※本稿は、江戸呑み連中『江戸呑み』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■昼酒OKの江戸時代
半休して呑む昼酒、営業先からの直帰酒など、人様が働いている時間に呑む酒の味は、背徳感も手伝って乙(おつ)なもの。
明るいうちからの飲酒は、現代に生きるサラリーマンならではの楽しみかと思いきや、実はこれ、江戸時代からの伝統なのであった。
お江戸日本橋の賑わいを詳細に描いた『熈代勝覧(きだいしょうらん)』という絵巻がドイツのベルリン国立アジア美術館に所蔵されている(東京メトロ三越前駅の地下にも、拡大した複製図が飾られている)。これを眺めているといるいる、昼から呑んでいる御仁が。
図①の幸せ者もそんな一人。日本橋本町三丁目あたりにある居酒屋で、実にうまそうに酒を呑んでいる。
店先には蛸(たこ)や魚が吊るされている。こちらは本日入荷の食材。客は店に入るとまず、酒を注文し、そして小僧さんなどが告げに来る「本日できますもの」の中から肴(さかな)を選ぶ。
■居酒屋の「縄のれん」は江戸時代の名残り
酒の頼み方は「4文の酒を3合」などと、酒の値段(質)と量を注文するのが一般的。
というのも、どの店も「大極上」「中汲み」「にごり酒」といった具合に、ランクの異なる酒を複数用意していたからだ。客はその日の懐(ふところ)具合で、呑む酒の質を決めていた。
この図の中の幸せ者は、魚河岸が店の目と鼻の先なので、きっと新鮮な魚介類の刺身や焼き魚、煮魚といったところで、チロリでつけた燗酒(かんざけ)を楽しんでいるのだろう。
ちなみに現代の焼き鳥屋や居酒屋には入り口に縄のれんがかけられている店がある。実はこれ、江戸時代の居酒屋で店先に吊るされていた本日入荷の食材が縄に置き換わったもの。江戸時代の居酒屋の名残りというわけだ。
■人前で平気で酔いつぶれる江戸っ子たち
本船町あたりの路上に目を移すと、魚や野菜を売る人たちに交じって、酒の立ち売りも見られる(図②)。
早い時間に仕事を終えた江戸っ子は、店に寄らずとも、道すがら、立ったままのちょいと一杯を、気軽に楽しんでいたのだ。通勤電車の座席で缶ビールを空けようものなら白い目で見られる現代とは大違い。
そう、昔の日本社会は酔っぱらいにも実に寛容だったのだ。
だから来日した宣教師たちは、日本ではじめて人前でも平気で酔いつぶれる人間に遭遇(そうぐう)して驚愕(きょうがく)し、しかも泥酔自慢(でいすいじまん)をする者を前に、「われわれの社会では恥辱(ちじょく)なのに」と言葉を失っている(例えば、ルイス・フロイス『日欧文化比較』)。
■「火事」と「喧嘩」は江戸の華
「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」という有名な言葉がある。
江戸の町では酔ったうえでの喧嘩が絶えず、社会は酔っ払いには寛容でも、統治者は酔っ払いを取り締まらざるを得なかった。
5代将軍徳川綱吉(在職1680~1709年)は自身が酒嫌いだったこともあり、たびたび大酒禁止令を出している。
また、8代将軍吉宗(在職1716~45年)の頃には、酒が原因で暴力をふるったり、殺人を犯したものへの処罰規定が明文化されている。
武家奉公人が罪を犯した場合は庶民より厳しい処分が下されたが、これはお侍(さむらい)でさえ、平気で町中で泥酔していたことを物語る。
■酔っ払いのランク付け
それでも庶民はのんきなもので、ランキングが大好きな江戸っ子は、酔っ払いの度合いをもランク付けして楽しんでいる。
一般的な酔っ払いは「ずぶ六」と呼ばれた。「ずぶ」は「ずぶ濡れ」などの「ずぶ」で、「すっかり」という意味。「六」は人に付ける愛称で、すっかり酔っぱらった野郎、ということになる。
この愛称の「六」と数字の「六」を掛け、江戸っ子は酔っ払いを「ずぶ三」から「ずぶ十二」まで分けてランク付けした。まず、「ずぶ三」はほろ酔いの状態で、「づぶ三の頃が酒盛りおもしろし」と川柳に詠(よ)まれている。
「ずぶ五」になると人に絡(から)む状態。同席している人にはいちばん厄介で、だいたいこの段階になると喧嘩が始まる。
「ずぶ五」を過ぎて「ずぶ六」になるとすっかり酔っぱらって寝てしまうのでかえって都合がいい。そして「ずぶ十二」ともなると、ああ恐ろしや、大至急で雑巾(ぞうきん)や盥(たらい)が必要な状態となってしまう。
■江戸名物「酒合戦」は女性も参加
また、江戸の町では酒量を競う大会「酒合戦」も盛んに行われた(図③)。女性も参加していたというから、社会全体に飲酒の習慣が広まっていたことがわかる。
文化12(1815)年に行われた酒合戦では、天満屋の美代女なる女性が、なんと3升7合も呑み干したと記録されている。しかし誰もがそんなに呑めるわけはなく、図の中にもいるように、早々に撃沈し、「ずぶ十二」の段階に入っている参加者も……。
江戸の戯作者で浮世絵師の山東京伝(さんとうきょうでん)は、この酒合戦を、慶安年間(1648~52年)の頃に流行った風俗だと『近世奇跡考』に記している。幕末の幕臣で、江戸無血開城の立役者・山岡鉄舟も盛んに酒合戦をしていることから、その後、200年ほどもこの“奇行”は続いていたものと思われる。
外国からやって来た宣教師が言葉を失うのも無理もない。
■隅田川の端から端まで「もらい酒」
山岡鉄舟は単身敵陣営に乗り込み、西郷隆盛と直談判して江戸の町を戦火から救った豪傑として知られるが、酒の飲み方も実に豪快だった。
剣術の弟子2、3人と小石川の自宅から向島に花見に出かけた折のこと。酒を5升ばかり買い込んで歩きながら飲んでいると、花見をする前に酒がなくなってしまった。
そこで鉄舟がとった行動が“もらい酒”。
当時は見ず知らずの人でも、宴席の中挨拶をすれば、「まあどうぞ一杯」と酒がふるまわれる幸せな世の中だった。そこで鉄舟は満開の桜の花の下、隅田川の端から端までもらい酒で飲み歩いたという。
■江戸の二日酔い対策は「から汁」で
しかしそんな大酒呑みにも二日酔いは付き物。迎え酒をする、チキンスープを飲むなど、世界中に二日酔い対策はあるが、江戸っ子に支持されたのは「から汁」。
から汁とは、おからの入った味噌汁のことで、これを呑めば二日酔いが治まると信じられていた。なるほど味噌汁は電解質だから、水分とミネラル分を摂取でき、スポーツドリンクと同じような効果がある。
昔の人はよく考えていたんだなあと思いきや、さにあらず。江戸の酒呑みたちは酔ってなお満足せず、おまじないのようにから汁を飲んでは、また呑みなおすのが常だった。
図④は「夜明し」と呼ばれた深夜営業の居酒屋。こうした店にはお約束のようにから汁が置いてあった。
絵の中の客は「あつくかんしてまづ五合はやくはやく」と店主をせかしている。何軒かのはしご酒の末にたどり着いたのだろうに、「まづ五合」とは!
■「酒合戦」の成れの果て
から汁を肴に呑むと、明朝の体調はどうなるのか。
残念ながらそのあたりを報告する文献は残されていない。しかし、二日酔いの解決策として現代に伝わっていない以上、効果はそう望めないのだろう。
先に名前を挙げた山岡鉄舟は、酒合戦で負かされた相手の家をわざわざ覗(のぞ)きに行き、二日酔いに苦しんでいる姿を見て留飲を下げたという。そんな強者たちでも、二日酔いは避けられなかったようだ。
----------
江戸呑み連中(えどのみれんちゅう)
編集者ユニット
江戸好き、酒好き、料理好きの編集者ユニット。江戸の酒肴に魅了され、「宵越しの金は持たない」を実践しながら、夜な夜な酒場に出没しては「江戸呑み」の魅力を発信し続けている。
----------
(編集者ユニット 江戸呑み連中)