学部から工業デザイン、写真・映像の世界の才能が数多く生まれた理由は、学部の源流が「工業図案科」だったからです。
■「銀座に行って遊んできなさい」
やなせたかしは、東京高等工芸学校の工芸図案科で学びます。こちらは工業デザインはもちろん、グラフィックデザインや広告や商業につながる視覚デザインを勉強できました。
東京高等工芸学校で「商業美術=広告デザイン」を学んだことは、彼が他の漫画家や絵本作家と一線を画す大いなる強みになりました。やなせたかしは、漫画家であると同時にデザイナーなのです。
先進的な発想で生まれた東京高等工芸学校は、大正デモクラシーの影響もあり、自由主義的な校風でした。
「あんぱん」では、座間晴斗という役名で、声優の山寺宏一さんが演じます。山寺さんと言えば、アニメ「それいけ!アンパンマン」で二代目ジャムおじさんやチーズ、カバオくんなど数々の声を演じていることで有名です。
杉山教授は、高知から上京したばかりのやなせたかしにこう教えます。
「デザインは教室なんかじゃ学べない。銀座に行って遊んできなさい」
■恩師の言葉通りの将来になった
1930年代の銀座ほど華やかな街は当時の日本には存在しませんでした。銀座は各地から最先端のモノ、人が集まる、メディアの集積地と言える場所す。「銀ブラ」を繰り返すことで、やなせたかしは日本における商業、工業デザインの黎明期に立ち会い、吸収していきます。
「あんぱん」では、女子師範学校で「大和魂」を叩き込まれるのぶと、自由な校風でのびのびと学ぶ嵩の姿が対照的に描かれています。杉山教授とのやりとりは、実際にやなせたかしが当時受けた教育がいかに最先端だったか、よくわかるエピソードだと思います。
さらに杉山教授は、その後のやなせたかしの生き方を予言するようなメッセージを残しています。
「デザインの学校に入ったからと言って、デザイナーにならなくったっていい。小説家でもタップダンサーでもなんでもいい、好きな道へすすめばいい。ここは自由な学校だから」
実際にやなせたかしがどんな道を選んだのか。最初に仕事として選んだのは、広告デザイナーです。そしてほぼ同時に漫画家にもなります。その後高知新聞の社会部記者となったかと思えば、雑誌『月刊高知』の編集者にもなります。三越では包装紙のデザインを担当し、その後、絵本作家としても活躍するのはご承知の通り。さらには舞台で歌を歌い踊るまでに。2000年代にはシンガー&ダンサーにもなっていました。
杉山教授が口にしたことを、やなせたかしは具現化してしまったのです。
■困ったときのやなせさん
やなせたかしは学校卒業後、東京田辺製薬の宣伝部を経て、1943年に中国大陸に出兵。終戦から半年後の1946年まで中国にとどまりました。
「あんぱん」の第1話を思い出してください。冒頭「正義は逆転する」という嵩の語りでスタートしましたが、ここにつながるストーリーがドラマでは描かれるはずです。
終戦後、やなせたかしは高知新聞の記者を経て上京。日本橋三越宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き続けました。三越退職後にフリーになった後、1950年代半ばから1970年代にかけて、やなせたかしは「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど、頼まれた仕事は断らない姿勢で、漫画やイラスト以外の仕事を経験していきます。
冒頭でも紹介しましたが、手塚治虫、宮城まり子、立川談志、永六輔、向田邦子、いずみ・たく、羽仁進ら、当時のスターと共に舞台美術制作や放送作家、作詞家などの仕事をするなかでその才能に磨きをかけていきます。後年、やなせ本人は「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる」とこぼしています。
■手塚治虫との仕事で気づいた“とんでもない才能”
「あんぱん」では、そのスターたちをどんな役者が演じるのかも楽しみです。そもそも、なぜ彼ら名だたるスターたちとやなせたかしが一緒に仕事ができたかというと、彼が漫画家であると同時にデザイナーだったからです。どんな一流のデザイナーでも、デザイナーという仕事にはクライアントがつきものです。つまり、請負仕事なのです。
舞台美術や衣装作成、シナリオライティングなど、デザインに関連する仕事を頼まれたらなんでも引き受けた彼は、デザインを実地で学んでいきました。
特に、手塚治虫の長編アニメーション映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインと美術監督を任されたことは、彼に大きな影響を与えました。やなせたかしといえば、アンパンマンのイメージが強い方が多いかもしれませんが、竹久夢二はじめ大正期の抒情画家たちの影響を受け、ファンタジックな絵を描くことができました。
同作では、そんなやなせたかしの造形力が存分に発揮されています。また、この『千夜一夜物語』の制作に参加したことで、やなせ自身も自分のとんでもない才能に気づきます。それは、キャラクターを描き分ける才能です。
■だから生涯で2000以上もキャラを生み出した
この才能は、千夜一夜物語の約20年後に始まった「それいけ!アンパンマン」で発揮されます。2009年に「単独アニメシリーズに登場する最多のキャラクター数」(1768体)でギネス世界記録に認定されるのです。さらに、やなせたかしは全国各地に200体近くのご当地キャラクターをデザインしています。
その神髄は色の使い分けです。やなせたかしはこれが非常にうまく、立体性のないシンプルな絵柄でも、キャラクターごとに色分けすることで、個性を生み出しています。例えば、ばいきんまんは黒と紫、ドキンちゃんはオレンジの体色に緑色の目、といったように、色のパターンと形でキャラクターがぱっと認識できるのです。
アンパンマン放送以前のやなせたかしの仕事ぶりは、現在ならメディア界のスーパーマルチクリエイター的な扱いを受けていたでしょう。ところが、残念ながら、戦後のマスメディア黎明期の当時では、マルチクリエイターなどというくくりはありませんでした。やなせたかしの天才性に誰も気づかなかったのです。なにより当人が気づいていなかった節すらあります。
やなせたかしは69歳になってようやく「アンパンマン」でヒットを出した遅咲きのクリエイターだったのではありません。むしろ早すぎたといえるでしょう。やなせたかしの関連書籍を読み込んだ私が痛感するのは、時代が彼の才能に追いつくのに時間がかかったということです。
でも、その時間は決して無駄ではありませんでした。やなせたかしの早すぎた才能が結実して、遅咲きのヒーロー、アンパンマンとなり、日本中の乳幼児の「友達」となったからです。
----------
柳瀬 博一(やなせ・ひろいち)
東京科学大学リベラルアーツ研究教育院 教授
1964年、静岡県浜松市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、日経マグロウヒル社(現・日経BP社)に入社。「日経ビジネス」記者、単行本編集、「日経ビジネスオンライン」プロデューサーを務める。2018年より東京工業大学(現・東京科学大学)リベラルアーツ研究教育院教授。『国道16号線――「日本」を創った道』(新潮社)で手島精一記念研究賞を受賞。他の著書に『親父の納棺』(幻冬舎)、『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』(小林弘人共著、晶文社)、『「奇跡の自然」の守りかた』(岸由二共著、ちくまプリマ―新書)、『混ぜる教育』(崎谷実穂共著、日経BP社)がある。
----------
(東京科学大学リベラルアーツ研究教育院 教授 柳瀬 博一 インタビュー、構成=ライター市岡ひかり)