本来いないはずの生き物が日本まで生息範囲を拡大させる事案が増えている。そのひとつが、デング熱を媒介する蚊だ。
医師の谷本哲也さんは「日本の都市部や人気観光地でも、デング熱の発生は現実的なリスクだ。すでに2014年に国内で集団発生もしており、インバウンドの爆発的な増加とともに、国内での再発生は時間の問題」という――。
■都市と観光地に潜む新たな感染症リスク:東京に迫るデング熱
デング熱――かつては、東南アジアや南米など高温多湿の熱帯地域に限られた風土病と考えられていました。それがいまや、日本を含む温帯地域でも脅威となりつつあります。
その背景には、ポストコロナの世界的な人の移動の増加に加え、気候変動による気温の上昇や極端な気象現象の頻発があります。気温が上昇することで、デング熱を媒介する蚊の生息範囲が拡大し、感染リスクがかつてないほど高まっているのです。
今や、日本の都市部や人気の観光地でも、デング熱の発生は現実的なリスクとなっています。東京都心部では、実際に2014年にデング熱の国内感染が集団発生しましたが、コロナ後のインバウンドの爆発的な増加とともに、国内での再発生は時間の問題と考えられます。海外で感染して入国してから診断される輸入症例も年間数百人に増加傾向です。
■蚊に刺されてうつるデング熱とは?
デング熱は、デングウイルス(DENV)によって引き起こされる感染症です。このウイルスにはDENV-1からDENV-4までの4つの型(血清型)があり、主に日本では定着していないネッタイシマカ(Aedes aegypti)やヤブ蚊として日本に広く生息するヒトスジシマカ(Aedes albopictus)といった蚊を通じて人から人へと感染が広がります(人から人への直接的な感染はありません)。感染者(無症状者を含む)を吸血した蚊が、別の人を吸血して感染を広げる恐れがあるのです。

一度感染すると、その型に対する免疫は得られますが、他の型には効きません。むしろ他の型で二度目以降の感染を起こした場合、「抗体依存性感染増強(ADE)」と呼ばれる免疫の作用によって、病気が重症化しやすくなることが知られています。ADEは、免疫システムが一度感染した型のウイルスに対して抗体をつくったものの、別の型のウイルスには効果が乏しい抗体が逆に感染を助けてしまう現象です。
蚊に刺されて感染してから発症までの潜伏期間は4~10日程度です。症状が出ない人もいますが、発症すると、突然の高熱、目の奥の痛み、激しい頭痛、筋肉や関節の痛み、発疹、吐き気、倦怠感などの症状が現れます。逆に、喉が痛い、鼻水や咳があるといった、いわゆる風邪症状の所見はデング熱では少ないとされます。
デング熱は突然の高熱や発疹などが特徴ですが、医学的にはチクングニア熱、ジカウイルス感染症、麻疹、インフルエンザなどとの鑑別が必要です。特にジカ熱は妊婦への影響があり、チクングニア熱は関節痛が強く長引く傾向があります。海外で蚊に刺されて心配、という場合などは渡航先での旅行歴や活動状況、症状の経過を詳しく医師に伝えるとよいでしょう。
デング熱の経過は「発熱期」「重症期」「回復期」の3段階に分かれます。多くの方は1週間ほどで回復しますが、中には「デング出血熱」や「デングショック症候群」といった重篤な状態に進行し、命に関わる場合もあります。
特に発症後4~6日目ごろに訪れる重症期では、血管から体内の組織へ血漿が漏れ出すことがあり、注意が必要です。
お腹の痛み、持続する嘔吐、出血傾向などが見られた場合は入院が必要になります。特に小児や高齢者、再感染者では注意が必要です。
デング熱の診断のためには、臨床症状の観察に加えて免疫力の測定などが行われます。ただし、デング熱診断の特殊検査は日本の一般の医療機関では日常的には行っておらず、また疑わなければ検査をすることもないため、新たに日本で発生した場合は対応が遅れがちになると予想されます。
いずれにせよ、現時点ではデング熱に対する特効薬はなく、治療は基本的に対症療法が中心です。解熱剤や十分な水分補給、安静が基本です。アスピリンやNSAIDsなど出血を助長する薬剤は避け、アセトアミノフェンが推奨されます。重症例では、入院による点滴や全身管理が必要になります。
■温暖化で北へ広がる感染症
デング熱はすでに世界100カ国以上で常在化しており、毎年最大で数億人が感染していると見積もられています。とくに懸念されているのが、気候変動にともなう感染地域の拡大で、世界的にも感染者報告数が増加傾向にあります。
研究によると地球温暖化により、デング熱の感染を媒介する蚊の生息に適した環境は、今後さらに拡大すると予測されています。日本でも、東京の夏の気温はすでに熱帯と同程度となっており、ヒトスジシマカの活動期間が長くなっています。

アフターコロナの2024年には日本を訪れた外国人観光客が3687万人に達し、2025年には4000万人超が見込まれています。デング熱は、症状が出ない「不顕性感染」が全体の8割にも及ぶとされています。海外からの外国人旅行者、さらには海外から帰国した日本人が無症状のまま国内にウイルスを持ち込む可能性は高まっていると言えるでしょう。
海外でウイルスに感染した方が国内で蚊に刺されることで、国内での感染サイクルが生まれます。冒頭にご紹介にしたように、2014年には東京・代々木公園で約160人におよぶデング熱の集団感染が、国内では69年ぶりに確認されました。これは、感染した海外からの入国者と都内に生息する蚊との接点が生じた実例です。インバウンドによる経済的メリットは大きいのですが、その裏で感染症のリスクも高まっているのです。
■蚊対策:最前線の予防法
デング熱にかからないためには、公園などでヤブ蚊に刺されないことが何よりの予防法です。ヤブ蚊は、お昼前後の暑い時間帯は活動が少なくなりますが、朝方や夕方にかけて活発になります。この時間帯は注意が必要ですが、公園などでも道の真ん中で歩けばヤブ蚊はあまり寄って来ません。
ヒトスジシマカと呼ばれるヤブ蚊は、胸の中央に白い一本の縦線が通っており、「ヒトスジ(一本筋)」の名前の由来となっています。脚にも白黒の縞模様があり、全体的にスタイリッシュな見た目をしています。
体長は約4~5ミリと小さく、人の足元などを静かに狙って吸血します。ヤブや植え込み、公園などの緑の多い場所に待ち伏せして潜んでおり、水たまりや空き缶にたまった水など、ごく小さな水場にも産卵します。
ヤブ蚊に遭遇する場所や時間帯は肌の露出を避け長袖・長ズボンを着用する、虫よけスプレーや蚊取り器を使用する、住居や生活周辺のたまり水をなくし蚊の繁殖を防ぐ、といった基本的な対策が有効です。
東京都では2014年の集団感染以降、毎年6月を「蚊の発生防止強化月間」として、啓発ポスターやリーフレットの配布、モニタリング調査などを実施しています。なお、家の中に入ってくるアカイエカはデング熱を媒介しないので、家で寝ている時に蚊に刺されたといった場合、通常は心配しないでよいでしょう。また、海外へ渡航される方は、現地の最新情報を確認し、デング熱の流行地域の情報を押さえておくのがお勧めです。
屋外での蚊よけには、肌に直接塗る塗布型が最も効果的です。代表的な成分はディート(DEET)とイカリジンで、どちらも蚊の感覚器官を撹乱し、近づくのを防ぎます。ディートは高い効果を持ちますが、濃度によって持続時間が異なります。また、6カ月未満の乳児には使用できず、12歳未満での使用にも制限があり使い方に注意を要します。
一方、イカリジンは肌への刺激が少なく、敏感肌や子どもにも使いやすい特徴があります。虫が集中しやすい足首や手首、首まわりなど露出部分を中心に、均一に塗ることがポイントです。
また、汗や水で効果が薄れるため、必要に応じて塗り直すことも大切です。
近年、海外ではいくつかの有望なデング熱予防ワクチンが登場しています。接種前に抗体検査をして過去に感染歴がある人に限って推奨されるワクチンが最初に開発されました。この場合、未感染の人が接種すると、逆に重症化のリスクが高まることが判明しています。また、過去の感染歴がなくても接種できるワクチンも最近開発され、東南アジアなどで導入が進んでいます。日本ではいずれのワクチンもまだ一般に導入されていませんが、今後は高リスク地域への海外渡航者では、事前に専門のトラベルクリニックでワクチン接種する時代になるでしょう。
さらに、近年では「ウォルバキア(Wolbachia)」という細菌を用いた新たな蚊の繁殖抑制技術も登場しています。この細菌に感染した蚊はウイルスを媒介しにくくなり、野外での蚊の数を大きく減らすことができます。インドネシアやブラジルでは、この方法でデング熱の発生が大きく減少したと報告されています。
■デング熱は気候病である
デング熱は、単なる熱帯の感染症ではなく、気候変動が健康に及ぼす影響を象徴する「気候病」です。地球温暖化、都市化、国際観光などによる人流の増加、そして脆弱な公衆衛生体制といった因子が重なると感染の危機が高まるのです。
最近の研究では、2020年生まれの子どもの92%が、生涯に前例のない熱波を経験する可能性があるとされ、熱帯病が温帯地域でも常在化するリスクが高まっています。
感染症対策と気候対策は切り離せません。ワクチンや医療体制だけでなく、都市設計や環境政策とも連携して取り組む必要があります。個人としてヤブ蚊対策を行うだけでなく、地域社会や政策レベルでも、気候変動に対応した防疫インフラを整備し、感染症への備えを進めることが求められています。
デング熱は、もはや遠い国の病気ではありません。沖縄では通年の高温多湿環境により、通年感染が成立する可能性が指摘されており、ハワイでは過去に何度も局地的な流行が起きています。潜伏期間中の無症候感染者が蚊に刺されると、都市内での「人→蚊→人」感染サイクルが成立してしまいます。感染症対策と観光政策の両立は、これからの日本社会における重要な課題となるでしょう。
しかし、正しい知識と準備があれば、デング熱を過剰に恐れる必要はありません。気候が変われば感染症もまた変わりますが、それに柔軟に対応する私たちの行動が、未来の都市と暮らしの安全を守るのです。

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谷本 哲也(たにもと・てつや)

内科医

鳥取県米子市出身。1997年九州大学医学部卒業。医療法人社団鉄医会理事長・ナビタスクリニック川崎院長。日本内科学会認定内科専門医・日本血液学会認定血液専門医・指導医。2012年より医学論文などの勉強会を開催中、その成果を医学専門誌『ランセット』『NEJM(ニューイングランド医学誌)』や『JAMA(米国医師会雑誌)』等で発表している。

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(内科医 谷本 哲也)
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