■なぜ独身を通してきたか
恋愛と結婚とは全く別のことだと思う。
むしろ、“結婚は恋愛の墓場”というのは当たっている。結婚すると緊張もなくなり、双方安心してしまうので、もはや燃えるものはない。
結婚によって“家”を守るために、しきたり通り子供をつくる。それによって老後の“保障”を得ようなどとは、すべて卑しい感じがする。
とかく妻子があると、社会的なすべてのシステムに順応してしまう。たった一人なら、うまくいこうがいくまいが、どこで死のうが知ったことではない。思いのままの行動がとれる。
家族というシステムによって、何の保障もされていないことが、真の生きがいであると思う。だからぼくは自由に独身を通してきたのだ。
これを女性の側に立っていえば、“ほんとうはこっちの人が好きなんだけど、社会的には偉くなりそうもないし、あの人と結婚すれば、将来の生活が安心だから……”などという結婚は、極端に言うと一種の売春行為である。
そして、そういう安定の上に、ドテッと坐りこんでしまった女は、もはや“女”ではない。
■運命的な出会いとは何か
結婚する相手と出会うことだけが、運命的な出会いだと思っている人が多いようだが、運命的出会いと結婚とは全然関係ない。
たとえ、好きな女性が他の男と結婚しようが、こちらが他の女性と結婚しようが、それはそれだ。結婚というのは形式であり、世の中の約束ごとだ。ほんとうの出会いは、約束ごとじゃない。たとえば極端なことを言えば、恋愛というものさえ超えたものなんだ。つまり自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手のなかに自分自身を発見する。
それが運命的な出会いというものだ。
たとえ別れていても、相手が死んでしまっても、この人こそ自分の探し求めていた人だ、と強く感じとっている相手がいれば、それが運命的な出会いの対象だと言える。
必ずしも相手がこちらを意識しなくてもいいんだ。
■結婚するとお互いがだらけてくる
“結婚は人生の墓場だ”と言った方がいいかもしれない。世の中の、多くの結婚している男女を見ても、そう思うことが多い。“結婚は恋愛の墓場”と言うが、しかし、よく考えてみれば、実際にある意味では結婚は人生の墓場だ。またそういう方がアイロニーがあって面白い。
というのは法律上、結婚して夫と妻に安定してしまうと、お互いがだらけてくる。
亭主は亭主という座におさまり、妻は妻というポジションにおさまって、純粋な意味での男と女のぶつかり合いがなくなってしまう。近頃は日本でも離婚のケースが増えてきているけれど、それでも離婚を実行するのには大変な決意とエネルギーが必要だ。それに周囲や世間がうるさいから、互いに相手に不満があり、あきてしまっても、そのまま結婚という形態をつづけているという夫婦が多いだろう。そうなると、お互いが無責任になって、夫と妻の心が互いに離反しているんだ。
現実には世の夫婦の多くがそうなんじゃないだろうか。結婚した以上、しようがないとか、子供のために諦めるというように、心に不満を抱いたまま仕方なく夫婦という生活形態だけを存続している。
■密着しながら離れている関係
結婚が“人生の墓場”にならないために、夫婦はどのような気持ちの持ち方をしていけばよいか。
夫婦である以前の、無条件な男、女であるという立場。新鮮な関係にあるようにしていかなければ一緒にいる意味がない。密着していると同時に離れている、純粋な関係を保っていく必要がある。
これは非常にむずかしい。結婚という枠にとらわれないで、つねにお互いが出会ったときのような気持ちで触れあっていれば、いい意味での相互の発見がある。互いがそういう気持ちでいれば、たとえ別れることになっても、気持ちよく離婚することができる。
よくお互いに仕事を持っていれば、夫婦がつねに新鮮でいられる、という人がいるけれど、仕事を持つ、持たないというより、気持ちの問題だ。仕事を持っていたって、共同生活しているんだから、一緒にいる時間は恋愛期間中よりもずっと多いはずだ。たとえば、休日は朝から一緒だろうし、夕食だって一緒に食べることが多いだろうし、恋愛中だったときのほうが、お互いに会える時間もずっと少なかったはずだ。そのときのほうがお互いの気持ちが新鮮で、スリルがあっただけ、もっと理解しあっていたかもしれない。
では、夫婦がいつも新鮮な気持ちでいるためにはどうしたらいいかと言うと、最も親密な相手であると同時に、お互いが外から眺め返すという視点を忘れてはいけない。
■「タロー、ちょっとお散歩していらっしゃい」
リュシエンヌはいつもよく本を探しに行った書店の売り子だった。ラテン系の典型のような整った顔だち。小柄だが、いつも趣味のよい、シックな装いで、身のこなしにも気品があった。かなり専門的なむずかしい本について相談をもちかけても、てきぱきと的確に応じてくれる。
しょっちゅうその本屋に入りびたっているうちに、自然と彼女と親しくなり、とけあうようになった。
一緒に暮したのは四、五カ月だったろうか。彼女は夕方帰ってくると、「タロー、ちょっとお散歩していらっしゃい。ついでにワインを買ってきてね」などと、何か適当な口実をつけてぼくをアトリエから追い出す。キャフェでちょっと友達と話したり、頼まれた買いものをしたり、頃合を見て部屋に帰ると、あたりはきれいに片付いていて、リュシエンヌは服を着替え、お化粧も直して、昼間、店で働いているときよりずっと女っぽい、やわらかい雰囲気で迎えてくれるのだ。
■何でもぶちまけていいわけではない
「お掃除しているところなんて、あんまり見てもらいたくないわ」と彼女は言っていた。
いま共働きの女性にこんな話をすると、女に一方的に負担を押しつける、と怒られるかもしれないが、ぼくは男が亭主関白で何もしないのがいいと言っているのじゃない。
しかしそれは何でも洗いざらい見せてしまい、ぶちまけていいということではないと思う。
愛する男にはいつでも花のように、優しくほほ笑んで、チャーミングな女として向かいあいたいというリュシエンヌの美学、心意気をぼくは尊重したし、嬉しく思った。
結婚してもお互いが嬉しい他者であり、同時に一体なんだ。夫婦になる以前の新鮮かつ無条件な男と女としてのあの気持ちを忘れないことが大事だ。
----------
岡本 太郎(おかもと・たろう)
芸術家
1911年生まれ。29年に渡仏し、30年代のパリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参画。パリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、ジョルジュ・バタイユらと活動をともにした。40年帰国。戦後日本で前衛芸術運動を展開し、問題作を次々と社会に送り出す。51年に縄文土器と遭遇し、翌年「縄文土器論」を発表。70年大阪万博で『太陽の塔』を制作し、国民的存在になる。
----------
(芸術家 岡本 太郎)