フランス革命後の混乱を収拾し、皇帝となったナポレオンとはどんな人物だったのか。広島大学准教授の藤原翔太さんは「最新研究によれば、彼の人気には劇的な『イメチェン』が関わっている」という――。

※本稿は、藤原翔太『ポピュリスト・ナポレオン 「見えざる独裁者」の統治戦略』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■ボナパルト将軍、英雄として登場
視覚芸術におけるナポレオンのプロパガンダ戦略については、フランス革命期の表象を専門とするアニー・ジュールダンの研究が詳しい。
1796年のロディでの勝利の後、芸術家たちは英雄の登場に歓喜し、若き将軍ボナパルトの肖像画を自発的に制作していく。アッピアーニやグロがその代表格で、巨匠ダヴィドでさえパリにいながら、ロディの勝利を主題にした油彩画の制作を計画するほどであった。このように、多くの画家たちがイタリアを征服したフランス共和国の将軍の肖像画を描こうとしたのだが、その際、ナポレオンは厳格な顔つきをした人物として描かれ、本人に似ているかどうかはあまり問題とはされなかった。
1798年頃になってようやく本人との類似性が重視されるようになり、アッピアーニらの作品がボナパルト将軍像の「モデル」として認められていった。これらの絵画では、基本的にサーベルを握って立ち上がる将軍が半身像か四分の三身像で描かれた。共和国軍の軍服をまとい、風になびく長髪、痩せた顔立ち、わし鼻、そして鋭い輪郭といった身体的特徴が、その人物がナポレオンであることを鮮明に示した。また、グロの『アルコレ橋のボナパルト将軍』に典型的にみられるように、それらの絵画では、しばしばナポレオンが腕を上げて兵士を鼓舞する身振りが描かれ、ダイナミズムの効果を高めた。
■ロマン化された英雄像の確立
ダヴィドが1801年に制作した『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』では、ケープが舞うほどの強風の中、急峻な坂で馬を後脚で立たせる勇壮なナポレオンの姿が鮮烈に描き出されている。戦士の大胆さを強調したこの作品をナポレオンはとくに気に入ったようで、その後、同様の絵を何枚も注文し、一つはマルメゾン宮に、もう一つはアンヴァリッド(廃兵院)に飾っている。そのうえ、多くの複製版画が出回り、ゴブラン織のタピスリーでも描かれたので、当時から、多くの人々がこの作品を目にすることができた。

一方で、第一統領に就任した後、ナポレオンの表象にはある大きな変化が生じた。ブリュメール18日までのナポレオンは、長髪をなびかせることで、どこか若さと野性味を残した将軍として描かれてきた。しかし、今や彼は共和国の元首である。ナポレオンは洗練された「大人」にならなければならなかった。その必要を意識して、ナポレオンがまず取り掛かったのが、髪型を変えることであった。それまでの長髪をばっさり切って、ティトゥス風の短髪スタイルを採用したのである。
■髪型で、「国家元首」へとイメージチェンジ
パリで流行した古代ローマ風の髪型を取り入れたことで、第一統領ナポレオンと、髪型の名前の由来となったティトゥスの父であり、ローマ共和政の初代統領ユニウス・ブルトゥスとの類似性を声高に叫ぶ、多くのナポレオン崇拝者が現れることになった。要するに、ナポレオンは髪型を変えたことで、「戦士」から「国家元首」へとイメージチェンジに成功したのである。
事実、1802年以来、戦場を描く絵画の中で、ナポレオンが武器を手に取ることはなくなっていく。戦闘シーンが消えたわけではないが、ナポレオンは常に平静を保ち、戦争の成り行きを見通し、何よりもまず兵士の命に気を配り、労わる国家元首として描かれた。もう少し後になると、被征服民に対しても寛大な態度を示す、「平和の使者」としてのナポレオン像もまた主題としてよく取り上げられるようになる。
いずれにしても、国家元首たるナポレオンはもはや兵士の先頭に立ち、命を賭して戦闘に飛び込むような危険を冒してはならなかったのである。
こうして、ナポレオンの肖像画からかつてのダイナミズムは失われていった。
皇帝に即位した後、ナポレオンは新王朝(第四王朝)を正統化するために、フランスの歴代王朝の象徴をかき集め、自身の新たな肖像を作り出していく。すなわち、第一王朝(メロヴィング朝)からは蜜蜂が、第二王朝(カロリング朝)からは翼を広げた鷲や王杖などが、そして第三王朝(カペー朝)からはオコジョの毛皮が借用された。月桂冠と緋色の衣装は古代ローマ皇帝を想起させるものであった。第四王朝を正統化すべく、使えるものは何でも使おうとするその態度からは、フランス共和国の皇帝であるにもかかわらず、ヨーロッパの王族の血が流れていないことへのコンプレックスと、王朝の正統化への強迫観念を感じ取ることができる。
■ナポレオンのコンプレックス
そのため、ナポレオンはヨーロッパ大陸の覇権を握ると、列強の君主たちに対して、支配者というよりも対等な君主として会合に臨む様子を画家たちに描かせた。たとえば、ティルジットでプロイセン王妃を迎え入れる光景や、神聖ローマ皇帝フランツ二世との出会い、ロシア皇帝アレクサンドルと議論する姿が描かれている。
ナポレオンのコンプレックスを解消したのは、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの結婚である。これにより、ナポレオンはヨーロッパの王族たちの仲間入りを果たしたことに安堵した。王族の血を引いた息子(ローマ王)の誕生は二つの帝国の結合の賜物であり、第四王朝の正統性が確固たるものになったとナポレオンに感じさせた。その余裕は絵画でもよく表れている。たとえば、1812年にアレクサンドル・マンジョが制作した『昼食時にローマ王と遊ぶナポレオン』では、国家元首の威厳は微塵もなく、愛する息子を前に微笑みをこぼす等身大のナポレオンが描かれており、皇帝の正装時の重々しい姿とのギャップに、見ている方もつい笑みがこぼれてしまう作品になっている。

■列強と対等な君主像の演出
国家元首が微笑みを見せ、父親の優しさを示すこれらの絵画は、君主像の新たなジャンル、すなわち極めて近代的な君主像を作り出すことになった。
新たな君主像は、ナポレオンがあくまでフランス国民に選ばれた「共和国の皇帝」であることを示し続けようとした産物でもあった。ナポレオンの治世下において、戦場の絵画は描き続けられたが、1802年以降、現在ではお馴染みの二角帽子と灰色のフロックコートを着たナポレオンが描かれ始め、派手な装飾を施した軍服姿の将軍たちとのコントラストが際立った。
素朴な服装をして兵士たちの輪に入り、彼らと食事を共にしたナポレオンが、兵士たちから親しみを込めて「ちび伍長」と呼ばれたことはよく知られている。
■親しみやすい皇帝像が国民全体に広まった
そうした彼の親しみやすさを示す絵画として、兵士の水筒で水を飲む皇帝や、兵士から渡されたジャガイモを受け取る皇帝を描いた民衆向けの版画が普及したことで、親しみやすい皇帝像が軍隊を越えて、国民全体に広まっていった。
最後に、国民が期待する「共和国の皇帝」像を具現した絵画作品として、書斎で仕事に勤しむナポレオンがしばしば描かれたことを指摘しておこう。たとえば、1809年にロベール・ルフェーヴルによって制作されたナポレオンの肖像画では、机の上に燃え尽きようとしている蠟燭が描かれており、深夜遅くまで(あるいは朝方まで)、国家元首であるナポレオンが身を粉にして、フランス国民のために仕事に取り組んでいる姿が示されている。
■書斎の皇帝と勤勉な支配者像
我が身を顧みず国家・国民に奉仕する政治家の姿勢こそ、まさに国民が革命以後の君主、すなわち国民によって選ばれた「共和国の皇帝」に期待することであった。なお、この当時、絵画は限られた公衆しか観覧できず、プロパガンダとしては効力が弱かったのではないかと思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。ジャン=ポール・ベルトーによれば、パリでは毎週土曜日と日曜日にサロン(美術展)が開かれて、絵画作品が展示され、すべての階層の人々に無料で開放された。そのため、サロンは連日多くの人で賑わった。具体的な入場者数の記録は残されていないが、展示作品のカタログの販売数は1799年から1810年にかけて9230部から3万2459部へと急増しており、帝政期に入場者数が着実に増加していったことがよくわかる。

富裕層もまた「金曜日の特別パス」を購入できたので、サロンは社交の場ともなり得た。
そのうえ、ナポレオン時代には文芸の批評空間が拡大し、サロンに特化した出版物が登場して、展示された絵画や彫像についての批評がなされた。また、現物を見ずとも絵画を購入できるように、絵画販売店ではサロンで最も注目された絵画の複製版画が客に提示され、作品集(カタログ)も販売されたので、パリだけでなく、地方の人々も著名な絵画に触れることができた。複製版画は人気を呼び、地方にまで流通した。早くから地方の公的機関ではナポレオンの肖像画が飾られたり、祭典時には、行列の通り道の壁にナポレオンの肖像画が貼られたりしたことなども併せて考えれば、多くの国民がナポレオンの肖像画を目にする機会があったことは間違いない。

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藤原 翔太(ふじはら・しょうた)

広島大学大学院人間社会科学研究科准教授

1986年生まれ、島根県出身。トゥールーズ・ジャン・ジョレス大学博士課程修了(フランス政府給費留学)。博士(歴史学)。福岡女子大学国際文理学部准教授などを経て、現職。専門はフランス革命・ナポレオン時代の地方統治構造。2024年、『ブリュメール18日 革命家たちの恐怖と欲望』(慶應義塾大学出版会)で、第24回大佛次郎論壇賞を受賞。他の著書に、『ナポレオン時代の国家と社会 辺境からのまなざし』(刀水書房)、『東アジアから見たフランス革命』(共著、風間書房)、訳書にクリスティーヌ・ル・ボゼック『女性たちのフランス革命』(慶應義塾大学出版会)などがある。


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(広島大学大学院人間社会科学研究科准教授 藤原 翔太)
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