1992年、広島のゲーム会社「コンパイル」の仁井谷正充さんは、パズルゲーム「ぷよぷよ」を開発、発売した。現在に至るまでシリーズ累計1000万本の大ヒット作品となる一方、会社は98年に倒産する。
何があったのか。読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた書籍『「まさか」の人生』(新潮新書)より紹介する――。(第3回)
■大ヒットゲーム「ぷよぷよ」を生んだ広島の会社
終業後の社内は沸き立っていた。社員たちが深夜になっても帰宅せず、発売間近のゲームソフトに興じている。普段は関心のない女性社員も夢中で指を動かしていた。
1992年12月、広島市のゲーム会社「コンパイル」。初めて見る光景に、社長の仁井谷正充さん(当時42歳)は自信を深めた。「1000年先も楽しめるゲームができた」。それこそが、シリーズ累計で1000万本を売り上げるパズルゲーム「ぷよぷよ」の改良版だった。
落ちてくるスライム「ぷよ」の同じ色を4個つなげて消していく。親しみやすいキャラクターと簡単なルール、消滅が連鎖した時の爽快感は、幅広い世代の心をつかんだ。
会社の売上高は97年3月期、過去最高の約70億円に達する。
そのわずか1年後だった。会社は「ぷよ」のようにはじけ、そして消えた。
■従業員約50人の地方の会社でもできる
誰もが知るヒット作は、社長の一言から生まれた。
「『落ちゲー』を狙います」。1990年夏、東京都内の飲食店。仁井谷さんは、ゲームメーカー幹部に宣言した。
落ちてくる物体を消していくゲームは、「落ちゲー」と呼ばれる。前年に発売された任天堂のゲームボーイ版「テトリス」は爆発的な人気を呼び、世界で3000万本を売り上げた。
作りは単純で開発費も安い。従業員約50人の地方の会社でも、アイデア次第で勝負できると考えた。「周りで見ている人も引き込まれる仕掛けを考えてほしい」。5人ほどの開発陣に指示した。

社員の提案で主役にはスライムの「ぷよ」が選ばれた。過去に自社で作った「魔導物語」に登場するキャラクターの転用だった。
「開発陣はみんなオタクだから、かわいいものが好き。『面白い。いいじゃん』と思った」。新たなキャラクターを作るには、開発費と納期までの時間が足りないという事情もあった。ゲーム名は「ぷよぷよ」に決まった。
■あえてマイナーな機種で販売する
斬新な要素も加わった。違う色を連続して消滅させる「連鎖」に成功すると、対戦相手側にプレーを妨害する物体が落ちてくる仕掛けを入れた。「形勢が一気に逆転し、周囲で見守る人も目が離せなくなる」と踏んだ。
社員だったプログラマーの広野隆行さんは「社長は社員のアイデアを否定したり、自分の考えを押しつけたりしない。現場の創造力を信頼し、任せてくれた」と話す。

販売戦略も周到だった。1作目の発売前、社員に告げた。「あえて市場規模の小さい所を狙う」。ゲーム雑誌ではゲーム機種ごとに売り上げ上位のソフト名が掲載されていた。まずは競合相手が少ない機種用に発売し、ランキングの上位に載せてソフトや会社の知名度を高める狙いがあった。
作戦は当たった。91年10月に発売された任天堂のディスクシステム用の1作目は、思惑通りに売り上げを伸ばしていった。注目度が上がり、改良版の開発につながった。
「もっと引き込まれる要素を入れられるはずだ」。そう社員に求めた。
92年12月発売の新作では、人間や魔物など個性豊かなキャラクターが新たに加わり、女の子も数多く登場した。合間にキャラクター同士の寸劇が入り、連鎖が起きると、「ファイヤー」「ばよえ~ん」といった声も出るようになった。

■自称「広島のビル・ゲイツ」
同シリーズは、テトリスに次ぐ「二匹目のどじょう」をつかむ。「高橋名人」として知られるゲームプレゼンターの高橋利幸さんは言う。
「人間は本能的に柔らかいものに親しみを持つ。『ゲームは男の子のもの』という考えを取り払い、女性もとりこにしたのが、画期的だった」
人気は過熱する。広島県大野町(現・廿日市市)で94年12月、キャラクターをかたどったまんじゅう「ぷよまん」を売り出すと、約300人が列を作った。自身も宣伝活動の前面に立ち、キャラクターのコスプレでテレビやイベントに登場した。「広島のビル・ゲイツ」。米マイクロソフトの創業者に例え、そう自称することもあった。
■子供のころの夢はノーベル賞
広島県三原市出身。数学が得意で科学者になってノーベル賞を取るのが夢だった。68年に広島大学理学部に入学したものの、学生運動にのめり込み、7年間在籍した大学を除籍される。地元の広島電鉄に入社した後も、成田空港の反対闘争に参加した。

会社を辞めざるを得なくなり、28歳で実家に戻った。両親は「働け」とは言わない。「何か欲しいものはないか」。ある日、父親から尋ねられた。「アップルII」と答えた。
米アップルが発売した当時最新のマイクロ・コンピューター。周辺機器も含め約50万円もしたが、理由も聞かずに買ってくれた。「『息子にやり直してほしい』との思いだったのだろうが、『遊び道具を手に入れてラッキー』としか思わなかった」
その出会いが、人生を変える。専門誌を見ながら、2カ月かけてボウリングゲームを作った。「頭をフル回転させ、思い通りに操作できるようプログラムを組む快感を初めて知った」
誰かの下で働くのは性に合わない。82年4月、「コンパイル」を創業する。本社は広島市の自宅マンションの一室。
一大ブームを巻き起こす任天堂のファミリーコンピュータが登場する1年前だった。
■ライバルはディズニーランド
社員は自分1人。広島市内の家電量販店で知り合った仲間に協力してもらい、ゲーム開発に没頭した。完成度にこだわり、納期はいつも遅れた。発注元から完成するまでホテルに缶詰めにされたことも一度や二度ではない。
姿勢は変えなかった。納期を守るのではなく、遅れても怒られない会社を選んで仕事を請け負った。ヒット作に恵まれなくても意に介さない。「失敗の積み重ねの上にヒットは生まれる」と信じた。
「ぷよぷよ」シリーズは、会社の売上高を右肩上がりに伸ばした。すると、「売り上げ1000億円」という新たな「野望」が生まれる。その柱が「ぷよぷよランド」の建設だった。
「ゲームの世界観に没入できるテーマパークを作りたい」
東京ディズニーランドをライバルに見立て、ドーム型の建物内にジェットコースターを走らせる計画を立てた。500億~1000億円と見積もった事業費は、株式上場で捻出するつもりだった。97年3月期からの1年間に130人を新たに雇い、社員を420人に増やした。
■75億円の負債を抱え倒産
人件費の増加は、資金繰りの急速な悪化を招く。97年12月、ボーナスの支払いが滞った。「何とか運転資金を貸してほしい」。有力な取引先だったセガの首脳に電話で泣きつくと、「仲間なので支えます」と伝えられた。
その後、セガからは「ぷよぷよの権利と引き換えなら10億円出します。権利は買い戻せます」との条件が出される。「急場をしのげればいい」と深く考えず、98年2月、知的財産権の譲渡を決めた。手にした資金の大半は、社員へのボーナス払いで消えた。
2億円の手形の決済期限が目前に迫っていた。前年に山一證券が経営破綻するなど日本は未曽有の金融危機にあり、新たな借金は難しかった。
「先行投資を急ぎすぎてしまった」。1カ月後、広島市で記者会見に臨み、声を振り絞った。会社は約75億円の負債を抱えて倒産し、再建に向けて裁判所に和議を申請した。
倒産の理由はいくつかある。本業のゲーム開発で「ぷよぷよ」に続くヒットを生み出せなかった。経理は社員任せで、決裁書類はきちんと中身を確認せずに判を押した。社内に大所帯を束ねる力量や経験のある人材はおらず、会社の成長戦略もなおざりだった。「東京と違い、地方では情報も限られる。井の中の蛙だった」
■人生は52歳で振り出しに
株式上場に備えて蓄えた数億円の自己資金は和議ではき出し、手元には数百万円だけが残った。会社は再建に失敗し、2002年12月に解散する。不思議と悔しさはなかった。「おいしいステーキを食べた後、『ああ、なくなっちゃった』と思うのと同じだった」。創業から20年。人生は52歳で振り出しに戻った。
生活は激変した。首都圏のアパートを転々としながら、夜の工事現場で警備員をしたり、専門学校でコンピューター概論の講師をしたりして、食いつないだ。親から仕送りも受けた。ゲーム開発からは足が遠のいた。
転機は12年に訪れる。専門学校の上層部と衝突し、講師を辞めた。「落ちゲーをもっと進化させたい」。そんな思いから再びゲーム開発の世界に戻った。
新たな挑戦を助けてくれたのも、やはり「ぷよぷよ」だった。
「あの仁井谷です」
企画を見てもらおうと任天堂に電話すると、担当者が東京まで足を運んでくれた。開発費500万円の借り入れを申し込んだ金融機関の担当課長は、試作品をプレーして言った。
「昔ぷよぷよで遊んでいました。ぜひともこれを世に出したい」
■「久しぶりに心が震えた」
16年11月、任天堂の携帯ゲーム機用に「にょきにょき たびだち編」を発売した。「ぷよぷよ」を進化させ、実力差があっても対等に戦いやすくした。ダウンロード販売限定で約1万本を売り上げた。
「お帰りなさい」

「面白かったです」
SNSに喜びの声が続々と届いた。幼い字で書かれた手紙には千円札が入っていた。
「もっとお金を出しても惜しくないというメッセージだと思った。久しぶりに心が震えた」
コンパイル創業期から一緒に仕事をしていたゲームクリエイターの藤島聡さんは過去に一度関係を断った。支払いの遅延や不払いが頻発したためだが、倒産後に修復した。「いいかげんだが、本気では憎めない。この人ならまた面白いことをしでかすんじゃないかと思わせてくれる」と期待する。
今は千葉県内にある家賃5万円のアパートに住む。オンラインで囲碁の対局をしたり、趣味のギターを奏でたりしながら、次回作の構想を練る。
コンピューターゲームで対戦する「eスポーツ」が五輪競技になる日が待ち遠しい。「自分の作品で世界一になった選手に、自分の手で金メダルをかけたい」。その夢がかなう日は来るだろうか。
[2023年12月10日掲載/林尭志]

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読売新聞社会部「あれから」取材班
過去のニュースの当事者に改めて話を聞き、その人生をたどる人物企画「あれから」を担当。メンバーは社会部の若手記者が多い。人選にこだわり、取材期間は短くても3カ月。1年近くかけることもある。2020年2月にスタート。ネット配信でも大きな反響を呼び、連載継続中。サイトはhttps://www.yomiuri.co.jp/feature/titlelist/%E3%81%82%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89/

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(読売新聞社会部「あれから」取材班)
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