映画『ぶぶ漬けどうどす』(6/6公開)の題材にもなったように、京都では訪問客に帰ってほしいとき、遠回しに「お茶漬けでも」と言うという。18歳から京都で学生生活を送り、現在も京都に暮らす仲村清司さんは「上方落語から広まった話だが、50年近く京都人と付き合ってきて、実際にそんな振る舞いは見聞きしたことがない」という――。

※本稿は仲村清司『日本一ややこしい京都人と沖縄人の腹の内』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
■「京都の人はイケズで裏表がある」という話は納得できない
よそ者に冷たい、表裏がある、意地が悪い、嫌味な人たち、陰湿、排他的、腹黒い、皮肉屋、陰険、せこい……。
京都人に対する誹謗中傷である。ほかにも汲めども尽きせぬほど京都人への悪口が巷にあふれている。よくもまあ、特定の地域の市民のことをここまでけなせるなあと感心してしまったが、ネットで見つけたものにこんなのもある。
「京都人に褒められたら真に受けたらあかん。京都の人間は本音を生八ツ橋に包んでいるんや。褒め言葉は馬鹿にされていると思ったほうがよろしいで」
ある大阪人の言葉だが、ここまでくると、「あんたのほうが陰険で皮肉屋で底意地が悪い!」といいたくなる。
京都ぎらい』(井上章一著・朝日新書)がベストセラーになってから、京都人バッシングはより激しくなった。しかし、『京都ぎらい』は洛中の人たちによる洛外に対する差別意識を紹介した内容だという井上章一さん自身、右京区出身の京都人である。したがって、単純な京都批判ではなく、京都内の階層意識をとりあげた本といっていい。
平たくいえば、大阪市内出身の人間が大阪府下の地域を見下しているのと同じで、「地域学」である。
このことを面白がってとりあげたのが、県民意識や県民食を盛りに盛って放送したテレビ番組で、僕の実感ではこれを機に京都バッシングが過熱していったようだ。
■50年間で一度も見聞きしたことがない「京都のイケズ」
「京都人はイケズ」というフレーズは都市伝説を超えて日本全国にあたかも真実のように蔓延している。これが曲解されれば社会問題になるおそれもある。
仮に京都出身の人が他府県に引っ越しをし、子どもが転校した場合のことを考えていただきたい。
「おまえ、京都人か。だったら性格もイケズだろう」と茶化され、イケズというあだ名でもつけられたら差別事件に発展する。
僕は大学時代を京都で暮らし、その後も春夏秋冬、京都に通い、沖縄で過ごした時代も花の季節や年末には必ず京都に足を運び、初老期になってついに京都に居を構えた。
何がいいたいかというと、その間、一度もイケズにあったことがないのである。京都暮らしに何一つ不満はないが、それでもなにかひとつあげよといわれたら、桜と紅葉は拝ましていただいたけれど、イケズだけは見たことがないことがそれだ。
■そもそも「イケズ」とはどんな振る舞いなのか?
だからこそいまもってホンマモンのイケズが存在するなら、その個別体験を目の当たりにするなり、のぞき見したいとまで思っている。
もっといえば、ワタクシは根が性悪ゆえ、「京都人にこうしたら向こうから存分にイケズを味わわせてくれる」という必殺イケズ仕掛け人になってもいいと思ったりするのだが、あるいはもしかするとイケズされているのに、そのことに気づかずに生きてきたかもしれない。
が、それほどまでに京都のイケズがわかりにくいなら、人畜無害すぎてイケズとはなんぞやと問いたくなる。
京都出身で『イケズの構造』(新潮社)を著した入江敦彦(いりえあつひこ)氏はイケズの例をこう述べている。
「たとえばイケズとは、くだんのお姫様の布団の下へ豆を歳(とし)の数だけ節分の夜に忍ばせるような行為。そして彼女が気づき抗議してきたら『残さんとお食べやす。縁起よろしおすえ』と微笑んでみせるのです」
入江氏はこれぞ「ほぼ完璧なイケズやわ」と述べているが、なにやら大奥の御局様(おつぼねさま)のような意地悪で、現実には嫁姑の確執でもこんなシーンは存在しないだろう(と信じたい)。
■「京都のイケズ」は仕立てられた完全なるフィクション
よって、僕は京都人がイケズというのは神話であると断定している。
しかし、イケズを外部から持ち込み、それが原因でこの神話がさも真実かのように広めた人がいる。どういうことかというと、京都人がイケズではなく、イケズであるかのように仕立てた人物がいるということだ。
出所は1775(安永4)年に出版された笑話本(しょうわぼん)『一のもり』の小噺(こばなし)で、同じようなネタが1808(文化5)年の十返舎一九(じゃくぺんしゃいっく)の小噺集にもあるという。十返舎一九は江戸住まいの戯作者で『東海道中膝栗毛』を書いた人物として知られているが、上方(かみがた)(京阪神地方)に在住したことがあるので、そのときにこの噺を仕入れたかもしれない。これがのちに『京のぶぶ漬け』あるいは『京の茶漬』という上方落語で演じられ、人気を博したという経緯をたどっている。つまりは作り話で、完全なるフィクションなのだ。
しかも笑話本が出版された当初は京都に限った噺ではなかったらしい。
噺の展開がなんとなく京都っぽいということから、落語では京都が舞台になった。
ということは江戸中期には「京都あるある」噺というイメージができあがっていたのかどうか。
むろん確証はない。
■上方落語「京の茶漬」ではこういう話になっている
ワタクシはどんなジャンルの音楽も聞かないし、まったく関心がなく、お店のBGMですらいまいましく思うほど、心の中が荒蕪(こうぶ)の地のように殺風景きわまりない人間で、ホントは音響機器など必要ないのだが、ごく小型のコンポは置いてある。
なぜかというと落語がないと生きていけない人間だからだ。それほど落語は生活の一部になっていて、趣味を超えている。車の中でも落語のCDを聞くし、寝るときもスマホにヘッドフォンのスタイルで落語を聞く。でないと不眠症がひどくなるタチで、落語は依存症にはなるが、副作用のない睡眠薬だと思っている。
なので『京の茶漬』も暗記するほど聞いている。ためしに、桂米朝(かつらべいちょう)師匠の『京の茶漬』を聞きながら、あらすじのポイントを拾ってみることにしよう。
京都の得意先をよく訪れる大阪の商人がいて、帰りがけになると必ずそこのおかみさんが、「なんもおへんのどすけど、ちょっとお茶漬けでも」と声をかけるのだが、茶漬けなど出たためしがない。
そこで、腹を立てた商人が、「よし、いっぺんあの茶漬けを食うてこましたろ」と商用にかこつけて昼時に得意先にやって来る。

あいにく主人は留守で上がり込んで待つことにする。その間、おかみさんと雑談をし、茶漬けのことを匂わせた会話もするのだが、おかみさんは気づいていないそぶりをする。何度も駆け引きをしながら話題を茶漬けにもっていこうとするのだが、おかみさんはそしらぬふりを続ける。
■「ぶぶ漬けでも、どうどすか」の真相
「これはあかんな」と諦めた商人、引き上げるあいさつをしたところ、今度はおかみさんがしくじってしまった。つい、いつもの癖で、「えらいすんまへんなあ。あの何にもおへんけどちょっとお茶漬けでも」といってしまう。
商人にしてみれば、まさにこの一言を待ってました! なのである。
「さよか、えらいすんまへんなあ」と遠慮なしに居座る。おかみさんはしまったと思ってもすべてはあとの祭り。台所へ行ったものの、ご飯はほとんど残っていない。
そこで、あるかぎりのご飯をかき集めて茶碗に盛り、漬物をそえて商人の前へさし出した。あまりに少ないご飯を商人はすぐに食べてしまい、「おかわりを」といいたいものの、おかみさんは知らん顔で後ろを向いたまま。
むろん、彼女はそのことに気づいているのだが、ないものはないので、無視を決め込むしかない。
で、商人はこっちを向かそうと、「このお茶碗は清水焼でっしゃろ。いい茶碗でんなあ。土産に五つほど買うて帰りたい。この茶碗はどこでお求めになりました」と空の茶碗をおかみさんの目の前へ突き出した。
するとおかみさんも負けていない。「これといっしょにそこの荒物屋で買うたん」と、からっぽのおひつを突き出したというのがオチだ。
■「お茶漬けでも」と言って「早く帰れ」と追い出す慣習はない
つまり、「ちょっとお茶漬けでも」というのは、おかまいもできずにすみませんというあいさつで、そういわれたら訪問者は「いえいえ、こちらこそ長居してしもうて。そろそろ帰ります」という符牒(ふちょう)のようなものなのだ。
ただし、この符牒もどきみたいなやりとりも作り話で、京都にはそんな慣習はない。この噺の真偽を行きつけの酒場のおかみさんに聞いたところ、
「お客さんに対して、いくらなんでもそんなお茶漬けみたいな恥ずかしいもん、出されへんわあ。かえって失礼や。
それに、昔もいまもお茶やら飲み物を出すとしたら茶菓子を添えるくらいちゃうの」
というご返事でしたな。ケチな大阪人のワタクシもまったくその通りやと思いますわ。
事実、京都のみならず江戸の大店(おおだな)でもふだんの食事は質素なもので、客に食べてもらえるような料理など出さなかった。商売上、無碍(むげ)にはできない大切な人なら仕出し弁当を出すことはあっても、そもそも、どんな土地でも、昼時に家を訪ねること自体、失礼・無礼な振る舞いとされてきたはずである。
■京都の町家の老婦人から受けた真心ある「おもてなし」
これが常識というもので、ごくふつうに考えると、非常識なのは大阪の商人ではないか。大阪育ちの僕のような人間なら、この落語は京都のイケズをいじっているのではなく、たかがお茶漬けを食べたいがために京都まで訪ねていく大阪の商人のほうが、よほどケチでせこいことを伏線にしていると理解できる。
実のところお茶菓子については僕自身、体験した話がある。京都のひな祭りの取材で編集者と2人で某町家(まちや)を訪ねた帰りに錦(にしき)市場をぶらついていたときのこと。編集者の肩を叩く人がいた。先ほど取材させてもらった老婦人であった。走ってこられたのか少し息せき切っている。
「お二人がお帰りになられてすぐ追いかけてきたんやけど会えてよかったわ。お菓子を召し上がらなかったでしょ。食べられんようやったら、遠慮せんと懐紙(かいし)に包んで持って帰ったらええの」
といって、わざわざ和菓子を包んで僕たちを探していたと話された。取材の席で和菓子を供されたのだが、なんとなく気後れし、食べずにそのまま残してその家を出たのであった。
京都人の気遣い、心配り、作法というものが、この出来事に凝縮されている。
■落語でも、昼時に訪ねていった大阪商人の方が非常識だ
わが居宅の家主さんも然り。毎春、筍ずくめの重箱、秋には灰干しさんまなどを差し入れてくれる。知人の女性は“すぐき”の漬物やおそうざいをもってきてくれる。いろんな土地で暮らしたが、ここまでしてくれたのは京都だけだ。
それに比べてお茶漬け伝説の大阪商人のせこさはなんと表現したらいいのだろう。生まれも育ちも大阪の僕には耳の痛い落語で、あの桂米朝師匠も、
「これは昔の噺で、今の京都はずいぶん派手なところになりましたが、それでもやはり京都ではちょっとやりにくい噺ではあります」(『桂米朝コレクション 上方落語8』・ちくま文庫)
と吐露している。
つまりは京の茶漬けは「京都人あるある」ではなく「大阪人あるある」を描いた小噺というわけで、この文脈を読み違えるとこの落語の面白みは半減する。
実際、京都在住のどんな人に尋ねても「聞いたことも体験したこともない」というから、これは作り話にオヒレがついたものでしかないようだ。

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仲村 清司(なかむら・きよし)

作家

1958年、大阪市生まれの沖縄人(ウチナーンチュ)2世。作家・沖縄大学客員教授。大阪に18年、京都に4年、東京に16年暮らした後、’96年に那覇市に移住。2018年に京都に移住し、「同時二重通勤型生活」を送る。著書に『消えゆく沖縄』(光文社新書)、『本音の沖縄問題』(講談社現代新書)、『本音で語る沖縄史』『沖縄学』『ほんとうは怖い沖縄』(以上、新潮文庫)、共著に『新書 沖縄読本』(講談社現代新書)、『これが沖縄の生きる道』『沖縄 オトナの社会見学 R18』(以上、亜紀書房)などがある。

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(作家 仲村 清司)
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