■倒れる一歩手前まで行かなくていい
限界まで自分を追い込んで小説を書きたい気持ちはいつもあるのですが、さすがに五十歳を過ぎると、体力的にもたなくなってくる面が確実にあります。
わたしは悪いことに、空腹時に筆がはかどる。夕方の四時、五時といったあたりに、もっとも頭のほうに血がいっている。体力的にこれ以上やったら危ないような、意識が遠くなっていくようなことがあるので、そこはさすがに気をつけるようになりました。
それこそ三十四歳で他界した父の例があるし、小さいころから息子の体調を気にかけてくれた母の姿もよぎります。徹夜をしたこともなくて、それはやはりどこか身体のことが心配だからです。
そのぶん昼型の作家として、やることは日中にすべてやり終えるようにしています。そして食事もしっかりしたものを摂ることを心がけて、折り目正しい生活を送っているつもりです。
身体に気を遣いながら、倒れる一歩前まで行くのは怖いので、四歩か五歩くらい手前まではやろうという意識です。
そうやって書き続けていて思うのは、やはり体力の重要性です。自分の食べるものくらい自分で料理したほうがいいとこの本で先に述べましたが、まともな食事を摂るのは基本中の基本。
■仕事に不可欠なのは基礎体力
あとは日常生活や家事のレベルですが、身体をきちんと動かすこと。ほぼ毎日軽いストレッチを行い、一時間ほど散歩をこなす。ある程度は身体が動くようにしておかないと、小説にも影響が及びかねませんから。
わたしが欲している体力というのは、運動能力のことではありません。重いウエイトを持ち上げられたり、マラソンを完走できたりする必要はない。基本的に毎日仕事ができて、疲れはもちろん出るけど、また次の日にはきちんと仕事ができ、倒れずにやっていけるという基礎体力があればいい。
どれほど自分がその道を行きたいと思っても、体力に無理がきてしまえば、結局かなわないし、それは向いていないということになってしまいます。
人間の性格は精神や脳ではなくて、腸など内臓の状態が決定しているという説もあるらしいですが、たしかにそうかもしれないと思わせます。体調を整えておくことは、充実した仕事をこなすうえで不可欠です。
逆に言えば、向いている仕事をしていると、たぶん体力も保たれるのでしょう。体力が続かなくなるということは、その仕事を考え直す理由にもなります。
■ブラック企業からはすぐに立ち去れ
ただし、あなたがきわめて不当で過酷な職場環境にさらされているとすれば、仕事の向き不向きといった検討の余地などない。この本で盛んに述べてきた奴隷状態うんぬんの次元でもありません。
連日激務を強いられ、睡眠時間の確保すらままならないような状況にあるのなら、たとえやり甲斐を感じていたとしても、あなたはすぐにそこを辞めるべきです。さもなければ、麻痺している間に蝕まれ、命を脅(おびや)かされます。
いわゆるブラック企業の存在は、法的な領域で対処する問題です。だから、闘える人たちが闘うしかない。ブラック企業というのは、一筋縄でいかないからブラックなのです。彼らは巧妙に正当性を取(と)り繕(つくろ)う。泣き寝入りは嫌だからと、個人で闘おうとすればつぶされます。とにかくあなたはあなたの身の安全を守らなければならない。その最善の手段は立ち去ることです。
ブラック企業にかぎらず、目に見えて悪質な環境でなくても、労働者に強い負担を強いる職場はたくさんあります。
■職場の仕事評価を鵜呑みにするな
目の前にある仕事に関して、手を抜かないと決意できるようであれば大丈夫です。わたしの場合は、原稿には決して手を抜かない、結果がどう出るかわからないがやれるところまでやる、それは間違いなく守っていることです。
同じように、あなたもそう思えるのであれば、仕事自体に意味を見出せている、つまり仕事に集中できるだけの時間と体力を確保できていることになる。
職場がどうにも肌に合わないと感じ、体力的にもこれはもたないと思ったら、逃げ出していい。その職場で、仕事ができないというレッテルを貼られる場合も、その場が自分に合わないのだと考えてかまいません。
ただ、まだいまの時点では、その仕事ができていないだけということもありえる。自分なりの努力や工夫で克服できる余地がありそうなら、もう少し粘るのも手でしょう。もしもその職場、仕事にやり甲斐を感じていて、それでも仕事ができないと言われてしまっているのなら、そこはもうちょっと踏ん張るなり、策を巡らすなりすべきでしょう。
仕事ができる、できないという定義は、企業や組織の側の論理です。
■対抗策とは仕事で黙らせること
他人からの仕事の評価というのは、難しいものです。世の中、自分が思ったとおりに受け入れられないことのほうが大半です。
作家という職業をやっていてもそうで、作品が思うように評価されないことのほうが、圧倒的に多い。まあ、わたしの場合でいえば、出した本が全部売れるわけでもないし、評価はまちまちだし、そういう中でいつもやっているわけで、世の中は思うに任せないものだというのは、はっきりと感じさせられます。
うまくいかない、評価されない、なんで人は自分のことをわかってくれないのかという気持ちが生じるのは、当たり前だと思います。最初からうまくいく人などめったにいないのだし、仕事というのはうまくいかないのが普通です。それがおそらく仕事というものの本質なので、そこは工夫や策を巡らすなりしていかねばなりません。
いつも自分の仕事をつぶしてしまう上司や経営者がいるとして、彼らになんとか対抗したいと思ったら、それはやっぱり仕事で相手を黙らせるしかない。あの編集者が何度書き直しても納得してくれないとか、あの批評家がいつもつらくあたってくるということがあったら、わたしはその人たちを作品によって黙らせるしかありません。
ああだこうだと口喧嘩をするのではなく、仕事を通して黙らせる。企業で働いているとそこまではっきりと人を見返すのは難しいのかもしれないけれど、基本的には仕事のことは仕事で対抗する以外にはありません。
■人生「棚からぼた餅」論
人生とはつまるところ「棚からぼた餅」なのだと、わたしは思っています。
たとえば、わたしは日本語というもともとある体系を使って、小説というすでにあるスタイルを借り、自分なりに仕事をやっているだけです。
この時点ですでに「棚ぼた」です。
さらに言えば、生まれてきたこと自体が棚ぼたみたいなもの。
棚の上にいつもぼた餅は載っている。そこに気づくかどうかです。
いつも過酷な状況にいて、自分は耐えるしかない身だと思ってばかりいると、棚の上にぼた餅があることにすら気づきません。
棚の上にぼた餅があることに気づき、その下に移動して皿を構えるくらいのことはやれるはずです。それもやらないようでは怠慢と言われても仕方がない。あるいは、それもできないような状況にいるのなら、きつ過ぎるので、すぐに逃げ出す算段をしたほうがいいでしょう。
そのぼた餅は、他の人からすれば「ないじゃないか」という、自分だけの幻想のぼた餅かもしれないが、それでもかまわない。そこに行って皿を差し出すということ、その努力すらしないで、漠然と不満だけを募らせている人が多いように思います。
いまいる場所から逃げ出すとか、本当にやりたい仕事を探しに行くとか言うと、なにやら大変なことを求められているように感じるかもしれませんが、そうでもない。棚ぼたを狙うというくらいの気持ちで臨めばいいのです。
■棚の下まで移動して“ぼた餅”を待て
わたしはかつて作家になれたらいいと思っていたけど、そのためにしたことといえば、棚ぼたを信じて待つことくらいでした。どうせなれないだろうからと、なにか資格を取ったり、アルバイトをしたり、就職をしたりする道もあったのですが、それは選ばなかった。
棚の上にぼた餅があると根拠もないのに信じて、一番いいと思われる場所に移動して待っていた。そうして、チャンスの神様の前髪をなんとかつかむことができた。小説というのは、わたしにとっては棚ぼたであったわけです。
それ以外にやりようはありませんでした。とくにほかの方策も思いつきませんでしたから。
新人賞に応募するときも、とにかく目の前の小説をきちんと、自分なりに一生懸命書き上げて、あとはそれがうまくいくかどうか、新人賞を取れるかどうかは、信じて待つしかなかった。
一生懸命にやって待っていれば、おそらくどこかでだれかが、棚を蹴っ飛ばしてくれるときが来るとわたしは思っています。棚に上ろうとしなくてもいいから、棚の下まで移動するくらいはしてみたほうがいい。
ひと握りの大天才、音楽におけるモーツァルトや、野球の大谷翔平のような人は、棚の上に乗っかって自分で餅をひったくってくるのでしょう。そうではない凡人でも、しかるべき場所で、きちんと準備をして待てば、落ちてくる餅を手にすることはできます。努力と運は、けっこう密接に結びついているものです。なにかの結果は、努力のゆえでもあり、運のなせる業(わざ)でもあります。
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田中 慎弥(たなか・しんや)
作家
1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞し、作家デュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞。12年、『共喰い』で芥川龍之介賞を受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞を受賞。『燃える家』『宰相A』『流れる島と海の怪物』『死神』など著書多数。
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(作家 田中 慎弥)