自分の見ているものは他者にも同じように見えているのだろうか。認知科学の研究者の今井むつみさんは「私たちは何となく、自分と隣の人が見ている世界は同じだと思っているが、知覚認知の問題でときに見え方が違う場合もある」という――。

※本稿は、今井むつみ著『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■人が見えている世界
ここからさっそく、人間という生き物の認知の特徴を知り、人間がどのように世界を見て、情報を処理し、記憶し、思考し、学んでいるかという問いへの理解を進めていきましょう。
まず、「見る」ということから考えます。そもそも人は、どのように世界を見ているのでしょうか。
私たちは何となく、「自分の見ている世界」と「隣の人が見ている世界」は同じだと思っています。たとえば今日のこの講義の風景は、誰が見ても同じだろうと無意識に想定していると思います。でもほんとうにそうでしょうか。
■このドレスは何色か
また、多くの人は、「自分は客観的に見て、物事を捉えている」と考えています。こちらもほんとうでしょうか。
「そもそも」から始めてみましょう。
【見る①】ドレスの色が違って見える不思議
数年前に、SNSを中心に、ある写真が流行(はや)りました。ドレスが1枚写っている写真です。
その写真はこの講義でも紹介しましたが、その前にもどこかで見たことのある方も多いのではないでしょうか(実際の写真は、https://en.wikipedia.org/wiki/The_dressなどで閲覧可能です)。
なぜ、ただドレスが1枚写っている写真が流行ったのか。それは、見る人によって違う色に見えるからです。
SNS上での自発的な調査やその他の調査を見たところ、「黒と青のボーダー」に見える人のほうが多いそうです。でも残りの人には「白と金のボーダー」に見える。私はこの写真を数え切れないほど何回も見ましたが、何度見ても「白と金」にしか見えません。実は自分はマイノリティで、多くの人が「黒と青のボーダー」に見えているということを知っていても、「白と金」にしか見えないのです。
なぜこのような現象が起こるのでしょうか。実は、なぜこのような個人差があるのかは明らかになってはいません。ただ、「脳の細胞のつくりが人によって違う」などが理由ではありません。認知心理学の範囲である「知覚認知」の問題といえるでしょう。
私たちの「見る」という行為は、外界にある対象を網膜に映したイメージから始まります。
しかしこのとき、網膜に映るものをカメラのようにパシャッと切り取って認識し、記憶しているのではありません。網膜に映ったものを知覚するまでには、脳内でものすごくたくさんの工程を経ていることがわかっています。
■私たちの「見ている」世界
まず画像はすべて、脳の最後部にある視覚野に送られ、「線」や「色」などのバラバラの要素に解体されます。これらの要素は脳の別の場所でそれぞれ処理され、再び組み立てられることになります。この解体と再構成によって、人はものを「見て、対象を認識する」ことができるわけです。
この再構成の過程では、思いもよらないヒント(情報)が無意識に使われています。
どういう情報を使い、どう「推論」しているのかは、意識にのぼらないのでわかりません。でも、私たちはたしかにスーパーコンピュータ並みのすごい計算を、超高速で行っています。その計算結果が、私たちの「見ている」世界なのです。
この流れは、このドレスの画像を見る際も同じです。
対象を認識する推論に、無意識に使っているヒントの一つに、「かげ」があります。
たとえば同じ黄色でも、光が当たった状態で見るのと、かげに置かれた状態で見るのとでは、見える色は違いますよね。
でも、私たちはどちらも「黄色である」と判断します。網膜に実際に映っている色は違うのに、「かげ」の有無を踏まえて無意識に推論をして、「黄色だ」と捉えているのです。
かげは、ものの色の認識だけでなく、形の認識やものの空間上の位置の認識にも大きく影響しています。以前の講義では、かげによって、あるものが円盤に見えたり、あるいはラグビーボールのようなものに見えたりするという事例(図表2)をお見せしました。また、左側の列の円(球)はかげによって地面に接地して見えたり、浮いて見えたりもします。このように、私たちはものを認識するときには、無意識に「かげ」の情報を使っているのです。
■ときには人によって見え方が違う
私たちはものを見る際に、「かげ」の情報を使っていながらも、見ている人自身にはその意識がないことが、先ほどのドレスが見る人によって違う色に見える理由ではないかと考えられています。
「照明をどのように仮定して、照明とかげをどのように推論しているかに個人の間で違いがあるために、ドレスの色の見え方が人によって変わるのではないか。推論の方法に個人差があるので、違う色の組み合わせの認識が生まれるのではないか」
この仮説が今のところは有力ですが、決定的なものとして受け入れられたとはまだいえないようです。
これで、「見る」という万人に共通すると思われた認知過程にも個人差があり、ときには人によって見え方が違う場合もあるということを、実感していただけたのではないでしょうか。
■この絵は何に見える?
【見る②】人は、「文脈」でものを見ている
「見る」に関して知っておきたいことは、これですべてではありません。図表3のイラストを見てください。
何に見えますか?
パッと見ると、半分ぐらいの人には「めがねをかけたおじさん」に見えると思います。でも、もう半分ぐらいの人は、「ネズミ」だと思うことがわかっているイラストです。
同じ一つの絵を見ても、何に見えるかが違ってしまうわけです。
しかも、このイラストに関しては、同じ人であっても「めがねをかけたおじさん」に見えたり「ネズミ」に見えたりが、変わってしまうこともあります。
図表4の絵の上段のように、人の顔の絵をずっと見た後でこの絵を見れば、「おじさん」だと思いやすくなります。下段のように動物の絵がずっと続いた後に見れば、「ネズミ」だと思うでしょう。
こんなふうに、人はただボンヤリと世界を見ているわけではなく、つねに「文脈」によって、次に何を見るのかを予測しています。人は無意識に文脈を考え、期待し、予測をしながら、世界を見ているのです。
■「見落とすはずがないもの」でも見落とす
【見る③】見落としも「当たり前」⁉
人は見落としをする。これも当たり前のことです。
多くの人は、自分の注意力にかなりの自信を持っています。「見落としなんかしないよ」と言うのもよく聞きますし、小さい頃から親御さんや先生から、「見落とさないように注意しなさい」と何百回も言われてきたという人もたくさんいるでしょう。
こうした発言の裏側には、やはり「見落とさないのが当然」という思いがあるように感じます。
でも認知心理学の観点からいうと、人が見落としをするのは当たり前です。「Invisible Gorilla Test(見えないゴリラテスト)」という、認知心理学界隈(かいわい)でとても有名な動画による実験があります。
この動画では、白いシャツのチームと、黒いシャツのチームでバスケットボールのパス回しをしています。この実験では参加者は「白いシャツのチームの人たちが、何回パスを回すかを数えてください」と指示されました。
ただこのとき、半分以上の人が横切るゴリラ(の格好をした人)の存在に気がつかないということが起こりました。この授業でもまったく同じことが起こりましたね。これはかなりショッキングな結果です。このように見落としは、「当たり前」のことなのです。
人は世界をどう見ているか

・同じ写真を見ていても、人によって色の見え方が違うことがある。

・人は期待し予測しながらものを見ているため、文脈によって見え方が変わる。

・「見落とすはずがない」と誰もが思う劇的な変化すら、他のことに注意を向けていると人は簡単に見落としてしまう。


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今井 むつみ(いまい・むつみ)

慶應義塾大学名誉教授、今井むつみ教育研究所代表

1987年慶応義塾大学大学院社会学研究科に在学中、奨学金を得て渡米。1994年ノースウェスタン大学心理学部博士課程を修了、博士号(Ph.D)を得る。専門は、認知・言語発達心理学、言語心理学。2007年より現職。著書に『ことばと思考』『学びとは何か 〈探求人〉になるために』『英語独習法』(すべて岩波新書)、『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)など。共著に『言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで』(ちくま学芸文庫)、『算数文章題が解けない子どもたち ことば・思考の力と学力不振』(岩波書店)など。最新刊で秋田喜美氏との共著『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(中公新書)は大きな話題となった。

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(慶應義塾大学名誉教授、今井むつみ教育研究所代表 今井 むつみ)
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