※本稿は、泉谷閑示『「自分が嫌い」という病』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■家族のしがらみから抜け出せるか
親子関係や家族関係のしがらみは、ともすると目に見えない形で私たちを規定したり束縛したりし続けます。それは、たとえ親元から独立したり、自分の家族を作ったりしても、自動的に解消するわけではありません。
しかし、いつまでもそんなしがらみを引きずっていては、本当の意味で自分の人生が始まりません。本書のテーマである「自分を愛すること」も、そもそも自由な「自分」になっていなければできないことです。
親子関係や家族関係は、ある意味で切っても切れないものではありますが、それを個としての自分が主体的に捉えることによって、この世俗的なしがらみから独立することができるのではないかと思います。しかし、主体になるということは、ムラ的世間で生きてきた私たちにとっては、かなり苦手なことかもしれません。
■親の「期待」の正体は「欲望」
ムラ的な価値観の中では、同質性を求められる同調圧力が強いわけですが、これは同時に、上からの期待に応えなければならないというタテ社会的な圧力も併せ持っています。
そのため、ムラ的な色彩が濃厚な親子関係においては「親の期待に応えなければならない」という考えに直結してしまいます。そんな中で自分が主体的に在ろうとすればするほど、この「親からの期待」がとても窮屈で邪魔なものに思えてくることになります。
この「期待」という言葉は、一般的には良いイメージで捉えられていることが多いようですが、この言葉の綺麗なイメージに惑わされてはなりません。
よくアスリートがインタビューで、「応援して下さる皆様の期待に応えられるように頑張ります」とか「国民の皆様の期待に応えられて嬉しいです」といった発言をされるのを見ますが、もし彼らが多くの人たちからの「欲望」に応えなければと思っているのだとしたら、それはどこか気の毒な感じもします。
しかし、実際にこのような発言が少なくないのは、それがムラ的世間の求めているものに適(かな)うからなのでしょう。
■誰かのためではなく自分のために生きる
さて、「自分を愛せない」という問題を抱えている方たちが徐々に変化し、主体としての意識が育ってくると、「自分の思っていることを大事にして良かったんですね」「自分のために生きて良いんですね」といった発言が、喜びの表情で語られるようになります。
これを裏返して見れば、いかに彼らが長いこと「自分の思っていることなんて、大事にするに値しない」「自分は親や周囲の期待に沿うように生きなければならない」などと思い込まされていたのかが分かります。
このように思い込まされてきた人は、それまで生きているようで生きていない状態にあったと言えるでしょう。近年過熱ぎみになっている幼児教育や習い事、そして受験準備や親による過干渉などによって、子どもたちは自分の主体性が育つ暇いとまが与えられていない状況に置かれています。
それらの押し付けられたものに対して「やめたい」「やりたくない」「行きたくない」といった形で表明される主張も、親の圧力によって容易にその芽を摘み取られてしまいます。そうして主体が育っていない状態のまま大人になってしまうのです。
■親から生まれたが親の所有物ではない
そういう成育史を持つ人たちが社会人になってから、あるところでちょっとしたことにつまずいて、前に進めなくなってしまうケースも珍しくありません。それは、うつ病や適応障害などの形で顕在化することが多いのですが、この状態に対して抗うつ剤などによる薬物療法をいくら行なっても本当の改善は見込めません。
そもそも、仕事や生きることについてのモチベーションが枯渇してしまったのは、それを生み出す母体となる主体性が育っていなかったことによるものなので、それは薬によってどうにかなる問題ではないからです。
本書のテーマである「自分を愛せない」という問題の底にも、この「主体としての自分が育っていない」という、より根本的な問題が潜んでいることが多いのです。そういうケースにおいて必要な治療は、修理としての治療ではなく、主体の再育成です。
そのためには、まず「期待」という巨大な重石(おもし)を退けること、そしてその下の土壌から主体性がゆっくり発芽してくるのを見守って、それがたくましく育つように援助することが求められるのです。
当たり前のことですが、自分の人生は自分自身のものであって、親や誰かのものではありません。そしてこれが基本的に守られるべき個の尊厳であり、主体として在るための大前提なのです。
■「親に愛されなかった」と嘆く人たち
私はこれまで、実際の臨床において数多くの自己愛不全の問題を扱ってきましたが、その中のかなり多くを占めるのが、ロゴスが機能していない親が原因になっていると思われるケースです。
ここでいうロゴスとは、私たちが暗黙の了解で「人間ならばこう考えるだろう」「人間ならばこう思うだろう」と前提にしているものを指しています。つまりロゴスとは、人間が人間たる前提として共有しているもののことです(詳しくは、拙著『なぜ生きる意味が感じられないのか』(笠間書院)を参照のこと)。
ロゴスなき親の下で育った方たちから、「親は、基本的に私に関心がないようだった」「分かりやすい成果を挙げたときだけは褒めてくれるけど、それ以外の時には私に無関心だった」「私の気持ちなどまったく考えてくれていないようだった」「見かけ上、学校に行ってさえいればOKで、それ以上の関心は向けられなかった」「私の存在自体が認識されていないように感じた」といった話をよくうかがいます。
そしてそれは、「私は親に愛されなかった」という認識につながり、「私は愛されるに値しない存在なのだ」という自己否定が生じます。
■「ロゴスがない」=「愛する能力がない」
このような「自分は愛されるに値しない人間だから、親にすら愛されなかったのだ」という受け取り方は、その人の最もベーシックな自己認識に頑固に刷り込まれてしまっていることが多いのですが、これをいかにして取り外すことができるでしょうか。
まずは、「自分の親にはロゴスがなかった」という認識をはっきり持つことから始めなければなりません。「ロゴスがない」ということは、「愛する能力がない」ということでもあります。「ロゴスがない」親は、その精神が自閉的構造になっているので、自分しかいないような世界に生きている状態にあります。ですから、「人を愛する」という「心」の働き自体が生じ得ないのです。
ここで紛らわしいのは、人を欲望の対象にしたり、自分の一部のように捉えて執着したりという「頭」の作用はあるので、それが場合によっては「愛」のように見えることもある点です。これを見分けるポイントとしては、そこにこちらの独立性や独自性を尊重する視点があるのか否か、こちらの挙げた成果の有無にかかわらず、こちらの存在そのものへの関心が感じられたかどうか、といったことがあるでしょう。
■「私が悪い」という自己否定からの脱却
さて、このように検討してみて「自分の親にはロゴスがなかった」と認識できたとすれば、それはすなわち、「自分の親には、人を愛する能力がなかった」ということになり、そこから、「自分が愛されなかったのは、親の問題だったのであって、私の問題ではなかった」ということに至ります。
このような認識の書き換えをしっかりと行なうことが、自己否定の除去には欠かせないのです。つまり、「愛の不在」について、自分の側の問題として解釈してきた誤りに気づき、親の「愛の能力の欠損」としてきちんと捉え直すことが必要なのです。
しかし、このような「親に愛されなかった」という苦悩について周囲の人にそれを嘆いた場合に、よく「子どもを愛していない親なんているはずがない。あなたのためを思っての厳しさなんじゃない?」「あなたが親に求めすぎなんじゃない?」「だって、あなたのことをちゃんと良い学校にも行かせてくれたし、何不足なく育ててくれたんだから、親に対してそんなこと思っている方がおかしい」「いい歳して、まだ反抗期やってるわけ?」といった心無い言葉を浴びせられてしまうことも少なくないようです。
■「幸運な人たち」とは一定の距離を置く
ロゴスある親元で育ち、親の愛というものを疑わずに生きてこられた「幸運な人たち」が、このような心無い綺麗事を疑いもなく口にするわけです。
つまり、世にはびこる「うるわしき家族幻想」は、「幸運な人たち」にとっては疑いようのない真実に思えるものなので、よほど知的な包容力がなければ、それに反する事実を受け入れることができないのです。
ですから、「愛する能力が欠損」した親が存在するという事実を直視できない人たちに、決してそれによる苦悩を打ち明けてはなりません。もし、打ち明けてしまったことで二次被害に遭ってしまった場合には、静かに、その人との関係に一定の距離を置く必要があります。その種の楽観的家族観によってこれまでも十分に傷つき、自己否定せざるを得なかったのですから。
一日でも早く、この種の「うるわしき家族幻想」が、正しく現実を直視する知性によって、見直されなければならないと私は考えます。
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泉谷 閑示(いずみや・かんじ)
精神科医・作曲家
1962年秋田県生まれ。東北大学医学部卒。精神療法専門の泉谷クリニック(東京/広尾)院長。企業や一般向けの講演、国内外のTV出演など精力的に活動中。著書に、『「普通がいい」という病』『反教育論』(講談社現代新書)、『あなたの人生が変わる対話術』(講談社+α文庫)、『仕事なんか生きがいにするな』『「うつ」の効用』(幻冬舎新書)、『本物の思考力を磨くための音楽学』(yamaha music media)など多数。最新刊に『なぜ生きる意味が感じられないのか』(笠間書院)がある。
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(精神科医・作曲家 泉谷 閑示)