※本稿は柴山哲也『なぜ日本のメディアはジャニーズ問題を報じられなかったのか』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
■松本人志氏が「事実無根なので闘いまーす」と言ったのは1年前
吉本興業所属のお笑いタレント、ダウンタウンの松本人志氏は、関西芸能界とテレビ界の大スターだった。
その松本氏に、「性的行為を強いられた」とするスキャンダル記事が「週刊文春」(2023年12月27日号)に掲載された。すぐさま松本氏はこれを全面否定、翌年1月8日、逆に文藝春秋社と編集長に対して、名誉棄損と5億5000万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴。「事実無根なので闘いまーす」と、X(旧ツイッター)に投稿するなどして、意気軒高なところを見せた。
文春側は、「記事には自信をもっている。萎縮することなく、今後も報じるべき事柄があれば、これまで通り報じます」と動ずることはなかった。後続の特集記事で、性的被害に遭ったとする女性たちの生々しい新証言を集めた「文春砲」が放たれていった。
■万博開幕の半年前、松本氏は名誉毀損の訴えを取り下げる
世論の批判を浴び、松本氏は「裁判に注力する」という理由で、芸能活動やテレビ出演などの休止を宣言することになった。
2024年3月、裁判の第1回口頭弁論が開かれたが、松本氏は出廷しなかった。
しかし、2024年11月8日、松本氏は急転直下、「訴えを取り下げる」ことを発表した。
Xでは、「松本氏が白旗を掲げたように見える」との投稿をかなり見たが、松本氏が求めた被害証言の証拠は見つかっていないという弁護側の主張があった。しかし文春側は松本氏側の「訴え取り下げに同意」した。これによって裁判は終結した。
この間に、「金銭の授受は生じていない」という双方の同意事項が付け加えられていたが、これは重要な点である。
被害女性は、「被害のことを忘れた日はない。屈辱的な気持ちだった」。松本さんを見るたびに当時を思い出す。文春に訴えた理由は、「なかったことにしたくなかった。泣き寝入りせず、訴えることが使命だと思った。記事にある私の証言は事実」と朝日新聞記者のインタビューに語っている。
しかし文春の記事が出て身元や自宅が特定され、部屋に誰か入ってくるのではと不安になり、護身のため寝るときや入浴のとき、包丁をそばにおいていたと明かしている。
■「これが万博大使でいいのか」中学生が提起した素朴な疑問
松本氏の裁判では、あくまで「性加害の事実認定」が問題で、そのほかの芸能活動が問題にされることはなかった。しかし、日本中学生新聞の中学生記者がその点を突いた。記事にはこうある。
2024年3月17日(開催まで392日)
あべのハルカス近鉄本店「2025大阪・関西万博オフィシャルストア」の映像観覧スペースにて、アンバサダー紹介の動画が流れ、ダウンタウンの名前と映像が流れるのを目にして驚いた。2023年12月27日、週刊文春の記事に、ダウンタウンの松本人志氏が女性に性的行為を強要したと報道され、松本氏は、2024年1月8日に芸能活動を休止。これにより当然アンバサダーとしての活動も休止していると思っていたからだ。
その場で、大阪・関西万博公式ホームページでアンバサダー紹介のページを開くと、ダウンタウンの紹介とメッセージが掲載されていたが、オフィシャルストアで流れていた動画と、ダウンタウンの動画は「この動画は非公開です」と表記され全く観ることができない。
疑問を持った中学生新聞の記者が万博協会のコンタクトセンターに電話で問い合わせると有料のナビダイヤルにつながった。
そこで以下のような質問をした。
万博アンバサダーの松本人志さんは芸能活動休止中だが、万博アンバサダーの活動は休止しているのか。日本国際万博協会への問い合わせ通話が有料なのはなぜか――など6項目だった。
■万博協会に電話取材すると、非公開の動画が再び公開された
松本人志氏にかんしては「今後のアンバサダーの活動は特に予定はない。これ以上のことは現在裁判をされている事案でもあり回答は差し控える」との趣旨の回答があった。
こうした曖昧な回答ですら、「数回にわけて出してくる」用心深さだったようだ。
しかし取材の翌日から、配信が止まっていた動画が再生されるようになったという。電話の問い合わせで修正したのだろうか。「(松本氏の)裁判中を理由に回答を差し控えている万博協会だが、ホームページのアンバサダー紹介には名前を残し、動画の再生ができるのは、『現在活動中である』という位置づけなのか」と、中学生記者は鋭い指摘をしている。確かに、釈然としないのはこの中学生記者だけではあるまい。
ダウンタウン松本人志氏は2017年、大阪・関西万博の顔として「万博アンバサダー」に就任し、万博を盛り上げる広報やプロモーションに関与したが(2025年3月31日に退任)、果たして性加害問題の渦中の人物が日本を代表する「万博アンバサダー」としての適格性が問われるのは当然だ。中学生がこのことを問題視しているのに、松本氏側も松本氏を擁護する吉本興業も、この点に思いは至らなかったのだろうか。
■中学生は吉村大阪府知事の説明にも疑問を持った
中学生記者は吉村大阪府知事の以下の談話を、記事中でこう引用している。
吉村大阪府知事は、「事実無根で裁判で争う、裁判の期間中は芸能活動を休止されるということですから、その間はアンバサダーは当然、活動されない。休止になると思います」と自身の意見を述べた後、「博覧会協会等からは連絡は受けていない。博覧会協会と吉本興業との協議になるかと思う。博覧会協会からはまだ吉本とは話していませんという報告を受けていますので、正式に決まったものがあるわけではありません」と述べた。
政治家の言葉は複雑でわかりにくい。責任のたらい回しのようなコメント内容で、大阪・関西万博の運営に責任があるはずの吉村知事(万博協会副会長)のこうした言葉は、中学生の心に届くだろうか。
■1970年万博に比べ、2025年の万博に「モラル」はあるのか
1970年の大阪万博では、理念をめぐる深い論議が行われ、テーマ委員会の桑原武夫(京都大学名誉教授)、梅棹忠夫(民族学者)、小松左京(作家)などの学者、有識者によって「人類の進歩と調和」という開催理念が起草され、「世界の英知を集めて人類社会の問題解決をはかる」という高い理想が掲げられた。
岡本太郎の常識を破った「太陽の塔」のシンボルは世界の人々を驚かせ、アメリカ館が展示した「月の石」には見学する子供たちが列をなして群がった。世界77か国が参加し、6400万人を超える見学者を集めた巨大万博だった。
1970年万博の基本理念が高い理想を掲げていたのだから、今回の万博でも、新しいイメージを世界発信する万博アンバサダーの役割は極めて重いものがある。万博大使のちょっとした言動や評判が世界に拡散され、世界における日本文化のありかた、イメージが問われるのだ。だからこそ、今回の松本氏のこうしたスキャンダルの拡散はタブーなのだ。
その意味で、吉村知事の発言も問題の深刻さを理解していないというべきだろう。
中学生新聞の記者は、万博大使に任命されている松本氏の性加害スキャンダルにさぞ驚いたことだろう。実際に取材してみて、理解できない問題を整理して新聞記事にしたのだろう。
1970年万博のときは、跡地に国立民族学博物館ができて梅棹忠夫氏が館長になり、内外の学術教育の進歩に貢献したが、2025年万博の跡地にはカジノなどの娯楽施設(IR)ができるという。だが、カジノ施設の教育的、社会的負の影響がどう出るか、まったく未知数である。
■万博の予算が膨れ上がる一方で、会場の安全性には疑問が
さらに周知のとおり、大阪・関西万博は当初の予算の2倍の経費を費やし、「金食い虫」の批判を受けている。
主宰する日本万博協会は、「これまでの会場建設費1850億円をはるかに超える2350億円くらいに増える見込み」と、国、大阪府、大阪市、経済界に伝えている。国民の税負担はさらに厳しさを増すことになる。
中学生記者が協会への問い合わせでかかった電話が、有料のナビダイヤルというのも釈然としない。万博は公共の催しで莫大な予算を費やしているのに、問い合わせの電話料金をケチって有料にする仕組みも理解できない。
また産業廃棄物を埋め立てた夢洲(ゆめしま)の地盤には水が溜まりやすい、地下にはメタンガスが溜まっていて、爆発事故も起こっている。国内外の大勢の観客や子供たちが見学にくる会場の安全性は担保されているのだろうか。
■エプスタイン事件など、「性加害疑惑」に対する欧米の厳しさ
透明性や品位が問われる組織のリーダーや役職者による、隠された性加害事件への関与は、世界的に問題視される時代になっている。この種の問題はローマ法王庁でも、イギリス王室でも起こっている。
アメリカでは未成年少女を巻き込む性的な秘密組織が暴かれたジェフリー・エプスタインの事件がある。離島の別荘で繰り広げられた秘密クラブのパーティ客名簿には、富豪のビル・ゲイツ氏や大統領経験者、イギリス王室のアンドリュー王子など世界のセレブたちの名があった。王子は王室の資格を事実上剝奪され、ビル・ゲイツ氏はそれまで築いてきた名声を落としてしまった。
事件の首謀者だったエプスタインは「未成年少女への性的虐待、人身売買」の容疑で逮捕・起訴され有罪となり、収監中の刑務所で死亡した。エプスタインの恋人ギレーヌ・マクスウェルはイギリスの大新聞オーナーの娘で大富豪だったが、事件の共犯者として訴追され、有罪判決を受けて禁固20年の刑で収監されている。欧米では、この種の性加害事件は「人身売買」とみなされ、重罪を科されるようになっているのだ。
■報道された「密室パーティ」「SEX上納」という悪質さ
松本人志氏の事件では、「金銭のやりとりはなかった」と双方の弁護士が語っているので、そのとおりであれば、背後で金が動いていた「人身売買」のエプスタイン事件とは異なるが、「若い女性との性的なやりとり」を目的にしたとみなされる「密室パーティ」の背景は似ていると言わざるを得ない。
「週刊文春」の記事には「SEX上納」という言葉が出てくる。女性をアテンドした後輩芸人が、「SEX上納システムはなかった、単なる飲み会だった」と主張したのに対し、部屋で松本氏と2人きりになったとき、「俺の子供産めや」と迫られたと被害女性は告白している。大阪や東京、福岡、沖縄で「性接待を含む飲み会について、多くの女性たちの証言がある」と同誌は書いている。しかし松本氏が訴えを取り下げた結果、裁判で明らかにされるはずだった事実関係が実際にどうだったかは、藪の中になった。
しかも訴えを取り下げた松本氏の復帰ばかりが話題の中心になる日本のマスコミだが、「被害女性たちの侵害された人権は回復されるのか」を問う視点が欠如している。日本のメディアの人権意識の低さは、日本のジャーナリズムの「最大の欠陥」であることを、国民もメディア側も早く気が付く必要がある。「失われた30年」で失われたものは、「賃金と経済の伸び」だけではなく、「人権意識の喪失」でもあったのだ。
このままでは、疑問を投げかけた中学生新聞記者の問いに、大人たちはマトモに答えることはできないだろう。
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柴山 哲也(しばやま・てつや)
ジャーナリスト
1970年、同志社大学大学院新聞学科を中退し朝日新聞社入社。大阪本社、東京本社学芸部、「朝日ジャーナル」編集部、戦後50年企画本部などに所属。退社後、ハワイ大学客員研究員、米国立シンクタンク・イースト・ウエスト・センター客員フェロー、国際日本文化研究センター客員教員、京都大学大学院非常勤講師、京都女子大学教授、立命館大学客員教授などを歴任。著書に『日本型メディアシステムの興亡』『いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史』(以上、ミネルヴァ書房)、『ヘミングウェイはなぜ死んだか』(集英社文庫)、『新京都学派』『真珠湾の真実』(以上、平凡社新書)など。
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(ジャーナリスト 柴山 哲也)