■創作の核をつくるための孤独
なにかをなそうとするとき、孤独がついてまわる。それは必要だからついてまわるのです。
わたしの場合でいえば、こうなります。まず小説を書く準備段階で、編集者と顔をつき合わせて、さまざまなやり取りをする。テーマや方向性を確認し、どのような舞台設定にするのか、取材は必要か、必要なら手筈(てはず)はどうするのか、どのくらいのボリュームの作品になりそうか、完成のめどはいつになるのか――。
そういう細々したことを摺(す)り合わせたうえで、いざ執筆にとりかかる。こうなればあとは独りです。だれもいない部屋で机の前に座り、来る日も来る日もひたすらねちねちと書いていくしかない。
いったん原稿を書き上げたら編集者に見せて、そこでふたたび、ここはもう少し書き足したほうがいい、ここの書き込みは長すぎる、という具合にやり取りする。そうした作業を何度か繰り返して作品を仕上げていきます。
人と一緒にいる時間、独りきりの時間。
■思考を強化するための孤独
こうした構図は、なにも作家にかぎったものではないでしょう。
会社勤めの場合なら、あなたには上司や部下とこまめなコミュニケーションをはかる時間があり、一方で、自分なりにプランを練って黙々と業務を遂行する時間がある。二種類の時間を絶え間なく行き来する。
作家に較べれば、独りの時間は少ないのかもしれませんが、それでも孤独抜きに仕事に取り組むことはできないという点で同じです。
孤独とは思考を強化する時間でもあるので、その時間が足りないと、建設的な提案や、あるいは反論ができなくなる。生産性を高められなくなるし、無理筋な要求を唯々諾々(いいだくだく)と受け入れるはめにもなります。
いずれにしても、あなたなりの考えを練っておくことは非常に大切です。なにかしらのチャンスが訪れたときにものをいいます。
■完全な奴隷になる前に逃げよ
孤独のうちに考えたことを活かすチャンスなんて、自分の身の上にやって来たためしはない。ひょっとしたら、あなたはそう思うかもしれません。でもそれは、まだ、やって来ていない、ととらえるべきだし、あるいはチャンスを見過ごしているだけかもしれない。
たとえば、この本の第一章で述べたように、いまの職場が苦しくて、理不尽な環境にあるなら、完全な奴隷になる前に、その場から逃げ出しましょう。逃げ切ったあと、あなたはあなたの生き方を取り戻す作業に入る。
もし、三十代、四十代で自分の好きな職業を目指すのなら、それなりの決断となります。そうであればなおのこと、あなたの思いを遂げるうえである種の準備があれば、それは前進の大きな後押しになる。
夢を追いかけるのには、無茶が伴います。それでも必ずチャンスは訪れる。俗に、チャンスの神様には前髪しかない、と言われるように、絶好の機会というのは手をこまねいていると、あっという間に逃げてしまいます。チャンスの神様の足音を聞いただけで、それと見極められるくらいの準備があれば、あなたの夢はがぜん実現に向かう。
■可能性を拡げるための孤独
この際の準備とは、専門知識やノウハウといった実用的な仕込みを必ずしも意味しません。なにせチャンスの神様は、いつどこから、どのように姿を現すのかわからないのですから。
たとえば、一見すると実用性とは無縁に思える文学作品をたくさん読み、言葉をたくわえておくのも、有効な準備でしょう。
文学にかぎらず、孤独な時間の中で得た思考は、あなたの可能性を拡げる。
いまの職場でこれからも働き続けるあなたにしろ、同じです。来(きた)るべきチャンスを見逃さずつかまえれば、仕事のパフォーマンスが高まり、それはあなたの人生の手ごたえとして還元されるはずです。
惰性を逃れ、奴隷を逃れるには、孤独が不可欠です。
■図書館は孤独になるのにうってつけ
孤独とたいへん相性のいい場所があります。それは図書館です。
日本のどの地域にもある図書館には、ほうぼうから日々いろんな人が集まってきます。そこで勉強したり仕事をしたり、暇つぶしにパラパラと雑誌をめくったり、なにもせずただそこにいたり。それぞれが黙々と思うままに過ごしています。
たくさんの人がひとつの場所にいながら、一人ひとり独立してバラバラのことをしている図書館は、だれもが孤独でいられる場所です。
図書館とは公共の施設、すなわちパブリックな場です。公共の場というのは、個人がそれぞれ自分の世界に入り込みながら、ひとつの空間を共有しているところを指します。図書館だけでなく、公民館や公園などもこれに該当します。
■孤独を謳歌できるのは恵みである
思うに、人が孤独でいるためには「公」の場がきちんと成り立っていなければいけません。組織や共同体がある程度安定していて、心身の安全が確保されてはじめて、人はひとりでいられます。
自分の意思によってひとり孤独でいることを選択できるというのは、かなり恵まれた環境です。
ひとりでいると命の危険ありとなれば、おのずと集まって時を過ごすしかありません。これは災害時の行動を考えてみればわかります。緊急の際には、一人ひとりの孤独を尊重している余裕などないのです。
孤独を唱えていられるのは、自分を取り巻く環境や共同体が安定している証拠でもあります。わたしはこれからも、孤独たれと言い続けたいですし、孤独を謳歌できる世の中で暮らしたいものだと切に願います。
■臆病になりながら曲がり角を進め
三十半ばを迎え、四十歳になるころには、厄介なことが増えてきます。
まず体力の衰え。駅の階段を昇るだけで息が切れる。油断して酒を飲みすぎると翌日ひどい目にあう。
精神面にもかつてほどの高揚は望むべくもない。好奇心が薄れ、集中力が減退する。加えて、親の介護であったり、親戚の借金であったり、部下からの突き上げであったり、次々に受難を被(こうむ)るものだから、疲れるし、感情も乏しくなる。
さらに五十代になると、気力全体が衰え、自分の内側に残っているエネルギーが乏しいことに気づき、できることはもうやり尽くしたのではないかというあきらめの気持ちに支配されたりもする。まあ、いろいろ思いどおりにいかなくなるわけです。
そんな曲がり角にもかかわらず夢を語れば、風当たりは冷たいものでしょう。
馬鹿だの、身の程知らずだの、言われるかもしれない。本人が描く夢なんて、他人からすれば鬱陶(うっとう)しいだけですから。
でも、見方を変えれば、そこからの新たな再出発は、周りを出し抜くのだから、そのぶんチャンスも膨らむというものです。とはいえ、不安だろうと思います。それでかまわない。臆病風に吹かれてください。
■なぜ挑み甲斐があるのか
わたしも三十三歳で作家としての仕事を得るまで、ずいぶん臆病でした。
新人賞を取って、作家の入口に立つまでは「小説家になれたらいいけど、どうだろう、無理かな、どうかな、いや無理だよな」と思いながら、毎日原稿用紙と向き合っていました。
現実を前に竦(すく)み、その陰で小説を書き続けていたようなもので、我ながら、せこいというか、情けない振る舞いですが、でも、自分のやりたい道に挑戦するには、それなりの不安が伴うのが当然です。
臆病になっても、継続さえできていればいい。肝心なのは、継続と、その先にある実現なのですから、あえて不安を払拭しようとする必要はどこにもないのです。
自信も学歴もないわたしはさまざまな本を手当たり次第に読み、鉛筆を動かし続ける以外ありませんでした。もっとも、やっていることはいまもほとんど変わらないし、臆病なままですが。
自信満々で書いている作家なんて、果たしているのでしょうか。いたとしても、そんな作家の書く小説はつまらないような気がします。
あなたも臆病風に吹かれながら必死に取り組んで、それで前進すれば喜び、進歩がなければ落胆すればいいのです。
一筋縄ではいかず、一進一退の先になにかがある。感情はいつも揺れ動き、順風満帆にはいかない。だからこそ挑み甲斐があるのです。
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田中 慎弥(たなか・しんや)
作家
1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞し、作家デュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞。12年、『共喰い』で芥川龍之介賞を受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞を受賞。『燃える家』『宰相A』『流れる島と海の怪物』『死神』など著書多数。
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(作家 田中 慎弥)