「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんが亡くなった。なぜ長嶋さんは国民的なスター選手になれたのか。
元ラグビー日本代表で成城大学教授の平尾剛さんは「たくさんの人が、長嶋さんとスポーツがもたらす喜びや悔しさ、感動を分かち合った。記録や数字には表れないスポーツの魅力を体現した人物だった」という――。(取材・構成=ノンフィクションライター・山川徹)
■三振でもファンを沸かせた長嶋茂雄
記録ではなく、記憶に残る男――。先日、逝去された長嶋茂雄さんはよくそう評されます。
実は、ぼくも長嶋さんの現役時代を知りません。ただし、過去の映像を見ると、魅せることを強く意識した選手だったのはわかります。
たとえば、三振するにしてもヘルメットが飛んでしまうくらい大きな空振りをする。守備でも大げさなほどダイナミックな動きで、ボールを処理する……。観客やファンを常に意識して一挙手一投足に気を配ったからこそ、プレーだけではなく、立ち居振る舞いや言葉が、多くの人の記憶に刻まれ、人柄も愛された。観戦したファンは、巨人が負けたとしても長嶋さんの三振や、笑顔を見られれば、満足できた。
長嶋さんが現役を引退して半世紀以上が経ちました。
それでも、ぼくは、長嶋さんに匹敵するようなスケールの大きな国民的なスポーツ選手は登場していないと考えています。

そう話すと、大谷翔平選手はどうなんだ、と反論する人もいるかもしれません。もちろん大谷選手が国民に愛される偉大なアスリートだということに異論はありません。しかし多くの人が熱狂しているのは大谷選手の記録や成績に対してなのではないでしょうか。
のちの世に、大谷選手が語り継がれるとしたら、2年連続MVP、日本人初のMLBホームラン王、二刀流などの突出した記録や、実績なのではないかと思います。
■記録とダイジェストでスポーツを楽しむ現代人
連日、メディアは、大谷選手を登場させて〈第何号〉〈史上初〉という見出しで数字やデータを報じています。多くの人がメディアで目にするのは、プレーのダイジェスト。そのスポーツの面白さや、魅力が隠されている行間や余白をじっくり観戦する機会が減ってしまっています。
知らず知らずのうちに、スポーツを見る目が貧しくなっている。記録とダイジェストだけの現代のスポーツジャーナリズムなら、長嶋さんの三振や、守備はカットされてしまっていたはずです。
スポーツが高度化し、技術が発達し、球速や打率だけではなく、打球速度、スウィングスピードなどの数値に注目が集まり、一つひとつの数字に一喜一憂する。プレーやパフォーマンスを実際に見ずとも、スマホで勝敗や結果を確認し、満足する人も少なくありません。それは野球に限らず、多くのプロスポーツに共通する現象といえます。

■「長嶋茂雄」が老若男女をつないでいた
対して、長嶋さんの現役時代はどうだったでしょう。
令和のスポーツと異なる2つの点に注目してみます。
それが、スポーツの多様化とSNSの発達。
「巨人、大鵬、卵焼き」
戦後の高度経済成長期に大衆が好んだものを表す言葉です。巨人を象徴する選手が長嶋さんで、大相撲を代表する横綱が大鵬でした。また力道山も多くの人々が応援したスターレスラーでした。
乱暴に言ってしまえば、人々が熱狂でき、テレビ中継で見られるスポーツは、プロ野球、相撲、プロレスくらい。娯楽が少ない時代だったから、多くの国民が長嶋さんのプレーに目を凝らし、キャラクターを身近に感じたわけです。
居酒屋や学校で誰かが「長嶋が……」と口にすれば、プレーや勝敗をみんなが共有しているから、話題が広がっていった。長嶋茂雄という野球選手が、プロ野球というスポーツが、老若男女をつなぎ、人々のコミュニケーションを活発にする役割を果たしていたのです。
■令和に「長嶋茂雄」という物語は生まれなかった
しかし日本が経済的に豊かになり、社会に余裕ができるとスポーツの受け止め方が変わりました。
1993年のJリーグ発足をきっかけに、バスケットボール、ラグビーなどのたくさんのスポーツがプロ化されました。
さらには同じ野球でも多くの日本人選手がMLBに挑戦しました。その結果、ファンの楽しみが多様化し、分散されて、それぞれが高度に専門化していきました。
拍車をかけたのが、SNSの発達です。誰もが写真1枚でスポーツの面白さや魅力を伝えられるようになりました。それ自体は素晴らしいことですが、その弊害として、スポーツを語る言葉が必要なくなってしまった。人と人とを結びつけるスポーツの力が弱まってしまったのです。
これはタラレバですが、長嶋さんや大鵬、力道山がもしも現代にいたら、SNSで炎上し、誹謗中傷にさらされたりしたかもしれません。現代なら、国民がかつて共有した長嶋茂雄という物語は生まれていなかった可能性もあります。
■「世代を超えた共感」が生まれなくなった
スポーツファンにとっては、競技の多様化や専門化も、SNSの発達も、歓迎すべき変化です。昭和の時代とは比較にならないほど恵まれた環境ともいえます。
反面、たくさんの人が思いを託せるスーパースターが誕生しにくくなりました。バスケットファン同士は選手やプレーの話で盛り上がれるけれど、サッカーファンやラグビーファンとは共通のトピックが見いだせない。

もともとスポーツを愛する人の広く大らかなコミュニティが、狭まって分散化し、ファンたちもスポーツやアスリートの価値をわかりやすい数字や結果で判断するようになった。それが、世代を超えて共感し、たくさんの人々が共有できる物語を、ひとりのアスリートやスポーツ選手が紡ぐのが、難しい時代になった原因かもしれません。
■スポーツ選手の代わりを担うフィクション作品
その象徴のひとつだと感じたのが『SLAM DUNK』です。
先日、大学の講義で、学生にコミュニケーションペーパーを提出してもらいました。そのなかに『SLAM DUNK』について書いた学生がいました。『SLAM DUNK』の連載が終了してから、もうすぐ30年。リアルタイムで読んだのは、学生の親世代ですが、いまも読み継がれ、劇中の名言が日常でも使われて、映画などで新たな展開を見せている。
それは、ひとりのスポーツ選手が世代を超えて共有される物語を紡ぐのが難しくなった代わりに、フィクションによってスポーツの魅力が描かれ、時代を超えて愛されている証左なのではないか……そんな気がしました。
一方で訃報を知ったあと、講義で長嶋茂雄という野球選手について学生に尋ねてみました。二十数人の受講生のうち、知っていたのはわずか数人。そのうちの何人かは長嶋一茂さんのお父さんという認識でした。それでも長嶋さんのプレーや人柄、彼らが活躍した時代について話すと、学生たちは興味深そうに耳を傾けてくれました。

現役時代や監督時代を記憶する世代にとって、いまも長嶋さんは特別な存在です。日本のスポーツの、昭和という時代の象徴だと語る人もいるほどです。
■記録や数値に表れないスポーツの魅力を次の世代につなぐ
思い出すのが、サザンオールスターズの桑田佳祐さんが歌う「栄光の男」。長嶋さんについてこんな歌詞があります。
〈立ち喰いそば屋のテレビが映してた シラけた人生で生まれて初めて割箸を持つ手が震えてた 「永遠に不滅」と彼は叫んだけど〉
引退シーンを見た主人公は、長嶋さんに自分の人生を重ね合わせようとして、自分は彼のようには生きられない、自分は一体何をしているのか、と自問する。現実にも、そうした人が大勢いたのではないでしょうか。
さらに「栄光の男」には次のような歌詞もあります。
〈喜びを誰かと分かち合うのが人生さ〉
たくさんの人が、長嶋さんとスポーツがもたらす喜びや悔しさ、感動を分かち合った。だからこそ、長嶋茂雄という希有なスポーツ選手が、たくさんの人生を彩り、多くの人の記憶に刻まれた。
しかし令和の若者には、その記憶がありません。
だとしたら、長嶋さんの活躍や人柄を知る人たちが、語り継いでいくしかない。それが、スポーツの楽しみを素朴に味わえた時代を、もっと言えば、記録や数字には表れないスポーツが持つ本当の魅力を、次の世代につなぐことになると思うのです。


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平尾 剛(ひらお・つよし)

成城大教授

1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。神戸親和大教授を経て現職。スポーツハラスメントZERO協会理事。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)、『スポーツ3.0』(ミシマ社)がある。

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(成城大教授 平尾 剛 取材・構成=ノンフィクションライター・山川徹)
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