■「ハリー・ポッター」は出版を断られていた
メタルフレームの丸メガネ。額にある稲妻型の傷。この2文だけで、誰のことか、何のことなのかわかるだろう。
あなたがたとえ「ちょっと好き」程度のファンだったとしても、あの心をとりこにするテーマ曲が頭のなかで流れるかもしれない。あの本のカバーや、最初のシーンを思い浮かべるかもしれない。魔法や魔術、そして想像力を刺激するあらゆるものが脳裏に浮かぶのではないだろうか。
本を開いたり画面のスイッチを入れたりすれば、また、テーマパークや店舗、英国各地の映画のロケ地を訪れれば、この魔法の世界の一員となれる。幻想的な世界が、読者を、観客を、そしてゲームユーザーを待ち受けている――子どもから大人まで、すべての人たちを。
だが、この魔法の世界は、もう少しのところで日の目を見ることなく終わるところだった。『ハリー・ポッターと賢者の石』(静山社)は、最終的にロンドンにあるブルームズベリー社から出版される前に、12社以上の出版社から断られていた。
■理由は「話が長い」「全寮制は身近ではない」
この傑作がこれほど断られつづけたのはなぜか。著者であるJ・K・ローリングの最初の著作権エージェントだったクリストファー・リトルによれば、理由はたくさんあるという。
たとえば、この物語はとても長かったし、舞台である全寮制の学校というのは多くの読者にとって、身近に感じられる場所ではないだろうと思われた。リトルは言う。「1年近くものあいだ、この物語は、イギリスのほとんどすべての大手出版社に断られつづけました」
この物語は最終的に、ブルームズベリー社の会長の机にたどりついた。彼はその物語の最初の章を、信頼のおける読み手に託した。8歳の娘、アリスだ。腰かけて最初の章を読みはじめると、彼女は物語に入り込み、離れられなくなった。アリスは読み終わると、父親に続きをねだった。
ブルームズベリー社はこの本を出版することを決めたが、それでもまだ、1997年に『ハリー・ポッター』が世に出た時点ではそのポテンシャルには気づいていなかった。ローリングを担当した編集者、バリー・カニンガムが、児童書の執筆では生活していけないだろうから何かパートタイムの仕事をしたほうがいいと勧めたほどだった。一言で言うならば、カニンガムは間違っていたということだ。
■いまや成長を続けるブランドに
不思議な過去をもつ控えめな子どもが、摩訶不思議な、夢のような紆余曲折を経て大人へと成長していく物語。夢と魔法の物語はもちろん、1990年代後半よりずっと前から、芸術、文学、映画の世界に存在していた。
だが『ハリー・ポッター』は非常に力強く人々の心をとらえ、その結果、この物語のブランドは20年以上にわたって継続し、成長しつづけている。いまや世界中で知られるようになり、約400億ドル規模のビジネスとなった。このシリーズから現在出ているものだけでなく、いくつものスピンオフもあることから、ブランドの価値はただ上がっていくばかりだ。
たとえば映画『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』のような前日譚もあれば、舞台版の後日譚、『ハリー・ポッターと呪いの子』もある。2023年には、ロールプレイングゲーム(RPG)の『ホグワーツ・レガシー』が発売になった。映画になり、おもちゃになり、シリーズ化された本はたくさんある。だがどれも、『ハリー・ポッター』ほどの成功には至っていない。何が違うのか?
J・K・ローリングは、いかにしてこれほど多くの読者の心をとらえたのか? なぜこの物語の読者はみんな、何度も何度も読み返すことになるのか? さらに、このシリーズはどのようにして、レレバンス(訳注/消費者がブランドに対してつながり・関連性・愛着を感じること)を維持し、何世代にもわたる読者に影響を与えつづけることができているのか?
■8歳の女の子が“強いつながり”を感じていた
息子が幼かったころ、私は彼に初めて『ハリー・ポッター』を読み聞かせた。そのとき、息子と私の両方を、そして大勢の子どもたちや大人たちをひきつけるその力に本当に驚いた。
同じことが、8歳のアリスにも起きた。
これは、『セサミストリート』からディズニーまで、子ども向けに成功しているほとんどすべてのものに当てはまる。大人の脳と子どもの脳のどちらにもある(異なるレベルにある、というだけの違いだ)つながりを活かして、あらゆる世代の人たちに愛されているからこそ、成功しているのだ。
■“魔法で活躍する物語”はほかにもある
『ハリー・ポッター』は確かに優れた物語ではあるが、これほどまでに成功した理由はそこではない。子ども向けの強いメッセージをもつファンタジー小説や絵本で、魅力的な登場人物たちが魔法の世界で活躍する物語は、これまでにたくさんあった。
マデレイン・レングルの『リンクル・イン・タイム』、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』、C・S・ルイスの『ライオンと魔女』などはよく知られた名作であり、どれもみんな映画化され、演劇になり、おもちゃになり、テレビ番組にもなっている。
だがいずれも、『ハリー・ポッター』1作目の販売部数1億2000万冊には達していない。『ホビットの冒険』の販売部数はそれを2000万冊ほど下回り、1962年出版の『リンクル・イン・タイム』はわずか1000万冊である。1作目の『ライオンと魔女』から始まる全7作の『ナルニア国物語』シリーズ全体でも、約1億冊となる。『ハリー・ポッター』の全7作は、これまでに合わせて約5億冊が売れている。また、関連映画13作品は、興行収入が計96億ドルに上る。
■“私たちの世界”につながっている感覚がある
3つの名作はどれも、『ハリー・ポッター』と同様にすばらしい物語である。試練と痛みを経て生まれ変わる主人公を描いていて、魔法が登場する、好奇心をそそるすばらしいストーリーである。そして、世界中のファンに愛されている。とはいえ、『ハリー・ポッター』の成功の前ではかすんでしまう。明らかに、『ハリー・ポッター』には、何か違うものがあるのだ。
『ハリー・ポッター』の成功の秘密は、実際には著者のローリングの、物語の世界を生み出す力にある。私たちの脳に、たくさんのタッチポイントをつくるような、大きく広がった世界である。
このようにタッチポイントができるのは、あたかもハリーのいる世界が私たちの世界の上に重ね合わされているかのように、ハリーの世界を私たちの日常生活のあらゆる面につなげたことの結果である。
■「現実世界のもの」が移し替えられている
ハリーの世界は、とくに子どもたちにとって非常に身近に感じられる。生徒たちの親、教室、先生の授業、学校でのスポーツといったものはすべて、私たち現実の世界をファンタジーのレンズで見たものになっている。
魔法界とマグル界のふたつの世界(『ハリー・ポッター』では、魔法使いでない人間を「マグル」と呼ぶ)が現れ、そこでは木にも感情があり、本と会話をすることができ、肖像画は文字通り生きていて、暖炉を通じて移動できる。ロンドンの道には、魔法の世界が隠され、見える人には見える。
ハリーの世界はすべての面で、現実の世界のものがわかりやすいかたちで移し替えられていて、それでいながらファンタジーの世界のものへと昇華されている。『ライオンと魔女』では、読者は魔法の世界(私たちの世界とはまるで違う)に洋服だんすから入っていく。現実の世界では、私たちは旅に出るのに洋服だんすは使わない。
私たちが使うのは車やバス、そして、そう、電車である。『ハリー・ポッター』では、9と4分の3番線が、私たちの世界での鉄道の駅のホームにあたる。駅では、わびしい人けのないホームで、乗車するまでしばらくウロウロしていなければいけないこともあったりするが、『ハリー・ポッター』では違う。秘密の通路があって電車に乗ることができ、その電車はハリーと友人たちをホグワーツ魔法魔術学校に運んでくれる。
■ホグワーツは“私たちが通った学校”と同じ
到着すると、ダンブルドア校長が待っている。この賢い先生は、私たちの学校では見たこともない、それでいて私たちがいつも求めていたような校長だ。
ホグワーツは私たちが通った学校と同じように運営されている。授業があり、お昼の時間があり、学期と長期休暇があって、徒党を組む生徒たちもいれば、好きな先生もいる。とはいえ私たちの誰も、「闇の魔術に対する防衛術」の授業を受けたこともなければ、女子トイレで幽霊に出くわしたこともない。
魔法界で人気のスポーツは、ローリングがバスケットボールをもとにつくりだした「クィディッチ」。ゴールがあって、審判がいて、観客がいるのは同じだが、空飛ぶほうきに乗って空中で戦う。4つの寮の対抗で試合が行われ、迫力満点の試合と自分のチームを誇りに思う気持ちは、私たちが知っているオリンピックやスーパーボウルを思い起こさせ、ここで神経の回路がぴったりとつながる。
ハリーの世界に登場するものは、どれも身近に感じられる。だがどれも、見た目から想像するものとは違っている。ハリーの世界では何が起きるかわからないが、けっして読者にとって、理解のできない場所や別世界のように感じられる場所ではない。
■ハリー・ポッターの成功は必然だった
大きな広がりをもつ魔法界は、あらゆる面で私たちの生活のどこかと関係していて、私たちがもっている考え方、連想、記憶と直接つながっている。『ハリー・ポッター』の成功は、1作目の映画がつくられるずっと前から、必然だったのだ。
これは、ローリングが生み出したハリーの世界のセイリエンス(編集部注:想起されやすさ。そのブランドがすぐに思い浮かぶかどうか)が非常に高く、『ハリー・ポッター』が書店で勝者になるよりも早く、人々の心をつかんで勝者となっていたからである。
どんな種類のものであれ、最も成功したブランドは同じやり方をしている。心のなかで非常に高いセイリエンスをもつような、あらゆるものを内包したひとつの世界をつくりあげるのだ。そこに足を踏み入れれば、そのブランドの世界では独自のルールや価値観があり、独特の風景が広がり、特有のタイプの人物やキャラクターがいて、場合によっては独自の言語さえあることがわかる。そう、ハリーの世界での呪文のように。
パターンさえわかれば、事業を構築するためにも、パーソナルブランドを構築するためにも、あるいは大学の入学選考を突破するためにも、同じやり方を取り入れることができる。
■グーグルも似たようなやり方をしている
グーグルも、国内外でオフィスや「キャンパス」をつくる際に、似たようなやり方をしている。グーグルのキャンパスは、単に機能性だけを考えるのではなく、人と人とのかかわりを最大化するようにつくられている。
同社のモダンな建築デザイン、カラフルな内装、組み立ておもちゃのような什器、そして多彩な種類から選べる快適な座席は、その一端にすぎない。グーグルでは社員のために、仕事以外の面でもあらゆるものが提供されている。
健康的な食べ物がたっぷり用意され、社内にはクリーニングサービスやランニングマシンもある。建物間を移動するための電動キックボードもあれば、昼寝スペースまである。この環境はすべてを内包したカラフルな世界で、仕事、遊び、協力、そしてイノベーションを促進する。
さらには、社内ではかの有名なソフトウェア開発コンテスト(グーグル版のクィディッチである)が行われ、健康相談サービスもストレス解消のためのマッサージもあり、採用にあたって同社が望む「グーグルらしい」人物像もあって、みんながその一員になりたいと望む、のめり込むようなひとつの世界ができあがっている。働きたい企業ランキングで常に上位に位置するグーグルには、年間300万件の応募がある。
■引き込まれるような世界をつくる
かつて人事担当者や経営者は、このような要素を「企業文化」とひとまとめにして考えていた。だが、「のめり込むようなブランドの世界」をつくるほうが、社員を定着させることがますます難しくなっているこの時代ではずっと有益になっている。
ハリーの世界のように、ブランド・アイデンティティーを目に見えるかたちで示して、働く人たちが思わず引き込まれるような世界をつくるのだ。可能なかぎり多面的に彼らとかかわりをもつ世界が望ましい。
触れるタッチポイントは多ければ多いほどいい。そのためには、物理的な脳のなかに無数のつながりをつくり、ブランドのセイリエンス、レレバンス、明確さを高める必要がある。
簡単にいえば、ブランドを市場で成功させる唯一の方法は、まず人々の心のなかでそのブランドを育て、小さな種から、ブランド・コネクトームの枝を広げるセコイアの大木へと成長させることなのである。
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レスリー・ゼイン
マーケター/ブランディング・コンサルタント
イエール大学卒、ハーバード・ビジネススクール修了。ベイン・アンド・カンパニー、ジョンソンエンドジョンソン、P&Gを経て独立。ブランド・コンサルティング会社トリガーを創立。マクドナルド、ペプシコをはじめとしたフォーチュン500企業の成長を支援。マーケティングに約30年従事している、現場のスペシャリスト。これまで「ハーバード・ビジネス・レビュー」、「フォーブス」などに寄稿している。
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(マーケター/ブランディング・コンサルタント レスリー・ゼイン)