産後うつの影響で育児や家事を通常モードでできなくなった30代の妻。別人化し、わが子を罵倒し、失踪も企てたが、夫はすべてを受け止めた。
仕事・家事・育児のフル稼働を続ける夫の24時間とは――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】関東地方在住の本木翔太さん(仮名・30代)大学卒業後、障害者支援施設に就職。26歳の時にマッチングアプリで知り合った1歳年下の女性と交際を始め、1年後に結婚。2人の子供も産まれた。だが、第1子妊娠時から妻が精神的に不安定になり、第2子出産から2週間後には、「エジンバラ産後うつ病質問票」検査で「危険」と判定された。その後も症状はよくならず、妻は本木さんに「仕事を休んでほしい」と頼んだ――。
■「脳が何もするなと命令している」
本木翔太さん(仮名・30代)の妻は、精神的にボロボロだった。
2022年7月に第2子である娘を出産後、2週間検診と1カ月検診で産後うつ病の検査を受けると、2回とも「危険」と出た。小児科医から「周りに頼れる人がいたら頼ったほうがいい」とのアドバイスを受け、本木さんに「仕事を休んでほしい」と言った。
本木さんは勤務する知的障害者介護施設の上司に相談し、ひとまず1週間の休みを取得。妻は娘に母乳を与える以外は、極力何もせず、家事もそれ以外の育児も本木さんに任せた。
1週間経つと、再び本木さんは出勤するようになったが、妻の症状はよくなっていなかった。

本木さんは「僕が送り迎えはするから、(第1子である)息子(2歳)の幼稚園の早朝保育と延長保育を利用しては?」と提案したが、妻は「あなたに申し訳ない」「専業主婦だから」「幼稚園に迷惑かける」と言って首を振った。
そして2023年7月のある平日の朝、寝室に妻の様子を見に行くと、妻は言った。
「脳が何もするなと命令している感じがして起きれない」
目は開いているが、体を起こせない様子。本木さんが起こそうとするが、妻の体は石になったかのように全く動かなかった。
不安になった本木さんは、「心療内科に行こう」と提案するが、妻は「予約がいっぱいで行く気にならない」と拒絶する。しかし本木さんは近くで最短で受診できる心療内科を探し、予約を入れた。
そして予約当日、何とか説得して妻を心療内科に送り出す。妻は「不安障害」と診断され、抗不安薬と精神安定剤が処方された。
以降は3週間に1度、妻1人で通院することになったが、全く改善の兆しはなく、頭痛やめまい、怒りが収まらないなどの症状を本木さんに訴え続けた。
本木さんは、息子の幼稚園の早朝保育と延長保育の利用し始め、本木さんが出勤前に送り、帰宅するときに迎えに行くようになった。
■失踪
そんな2024年11月のある日。
家族で出かけた後、家に着いた時に妻が「まだ(車のドアを)開けちゃダメだよ」と言っているのに息子が開けてしまったことで、烈火のごとく怒り出した。
息子を守るためにも早く事態を収拾しようと、本木さんは息子に言い含めるように静かに注意事項を伝えた。
しかし翌朝起きると、また妻が息子に怒り始めた。先に起きた息子がまだ寝ている妻を起こしたことが頭にきたようだ。
「妻は息子が結局何も反省していないと捉えて怒り狂っていました。『もうママいなくなるから!』『もう勝手にして!』と怒鳴り、息子が謝っても許せなかったようです。まだ言われたこと全部を理解して返事ができるような年齢でもないのに、オウム返しの返事もまともにとらえて『ほら! 本人もそう言ってるじゃん!』と真に受けて、火に油を注いでしまうようなこともありました」
なんとか本木さんが怒りを鎮火・収拾をするが、
「子どもたちを連れて出かけてほしい。一人にしてほしい」
と妻が言うため、本木さんは出かけることにした。
「近場だと、妻が出かけた時に会ってしまうかもしれないので、電車で1時間ちょっとかかる動物園まで行きました」
動物園に到着し、子どもたちを遊ばせていると、妻から電話がかかってきた。
「私といないほうが息子のためになる」
と言う妻に、
「息子は仲直りしたいと思ってると思うよ」
と返すと
「まあいいよ……。テーブルの上に幼稚園の書類、母子手帳があります。幼稚園の準備はしておきました。私、昨日からイライラしてて、何とか収まったけど、また今朝イライラしたんだ。
それを聞いてあなたは特に何も思わないでしょ? あなたたちが出かけた後、私はイライラが爆発して物に当たりまくったんだわ。こういう状況でまだ家族続ける? もう私を1人にさせてよ。前からずっとそれを願ってる。いいきっかけだわ」
と妻は自分自身を蔑み、捨て鉢になったような調子で言った。
本木さんは何度も説得を試みたが、妻は「とにかく無理」と言って聞き入れない。
本木さんと子どもたちが家に帰ると、テーブルの上に幼稚園の書類や母子手帳が置いてあり、妻の姿はなかった。
急いで電話をかけると、妻は出た。だが「帰らない」の一点張り。本木さんは仕方がなく、「また明日連絡する」と言って電話を切った。
■「歩道橋から飛び降りてしまいそう」
翌朝6時頃、妻が帰ってきた。
本木さんが話しかけるも、妻は無言で荷物をまとめ、再び出て行こうとする。本木さんが懸命に説得を続けると、妻は過呼吸になり、その場にうずくまってしまった。

本木さんは妻をなだめ、一度ベッドに横になるように促す。
そのまま3時間ほど眠った妻は、すっかり落ち着きを取り戻した様子で、「ごめんなさい」と謝った。
話を聞くと、「昨晩、歩道橋を渡ろうとしたら、飛び降りてしまいそうだったので、渡るのをやめた」と話し、その後妻はネットカフェで夜を明かしたという。
「自分にとって一番大切な人を失うかもしれない」という不安に駆られた本木さんは、妻を促して一緒に心療内科へ向かった。
医師にこれまでの経緯を説明すると、「産後うつからのうつ病ではないか」と言い、抗うつ剤が処方された。
聞くと、これまで1人で通院していた妻は、診察の際に何を聞かれても「大丈夫です」の一点張りだったのだという。本木さんは、「どうりで一向によくならないわけだ。うつ病の人を1人で受診させてはダメだな」と反省。それからというもの、本木さんは本を購入したり、インターネットで調べたりして、うつ病について学び始めた。
その後、本木さんは再び職場に相談し、娘の預け先が決まる4月まで、5カ月間の休職を取得することにした。
「妻は結婚式以降、お母さんと絶縁しているので、戻るとすれば、私の元しかないと思っていました。荷物を取りに来たと言っていましたが、もしかしたら、助けてほしかったのかもしれません」
■5カ月間の休職
本木さんは休職中、朝6時に起きて自分と子どもたちの朝食を作り、息子が弁当の日は弁当を作り、6時半には子どもたちを起こして朝食を食べさせた。
食べている間に息子の幼稚園の準備をし、自分も朝食を摂り、子どもたちの着替えや歯磨き、服薬などをして、娘を連れて息子を幼稚園に送って行った。
家に戻ると食器洗い、洗濯、掃除、買い物などを午前中に済ませて、12時くらいになると昼食の準備をして娘に昼食を食べさせつつ自分も食べる。
その後は、娘と本を読んで過ごしたり、疲れていたら少し寝たりして、16時くらいから夕食の準備をして、17時半になったら娘を連れて息子を迎えにいき、帰宅したら夕食を食べる。
夕食の後は食器洗いをしてから子どもたちを風呂に入れて、21時半から22時頃には寝かしつける。
本木さんは子どもたちと一緒に寝てしまうこともあったが、起きられれば1人時間を過ごしたり、妻と話をしたりして過ごし、0時から1時ぐらいに就寝した。
妻は起きたい時間に起き、食べたい時間に食べていたが、午後まで寝ていて夕飯だけという日も多かった。
幼稚園が休みの日は、子どもたちを連れて近くのショッピングモールに出かけた。
「私が休職してから妻は、徐々に良くなっていきました。最初は1カ月のうち2日しか動けず、しかも午後から起きていましたが、だんだん動ける日が増えて、起きられる時間も早くなっていきました。休職期間中は、家事も育児も、全部私がやることになるだろうなと腹を括っていましたが、料理以外の家事を少しずつ手伝ってくれるようになっていきました」
妻がうつ病と診断されてから、本木さんは4歳の息子にこう話した。
「ママは病気で、いつ治るかわからないんだ。今(息子に)できることは幼稚園で遊ぶこと」
妻はうつ病と診断される前、息子がわがままを言い出したり、言うことを聞かなかったりすると、母子の関係が修復不能になるのではないかと本木さんが心配になるくらい怒鳴り散らした。
そのため、息子は怯えて妻に近付かなくなったこともあった。
しかし、本木さんが息子に、妻が病気であることを伝えてからは、妻と息子の関係が良くなっていった。
ある日、幼稚園からの帰宅時、「今日はママの体調が悪いんだ」と伝えると、
「ママが体調悪いなら、僕が手伝ってあげる」
と言って息子が夕食の準備を手伝ってくれた。
「今思うと、息子自身も妻への接し方がわからなかったのだと思います。親は、自分が病気であることを伝えると、子どもに我慢させてしまうのではないかと思ってしまうかもしれませんが、小さいながらにきちんと受け止められるのだなと感じるとともに、家族の一員として妻を支えてくれることに感謝しました」
■環境の連鎖
現在本木さんは休職を終え、職場に復帰している。娘(2歳)は4月から保育園に入園することができた。
起床時間は休職中と変わらず、朝食は本木さんが作るが、朝の子どもたちの準備は妻がしてくれている。着替えや身支度は2人で協力し、本木さんは7時半には家を出て、自転車で息子を幼稚園に送った後、娘を保育園に連れて行き、電車に乗って出勤。昼休憩中には必ず妻にLINEをして、定時で退勤し、子どもたちを迎えに行き、18時くらいには帰宅している。
「妻は私たちを送り出した後、洗濯、掃除、買い物をしてくれますが、現在でも疲れると、午後は寝込んでしまうことがあるようです。夕飯もゆっくり作ってくれていて、帰宅した私が温めたり盛り付けたりして4人で夕食を摂ります。その後は私が食器を洗い、子どもたちをお風呂に入れ、できるだけ4人で一緒に寝ます。子どもたちが寝た後、妻と私が起きられれば、今日あったことなどを話して0時頃に寝ています」
振り返ると、本木さんが一番大変だったのは、うつ病かどうかわからなかった休職前の頃だった。
朝、妻が起きれなかったら、慌てて本木さんが子どもたちの朝ごはんを準備して、食べている間に職場に遅れる旨を連絡して、息子を幼稚園に送る。その後、妻が息子をお迎えに行けるかどうかの確認をして、行けそうにないなら仕事を休み、行けそうなら仕事に行く。
仕事を休んだ日は、娘の世話と家事をして、仕事に行けた日は、仕事が終わるとLINEで妻に体調の確認をして、妻が夕飯を作れなさそうなら夕飯を買って帰ることもあった。
夕飯を作り始めたものの、途中で疲れて寝込んでしまうこともあり、本木さんが帰宅してから途中だったの夕飯作りを再開。子どもたちに食べさせた後、片付けてお風呂に入れ、保湿して着替えさせて、寝かしつけるまで全てワンオペ状態だったことも。
「妻が夕飯を作っている間に洗濯物を畳んでいましたが、妻が作れない時は、子どもたちを寝かしつけてから起きて洗濯物を畳んだり、ゴミをまとめるなど明日の準備していました。子どもたちとずっと一緒にいるのがしんどそうだったので、私が帰ってからは子どものことは私がやろうと思っていましたし、普段から夕飯と洗い物以外は私がやっていました」
しかし本木さんにとって、妻がうつ病になって最もつらかったことは、「妻が別人になっていくこと」だったという。
「うつ病と診断される前の妻は、息子の言動にいちいちイライラしていました。当時はイライラというレベルではなく、息子との関係が修復不可能になるのではないかと心配になるくらいブチギレていました。息子の『おやすみなさい』に対して無視をしたこともあります」
本木さんが仕事から帰宅した時、妻が息子のわがままでブチギレていたため、本木さんが妻に意見したところ、「子どもたちとずっと一緒にいてみろよ!」とキレられたことがある。これには温厚で争い事を好まない性格の本木さんも、「俺だって疲れてるよ!」と声を荒らげたこともあった。
妻に意見したりたしなめたりすると、すぐに「離婚だ」と言って出て行こうとするため、本木さんは子どもたちを寝かしつけた後、なるべく妻と話す時間を設け、自分にとって妻のことがどんなに大切かを説いた。妻に話し合うエネルギーさえ残っていない日は、寝ている妻に向かって、起こさない程度の小声で、「大好きだよ。愛しているよ」と囁いていたという。
「今は距離を置いていますが、妻の母親もうつ病で、現在も治療中のようです。妻は、『親がうつ病だったから、私もうつ病になったのかな?』と話すことがありますが、私は遺伝ではなく、環境だと考えています。妻の育った環境を聞くと、子どもの頃、母親に容姿のことをよく『かわいそう』と言われたり、他の子と比較されたり、ダメ出しばかりされたそうで、妻自身、『そりゃあ自己肯定感なくなるよね』と苦笑しています。私は義母がどのような環境で育ったかわかりませんが、妻と同じような環境で育っていたとするのならば『負の環境の連鎖』ではないかと思います」
本木さんの声かけや対応によって、妻は幼少期に失った自己肯定感を取り戻し、それが回復によい影響を与えているのかもしれない。
「妻がうつ病になって大変ではありましたが、大切な人を一番近くで助けることができているという実感、喜びはありました。休職中は週一回上司に状況を報告して、月一回面談していました。看護師がいる職場なので、支援先や福祉サービスなどのアドバイスをもらうこともできました。理解のある職場で感謝しています。でも、休職中はやはりお金のことが不安でした。『会社に依存せず、自分で稼げるようになりたい』『うつ病の家族を支えられる仕事をしたい』と思うようになりました」
本木さんの両親は、子どもたちの誕生日やクリスマス、お正月などといった節目に食べ物やお金を送るなどして陰ながら支えてくれた。
「妻がうつ病と診断されたときは、まず『生きてて良かった』と思いました。放っておいたら命がなくなっていたかもしれません。気付けたことがまず最善です。妻はこのまま寛解するのかわかりませんが、明けない夜はないと信じています。いつか妻とオーロラを見る旅行に行きたいと思っています」
本木さんの温厚な人柄や、妻に対する献身的な姿勢には脱帽する。
本木さんが言うように、妻は育った環境のせいで必要以上に自分を責め、追い詰める癖がついてしまっているため、うつ病になってしまったのだと考えられる。おそらくその癖を治さない限り、同じことの繰り返しになるだろう。
妻が母親から浴びせられてきた毒を、息子や娘に連鎖させないためには、妻自身が自分の過去と向き合い、自分を認めてあげることや、自分の特性を知り、自分自身をコントロールする術を身につけることが求められる。
一筋縄ではいかないことではあるが、妻はもう1人ではない。本木さんと二人三脚であればきっと乗り越えられるはずだ。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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