※本稿は、フクダウニー『心の中で犬を抱きあげたあの日、自分に優しくなれた気がした』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■梨が大好物…人間で言えば90歳くらいの超シニアドッグ
実家で暮らす犬の好物はたくさんあるが、その中でも一等好きなのが梨だ。
林檎ではなく、梨だ。
林檎であれば一年を通してスーパーなどで購入出来るものの、季節の果物の梨となればそうもいかない。それに、林檎と比べれば梨は高価な果物でもある。そんな人間の懐事情もあって、可能であれば、ほんと出来る範囲内で構わないからこちらも好物としていただいて……と代用品としてカットした林檎の提供を試みたこともあったのだが、ふんっと嘲笑(あざわら)うように鼻息をかけられて終わった。
普段はベロを出して呑気な面構えの穏やかな犬として暮らしているものの、好物に対しては一切の妥協を許さぬ生粋の食いしん坊であった。
赤ちゃんから大人へ、大人から老犬へと順調に成長していった実家の犬は、現在人間で言えば90歳くらいの超シニアドッグとなった。のんびりおっとりした赤ちゃんがそのまま老犬になったのがうちの犬である。
■ずっと元気でいてくれると思っていたのに
変化と言えば加齢による歯槽膿漏(しそうのうろう)で抜歯した結果、ベロを押さえていた歯も抜かれたようで常にベロが出る仕様になったことくらいだろうか。
たまに格納されていることもあるが、くしゃみしたりぶるぶるっと首を振るとベロが全部出て来るので、基本アウトドア派のベロのようだ。
いつぞや「そこをキャンプ地とするんですか?」と聞いてみたが、「は?」と言わんばかりの顔をしていた。そりゃあそうだよ。
数年前までは老いるは老いたけど元気だし、大きな病気もしてないし、何より食欲旺盛なのでまだまだ生きるだろうと思っていた。私の生活に、人生に、まるで横付けするように犬が尻なり鼻なりくっつけていてくれるんだと思っていた。
でも、最近の犬の様子を見ていると、もしかしたらそんなことないんじゃないかと思えて来て、心に穴が開きそうになる。考えたくも認めたくもないのに、気が付けば犬のことばかり考える。これが恋というものなのかしら。まぁ、恋も犬も同じ二文字だし。
最近の犬は体調が悪い。食欲も安定せず、咳が出るようになった。病院に通い、検査をして、注射や投薬での治療を続けているがそもそも何故咳が出るのかその原因が分からない。仮に分かったとしても高齢で治療の手段が少ないのだそうだ。
■治療法が見つかっても苦しみや痛みが伴えば選ばない
実家で犬と暮らす両親も「とにかくこの子が苦しまず、辛い思いをせず、最後までのびのび生きてくれたら」という考えで、私も同意している。仮に治療法が見つかったとして、もう少しだけ長生きする代わりに苦しみや痛みが伴うのであればその手段は選ばないだろう。私の大切な宝物はもう、そういう段階なのだ。分かっている。
今日、母がスーパーで初物の梨を買ってきた。一玉500円の梨を、高齢の犬のために。この梨は犬のものであり、人間の口に入ることはない。運良く食べることが出来たとしても、細かく刻んだ梨の端っこの部分である。あとの全ては犬のものだ。
犬や動物と暮らしたことのない人には信じられないことかもしれないが、こういう現象が日常の中でまぁまぁ起きる。
実例として実家に完備された空気清浄機やクーラーは全て犬基準で起動されるし、それを裏付けるようにクーラーも空気清浄機も犬が暮らしの拠点にしている二階のリビングにしか設置されていない。あの家の全ての権利と愛は犬が所有しているのだろう。人間が差し出すように、犬もまた私達家族にいつでも溢れんばかりの愛をくれた。
■犬は500円の梨、人間はもずく…愛を与え、愛をくれる存在
高齢の犬が食べやすいように細かく刻まれた梨はHAPPY DOGとでかでかと書かれた餌鉢に入れられ、犬に差し出された。もう目もあまり見えず、鼻も利かず、耳も遠くなった犬が残った全ての力をフル活用して餌鉢に辿り着く。ふんふんと匂いを嗅ぎ、すぐに食べ始めた。ここ最近どんなに好物であっても気分でなければそっぽを向く始末だったのに、やはり梨。初物の梨。これが一玉500円の力である。
細かく刻まれたお陰で食感も何もあったものではないが、思うに犬は梨の瑞々しさを愛しているので問題ないようだ。梨を提供した母は犬が美味しそうに梨を食べる様を大層喜びながら、自分は台所でもずくと納豆ご飯を食べていた。なんて慎ましい女なんだろう。
犬の梨好きは、小さい頃からだった。
食卓に並ぶ梨は間違えて出されただけで本当は自分のものと考え、逞(たくま)しい脚の筋力を駆使して小型犬とは思えぬ強靭なバネで飛び、テーブルから梨を取り返そうとしたりした。
■もう梨に気づかないのに、母は一心不乱に探している
人間が梨を食べているのを見ると大層驚いた顔をして足元までやって来て、「あなた方は自分しか食べられないものが数多あるだろうに、どうして私の梨を奪ったりするんですか?」とでも言いたげな悲痛な表情で見上げながら人間の膝を叩いて猛抗議してくる犬でもあった。既に母から梨を貰っていても、である。
何ならさっき食べた梨がまだ犬の口の中に残っているんじゃないのかというレベルでも、「この私がまだ一口も食べていないその梨を何故あなたが?」と全身で訴えて来る。小刻みに震えながら情に訴えさえする。梨に関しては策士であった。その瞬間だけ、犬は諸葛孔明となった。過言である。
そんな可笑(おか)しくて、賑やかで、ほんのり面倒臭くて、だけど愛おしい生活を経て犬は老いた。
今は人間が梨を食べていたって気付かない。
梨のシーズンでなくても犬が喜ぶから、梨なら食べてくれるかもしれないと期待してネットを駆使してまで探す。見つけた梨がどれだけ高価でも、自分達の食費を削ってまで買って犬に食べさせる。
■生活の中に違和感なく馴染んだものが多すぎて…
他人から見れば奇行に見えても、私にすればその行動は愛以外のなにものでもなかった。決してかける金額の大きさがという意味ではなくて、かける時間が、少しでも犬が好きなものを美味しいと喜ぶものを食べさせたいと想う気持ちが。その他諸々の犬に向ける全てのことを取りまとめた時、その総称こそが愛だと思った。
梨のように、犬と生きた時間の中で生活に違和感なく馴染(なじ)んだものがたくさんある。噛むと鳴る笛入りのおもちゃ、ささみが巻かれた骨、歯磨きガム、ペット用かつおぶし、茹でささみ。
農家の家で育ち、ベジタリアンの節がある犬ゆえに野菜も好きだ。アスパラ、ブロッコリー、とうもろこし、スナップえんどう。新鮮で茹でたては犬の特権で、茹でているうちから匂いに誘われて小躍りするように台所にやって来ては母の足元にまとわり付いた。
知らぬ間に私の人生において、犬に結びつくものばかりが増えていた。他の人からすればただの野菜でも、物でも、素通りしてしまうようなことでさえ私にとってはそこに犬がいる。ベロを出したとぼけた顔の気の良い犬が、いつでもそこでへらへらと笑っている。
■「来年にはいないかも」と思った瞬間
だけど今日、梨を少しだけ食べてベッドに帰って行った犬を見た時。その途中おぼつかない足取りで躓いてよろけたのを見た時。何となくだけど、多分なんだけど、来年の初物の梨の出る頃に犬はいないかもしれないと思ってしまった。
勿論全然いてくれるかもしれないし、そうであって欲しいんだけど、いない可能性を考えた瞬間から心の中に色の濃いインクをこぼしたみたいに不安が広がって取れなくなった。拭いても拭いても余計伸びたり広がっていくばかりだ。犬が生きているうちは消えることはなく、人生から犬を失う日が来たらそれはそれで生涯消えることはない悲しみの感情が心にシミとなって残るのだろう。
最近は、犬を人生から失いたくないばかりに色んな想像をしている。失いたくないばかりにというか、いざ犬を失った時に耐えてその先も私が生きていくためにと言った方がいいのかもしれない。犬は今この瞬間も懸命に生きているというのに、そんなことを考えるのは薄情で酷いことだと自分でも分かっている。よく分かっている。
例えば、仕事中に実家から犬が亡くなったと連絡が来たらどうだろう。案外冷静に受け取れるだろうか。それとも悲しくてやるせなくて、仕事にならなくなったりするんだろうか。
■こんなに可愛くて仕方ない毛むくじゃらの宝物なのに
例えば、それが休みの日だったらどうだろう。もう何もしてやれることはなくても側にいるべきだったと悔やむんだろうか。その瞬間まで骨張った身体と毛並みを撫でて声をかけてやれたらと思ったりするのかな。
例えば、私がたまたま実家に居合わせた時ならどうだろう。どんな言葉をかけて、触れ方をして、可愛くて仕方ない毛むくじゃらの宝物を見送ればいい? 本当はどこにも行かないで欲しい犬を。散歩さえ嫌がり、地面に下ろせば鮭の滝登りのように脚を駆け上ってこようとする甘えん坊を。
あぁ、考えたくない。考えたくないのに考えるのをやめられない。常にその時が来ることに身構えていなければ、そしてその別れがどんな状況どんな状態で訪れるのか想定していなければ、きっと耐えられない。耐えられない、犬が私の人生からいなくなることに。
そんなことを考えている間にも、一切それらしい答えや結論に至ることなく毎日は巡る。その事実も頭のどこかでちゃんと理解しているから、無理に全部を取り除こうとするのを諦めた。
だってどれだけ考えたって悩んだって嘆いたって犬、生きてるし。
■狂ってしまう、それが犬を愛するということ
少ししか食べなくても今日も全然梨をこよなく愛する梨ドッグだし。恐らく、「私と梨なら?」って聞いたら一応礼儀として私を一瞥(いちべつ)したあとスタスタ梨の方に行くだろうなってくらいには梨が好きだし。どれだけ別れのパターンを想定したところで、実際その日を迎えたらたとえどんな別れだろうが違う形同じ深さの穴が開くのだろう。
だから、まぁ、いいかなって。大丈夫ではないけど、いいかなって。いいかなってことにしておかないとどうにかなりそうだから、いいかなって思うことにするしかない。そう思わないと狂いそうだ。もうとっくに狂っているのかもしれないけれど。
でも、今日は多分、夜眠るまでの間にあと何回かはいつか青果売り場で梨を見る度に思い出が込み上げて泣く自分を想像して泣くんだと思う。別れのリハーサルだなんて、辛気臭ぇ未来予想図もあったもんだなと笑って欲しい。そうしたら少しは救われると思うから。
老犬という可愛さと、バラエティに富んだ心配と、時にはありとあらゆる手間と面倒臭さを発生させる存在を大事に捏ねて捏ねていい感じに形を整えた時。そこに出来上がるものもまた、私は愛と呼びたい。
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フクダウニー
エッセイスト/介護福祉士
1991年生まれ、北海道出身。本業は介護福祉士。暑さに弱く、寒さにも弱い。靴下の片方とタッパーの蓋をよく無くすが、元気に明るく生きようと思っている。嫌なことがあると「犬 可愛い」で検索して回復を試みる。
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(エッセイスト/介護福祉士 フクダウニー)