※本稿は、荒木博行『努力の地図』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■「ここまでの努力は何だったんだろう」
パリ五輪のことはまだ記憶に新しい人も多いだろう。その競泳女子100メートルバタフライ日本代表だった池江璃花子選手のコメントに注目して、考えを深めていく。彼女はレース後に次のような言葉を語った。
ここまでの努力は何だったんだろうと思うし、頑張ってきた意味はあったのかなと、そんな気持ちでいっぱい。自分なりに一生懸命やってきたつもりだったが、何も変わってなかった。本当にいつまで苦しまなければいけないんだろうと思う。
この言葉は、準決勝において全体で12位に終わり、無念の敗退が決まった直後のインタビューで語られたものだ。
池江選手は白血病から見事な復活を果たしたが、パリ五輪では目指していた決勝進出は絶たれ、望んでいたメダルも叶わなかった。そして、「ここまでの努力の意味はあったのか?」という発言に至る。
■池江選手にとっては「報酬=勝利」
ここで彼女が言っている「努力に意味がある」という発言を構造的に捉えてみよう。
「練習を頑張る」というインプット(努力)をすれば、「パリ五輪で勝つ」というアウトプット(報酬)が返ってくる。これが、彼女の発言からうかがえる「努力に意味がある」という状態だ。あえて構造を示すまでもなく、シンプルだ。
しかし、この「意味」という単語はそんなにシンプルではない。なぜなら、多くの人は、おそらく彼女の発言を聞いて「そんなことはない。あなたのここまでの努力には意味があった」と言ってあげたくなったはずだからだ。ここに彼女と私たちが認識する「意味」という単語のズレがある。
実際にインタビュアーも、言葉を選びつつ「培っていたものを出そうとされていました。その姿は私たちに届いたと思います」と言って、努力には意味があったというニュアンスのフォローを入れた。
つまり、彼女とインタビュアー(もしくは私たち)にとって努力の意味は、図表1のようなズレがあるのだ。このズレはどこから来るのか。
■時間差でやってくる報酬もある
それは、努力の意味の中に目標から外れた報酬(副産物)を含むかどうかだ。
そして、もうひとつの観点がある。
彼女のインタビューを聞いて、「この努力は次のロサンゼルス・オリンピックで結果になって返ってくるから、それを信じて頑張ろう」という声をかけたくなった人もいるだろう。そのリアクションからわかる通り、努力のリターンには、「時間」というもうひとつの変数が含まれる。
つまり、努力がもたらす報酬には、「目標との距離」と「時間」という2つの変数が存在するということだ。池江選手がこだわっていたのは、パリ五輪で勝つという「目標通り」「即座」のリターンだ。
しかし、それだけでは努力の報酬を語ることはできない。リターンには「目標から外れたもの」や「時間差でやってくるもの」が含まれているはずだ。
■「努力は報われるか」の答えがすれ違う原因
つまり、努力のアウトプットとしての報酬は「目標との距離」と「時間」を掛け合わせて、次の4つの類型に分けられ、それを構造的に例示すると図表2のようになる。
・池江選手が望んでいたパリ五輪で勝つという「即座の目標通りの報酬」
・インタビュアーが語っていた視聴者に勇気を与えるという「即座の目標から外れた報酬」
・この努力がやがて大会で結果につながるという「時間差で得る目標通りの報酬」
・この努力があったから、たとえば5年後にニュースキャスターに選ばれるという「時間差で得る目標から外れた報酬」
それを改めて整理すると、図表3のようになる。これを見れば、努力論のすれ違いの原因の一端がわかるだろう。
「努力は必ず報われる」と断言する人は、右上の「ゆっくりサプライズ型報酬」まで含めている。
■あえて報酬を絞ることで引き出される力
このように努力の報酬には類型があることは、一度でも真剣な努力をした経験がある人ならわかるはずだ。
当然、池江選手も、ここまでの人生を通じて、直接的な「即達成型報酬」だけを受け取ってきたわけではない。たとえば、2021年にSK-IIのパートナーに選ばれたように「ゆっくりサプライズ型報酬」まで、多様なかたちで努力の報酬を得てきたはずだ。彼女は、ほかの誰よりも努力がもたらす意味の広がりを実感しているだろう。
そうだとしたら、なぜ池江選手は「努力に意味がなかった」と嘆いてしまったのだろうか。それは、ホースの先を絞るほど勢いよく水が出るのと同じで、報酬を限定するほど極限の力を生み出すことができるという法則による。
つまり、多様な報酬を放棄して、「パリ五輪で勝つ」という報酬を明確に定めたからこそ、ギリギリの血の滲むような努力ができるのだ(図表4)。
裏を返せば、「ここで努力したら、ひょっとしたら数年後の副産物としてニュースキャスターになれるかもしれない。だから私、頑張る」なんて邪なことを考えていたら、そこまで努力を重ねることなど無理なのだ。
■バスケ強豪校が敗退、そのとき監督は…
だからこそ、その絞り込んだ報酬を得られなかったとき、いままでの努力は行き場を失ってしまうことになる。
「私は何のために努力をしていたのか?」という心境になってしまうのは、このためだ。
それを客観的に見ている人物は、報酬の多様性を語ることができるだろう。副産物もあれば、時間差を経てやってくる報酬もあるのだと。
しかし、その多様な報酬を否定して努力してきた彼女に対して、私たちができることはただ見守ることである。
有名なバスケットボール漫画『スラムダンク』(井上雄彦著、集英社)では、無敵を誇っていた山王工業がインターハイ2回戦で、まさかの敗退を喫したあとのシーンがたった2コマだけ描かれる。
その2コマで、山王工業の堂本監督は「はいあがろう。『負けたことがある』というのがいつか大きな財産になる」と選手たちに声をかける。とても印象的なシーンだ。
■敗者がやがて手にする「大きな財産」
このとき、堂本監督の言葉は選手たちの耳に入ったかもしれないが、誰もその言葉の意味を理解できなかったはずだ。あれだけ努力したにもかかわらず、報酬を得ることができなかったのだ。「大きな財産などない」と感じたに違いない。
しかし、絶望した選手たちも、やがて耳奥に残っていたこの言葉の意味を理解する日が来る。インターハイで勝つという「即達成型報酬」は手に入らなかったが、時が経ち、この敗戦が人生にプラスに作用する瞬間が訪れる。
そのとき、彼らは時間差で「大きな財産」を手に入れるのだ。そうして、彼らはこの敗戦による報酬を時間差で受け取りながら、堂本監督の言葉の真の意味を理解する。
■それでもアスリートは「即達成型」を目指す
振り返ると、池江選手は2022年3月、オリンピック選考会で本命だった50メートルバタフライで代表内定を逃し、100メートル自由形でも届かなかった。そのときに、Xにおいて次のようなツイートを残している。
努力は必ずしも報われるわけではない。
だけどその努力が報われるまで努力し続ける。
この言葉にも表れている通り、彼女にとって、努力の報酬は常に「即達成型報酬」に絞り込まれている。副産物や時間差のあるリターンを努力の報酬と認めることはない。
そして、もし彼女が副産物などを努力の報酬として受け取るときが来るとすれば、それは彼女がアスリートを辞めて次のステージへと移るタイミングなのだろう。
確かに報酬は多様に存在する。しかし、何かを真剣に望む人は報酬を絞り込まなくてはならない。「努力は報われるのか?」という問いは、客観視している人ほど「報酬」の定義は広く、真剣に頑張る当事者であればあるほど狭くなる。
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荒木 博行(あらき・ひろゆき)
武蔵野大学アントレプレナーシップ学部教授、株式会社学びデザイン代表取締役
住友商事、グロービス(経営大学院副研究科長)を経て、株式会社学びデザインを設立。フライヤーなどスタートアップのアドバイザーとして関わる他、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部、金沢工業大学大学院、グロービス経営大学院などで教員活動も行う。北海道にある株式会社COASや一般社団法人十勝うらほろ樂舎にも関わり、学びの事業化を通じた地方創生にも関与する。著書に『努力の地図』『構造化思考のレッスン』『裸眼思考』『独学の地図』『自分の頭で考える読書』『藁を手に旅に出よう』『見るだけでわかる! ビジネス書図鑑』『世界「倒産」図鑑』『世界「失敗」製品図鑑』など多数。Voicy「荒木博行のbook cafe」、Podcast「超相対性理論」のパーソナリティ。
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(武蔵野大学アントレプレナーシップ学部教授、株式会社学びデザイン代表取締役 荒木 博行)