自分とは「基準」が違う人とうまくやっていくにはどうしたらいいのか。精神科医の藤野智哉さんは「人は、自分では悪気がなくても、いつの間にか他人の領域に侵入したり、人から侵入を許してしまったり、ということが往々にしてあるもの。
相手が引いた線も尊重するようにしたい」という――。
※本稿は、藤野智哉『人間関係に「線を引く」レッスン 人生がラクになる「バウンダリー」の考え方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。
■大切なのは人間関係に「線を引く」ということ
最近、あなたはこんなことに悩んでいませんか?
・断るのがなんとなく苦手

・仕事の連絡が休日にもあり気が休まらない

・つい意見の強い人に押しきられがち

・愚痴につきあったり、相談されることが多い

・「理不尽」と思いつつ、結局、我慢してしまう

・期待に応えないと、なんだか罪悪感がある
そんなあなたに足りないのは、人間関係に「線を引く」ことかもしれません。どういうことでしょうか?
人間関係に「線を引く」と書きましたが、この「線」は心理学用語の「バウンダリー」という考え方がもとになっています。「バウンダリー」とは、「自分と他者の間にある境界線」のことです。
もう少し詳しくいうと、「『どこまで相手と関わるか』『どこから自分を守るか』を自分が決めるための心理的な境界線」を意味します。
人にはそれぞれ「自分の領域」があります。そしてその自分の領域は、尊重されてしかるべきものです。けれども、本来なら誰からも侵入されないはずの「自分の領域」に、気づいたらずかずかと入ってこられてしまうケースは少なくありません。
それが「バウンダリーを越えられる」ということです。そして、バウンダリーを越えられたら、自分を守るために、「それ以上はやめてください」と言っていいのです。
本稿を通じて、「自分の輪郭」をはっきりさせて、「自分を守る」「自分を尊重する」ためにバウンダリーを引くようにしてみてください。

そして、もう一つバウンダリーでとても大切な視点があります。それは「お互い」という視点です。「自分を守る」「自分を尊重する」ように、「相手を守る」「相手を尊重する」ことです。
人は、自分では悪気がなくても、いつの間にか他人の領域に侵入したり、人から侵入を許してしまったり、ということが往々にしてあるもの。相手が引いた線も尊重するようにしたいですね。
この人間関係に「線を引く」ができるようになると、
・自分の時間ができる

・自分の身を守ることができる

・やりたいことをやれるようになる

・大切な人を大切にできる

・自分の気持ちがラクになる

・他人の目が気にならなくなる

・人に上手に頼れるようになる

・お互い無理しない範囲で要求を伝え合え、調整できる

・心地いい距離感で人間関係が築ける
などが変化として現れると思います。
自分をしっかり守る。相手も尊重する。「ここまで」という線を引いて、適度な距離の人間関係、人生がラクになるコツを学んでいきましょう。
■「一仕事して新幹線で靴を脱いで、はぁ疲れた」はアリか
あなたは、自分の「加害性」について考えたことがあるでしょうか。
この本でいうところの、相手が引いた線を越えて領域に侵入することです。自分が他の人を「傷つけている」「不快にさせている」ことです。
想像すらしたことがないという人も多いかもしれませんね。しかしどうでしょう。そもそも誰にも害を与えずに、不快にさせずに、生きている人など存在するのでしょうか。
ちょっと想像してみてください。
たとえば一日中歩きまわって疲れたあとに乗った新幹線。少しでもラクに過ごそうと靴を脱いだとします。あなた自身は気づかないかもしれませんが、その靴から出るにおいで隣の人は不快な思いをしたかもしれません。
犯罪ではないはず?
それはそうですよね。
そんなの気にしすぎでは?
それもたしかに一理あります。
けれども、不快に感じた隣の人からすれば、犯罪ではなくとも、気にしすぎだと言われても、それがイヤで不快だったことは間違いないんですよね。
あるいは、この例で想像してみてください。
夜道で、他の人の後ろを歩いていたとします。
たまたま同じマンションの住人だったようで、エントランスに一緒に入り、エレベーターが閉まりそうだったから飛び込んだとします。
あなたにとってはなんでもない自然な行動が、相手からするとひどく怖かったかもしれません。
相手が自意識過剰なのでは?
そういう見方もあるでしょう。
では、例を変えてみましょう。
あなたは、海外の治安の悪い国で旅行していたとします。歩いていたら体格のいい男性がずっとついてくる。
「怖いなあ」と思いながらも、なんとかホテルに逃げ込んだのに、エレベーターを閉めようとしたら滑り込んできて、今、自分の後ろに立っている……。
この状況を「自意識過剰」の一言で片付けられるでしょうか。自分では意識していなくても、相手の立場になってみると、自分が知らず知らずのうちに「加害者」になっていることはとても多いものです。
■私たちは常に誰かにとって無意識の加害性をもっている
人と人とが関わって生きている以上、気づかないうちに誰かにイヤな思いをさせたり傷つけたりすることはよくあります。
年齢をきくこと、恋愛の話をすること、週末の出来事をきくこと。国や人によっては、大きなハラスメントになりえる行為が、まだまだ普通に行われていて、それを指摘された人は心の底から驚いたりするのです。

「こんなことがハラスメント?」「こんなことで『加害』と言われるの?」と。
私たちは常に誰かにとって、無意識の加害性をもっています。この本を手にとった人の多くは、自分の線を越えられ、侵略されることに苦しみ、なんとかしたいと思ったからでしょう。
もちろんそれはとても大切なことですし、必要なことです。でも、そうして自分のバウンダリーが見えてくると、自分がこれまで他の人のバウンダリーを踏み越えていた部分も、必ず同時に見えてきます。その時に目をそらさないでほしいのです。
バウンダリーをきちんと意識するのは、自分の権利を尊重すると同時に、相手の権利も尊重することにつながります。
そして、これからの時代、それができなければ生き残っていくことはできないでしょう。
最近のニュースでは、これまでは「そういうもの」として見過ごされ、もみ消されてされてきたハラスメントが明らかになるのを見る機会が増えました。
誰もがSNSやネットで声を上げられる今の時代、「他の人の領域」に勝手に不法侵入して許される時代は終わりを告げ、お互いのバウンダリーをしっかり見極められる人が生き残れるようになってきています。
ひと昔前の感覚では「そんなことで」と思ってしまうことも、きちんと線引きできる世代が育ってきています。それを「今どきの若者は」と考えずに、自分たちも価値観をアップデートしていく必要があるのです。

もちろん人と人が関わる中で、誰にもイヤな思いをさせず、害を与えないことなんてできるわけがありません。
ただ、バウンダリーを認識することで、少なくとも意識的な加害は減らそうと思えますし、自分の無意識の加害はきちんと受け入れることができるでしょう。誰だって、誰かにとってはいい人で、誰かにとってはイヤな人。残念ながら私たちは、生きているだけで、誰かを傷つけます。
本稿を通して、「自分を守っていいんだ。そして他の人にも同じように権利があるんだ」ということをしっかり認識し、このシン・バウンダリー時代の荒波を乗り越えていっていただければと思います。

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藤野 智哉(ふじの・ともや)

精神科医

産業医。公認心理師。1991年愛知県生まれ。秋田大学医学部卒業。幼少期に罹患した川崎病が原因で、心臓に冠動脈瘤という障害が残り、現在も治療を続ける。学生時代から激しい運動を制限されるなどの葛藤と闘うなかで、医者の道を志す。
精神鑑定などの司法精神医学分野にも興味を持ち、現在は精神神経科勤務のかたわら、医療刑務所の医師としても勤務。障害とともに生きることで学んできた考え方と、精神科医としての知見を発信しており、X(旧ツイッター)フォロワー9万人。「世界一受けたい授業」や「ノンストップサミットコーナー」などメディアへの出演も多数。著書に3.5万部突破の『「誰かのため」に生きすぎない』(ディスカヴァー)『自分を幸せにする「いい加減」の処方せん』(ワニブックス)、『精神科医が教える 生きるのがラクになる脱力レッスン』(三笠書房)などがある。

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(精神科医 藤野 智哉)
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