所得税の課税最低ラインが年収160万円まで引き上げられると決まったのは今年3月末のこと。以前の「103万円の壁」という水準が大きく動いたわけだが、今回の改正による減税効果は、年2万~3万円程度。物価高が続く今、その程度の減税で暮らしが本当に楽になるのか疑問を感じる方も多いだろう。しかも「壁」は減ったどころか、より複雑になったとも言える。
この改正で最も注視すべきなのは「得られる減税」ではなく、「社会保険の壁」である。社会保険は税金ではないが、会社員なら給料から天引きされるので似たような存在だ。
■多くの人がよくわかっていない「税」と「社会保険」の違い
「税」と「社会保険」の制度は、根本的な考え方が異なる。
税は、すべての国民がその所得に応じて国や地方自治体に支払うお金であり、国民の義務だ。
社会保険は、加入者が保険料を支払い、医療や年金、介護、雇用などのために使われる。「保険」という名前の通り、何か困ったときには給付が受けられる相互扶助のしくみで、対価として支払う社会保険料は給付を受けるための「参加費」のようなものだ。
したがって、今春の税制改正によって、所得税の最低課税ラインが160万円になったからといって、それに連動して社会保険料の負担も軽くなるわけではない。
■「106万円」「130万円」という「社会保険の壁」がクセモノ
「社会保険の壁」には、主に「106万円の壁」「130万円の壁」がある。
そもそも、社会保険への加入要件は、①週の所定労働時間が20時間以上、②2カ月を超える雇用の見込みがある、③所定内賃金が月額8万8000円以上、④学生ではない、⑤従業員数が51人以上の企業で勤務している、などである。
このうち⑤については、2024年10月以降、対象が拡大。従業員数101人以上から51人以上の勤務先が対象となっている。勤め先が一定規模なら、106万円を超えると社会保険に加入することになる。
つまり、「106万円の壁」は、一定の条件下で、年収が106万円を超えると、自ら厚生年金と健康保険に加入しなければならないというルールだ(後述するように5月の国会で今後の方針も決まった)。
所得税は収入の増加分に対してなだらかに増える一方、社会保険料は収入が一定額を超えると保険料率に応じた額がどんと差し引かれる。
■年収が1万円多いのに、手取りで16万円も損する
例えば、東京都・協会けんぽの場合2025年度の従業員の負担分は、健康保険4.955%、介護保険0.795%、厚生年金保険9.15%、雇用保険(一般の事業)0.6%で合計約15.5%。
要するに、給料の15%以上の社会保険料の負担が発生する。これが、パート労働者の「働けば働くほど手取りが減る」といった嘆きにつながっているわけだ。
もうひとつの「130万円の壁」とは、配偶者の扶養に入れる年収の上限を指す。
もし扶養から外れても、勤務先の社会保険に加入できれば基本的に労使折半となるから老後の年金受給額アップなどメリットは大きい。
しかし、加入できない場合もある。そうすると、国民年金や国民健康保険に全額自己負担で加入せざるを得ない。2025年度(令和7年度)の国民年金保険料は年額21万120円(月額1万7510円)。前年度に比べて約3.1%増えた(月額+530円、年額+6360円)。
国民健康保険料はパート収入年130万円の人のケースで試算すると(住む地域によって料率が異なる。東京都・中野区、39歳未満で給与所得のみの場合)、年間9万6200円。国民年金保険と国民健康保険の2つだけで、年収130万円のうち年約31万円を支払う必要がある。
一方、自分の勤務先の社会保険に加入できる場合、社会保険料(厚生年金保険+健康保険)は年約19万円と、加入しない場合より10万円以上も少ない。
税金も考慮して社会保険の有無で手取りの年収を比較してみよう。
【扶養で働いて社会保険に加入しないパート収入129万円の場合】
給与から差し引かれるのは住民税と雇用保険のみで、手取り収入は約126万円だ。
ところが……。
【勤務先の社会保険に加入するパート収入130万円の場合】
160万円に所得税の課税最低ラインが引き上げられたことで所得税はかからないが、厚生年金保険や健康保険の保険料が引かれることで、手取り収入は約110万円。
前者は129万円→126万円。後者は130万円→110万円。社会保険へ加入したことで収入が年1万円増えたにもかかわらず、手取りは大逆転する。年16万円も損してしまう。それほど、社会保険料のインパクトは大きいということだ。
■今や収入の約4分の1が税金と社会保険料に消える
このように、昇給などで給料があがっても「手取りが増えない」問題は、近年ずっと続いている家計への税・社会保険料負担増が主因だ。
収入のうち、税金や社会保険料を差し引いた額のことを「可処分所得」という。FPテキストにも必ず掲載されている用語で、筆者がFPの資格を取得した1996年頃は、可処分所得の目安=「年収×8割」だったと記憶している。
しかし、1988年→2018年の30年間で、税・社会保険料の負担率は20.6%から25.4%へと上昇。厚生年金保険料率の引き上げが2017年9月(暦年ベースでは2018年)に終了し、2018年以降の上昇ペースは緩やかになったものの、じわじわと上がっている。2023年には年収の25.9%を占める(【図表1】参照)。
要するに、収入の4分の1以上が、税金や社会保険料に消えているということだ。この負担率の高まりは確かに大きな問題だ。
■会社員は社会保険料を「節約」できるのか?
ここまで負担が大きくなってくると、「節税」という言葉があるように、「節・社会保険」ができないか。そう考える人もいるだろうが、会社員の場合、社会保険料は給与から天引きされ、一定のルールに従って計算されるため「節約」はなかなか難しい。
ただ、仕組みを正しく理解すれば、結果的に負担を抑えられるケースもある。
例えば、社会保険料は毎年4~6月の給与平均を基に算出される(定時決定)。この時期に残業や手当が集中すると、9月以降の保険料が跳ね上がる。一時的な収入増のはずが、保険料として回収されてしまうわけだ。そこで、残業を減らす、手当を賞与に回すなど、なかなか難しいかもしれないができるなら4~6月の報酬を抑える調整を検討してみるのも一手だ。
また、報酬が階段状に保険料に反映される「等級制」も気をつけたい。ほんのわずかな昇給で、一段階上の保険料が1年間続くケースも出るためだ。年収の交渉や残業の調整を行う際、次の等級に上がるタイミング(特に4~6月)を避けられれば節約につながる。
とはいえ、社会保険への節約志向が過剰になると、将来もらう年金や医療保障が減る可能性も出てくる。そもそも、社会保険料を抑えたいから昇給を躊躇するというのもあまり現実的とは言えない。
■社会保険は「損」なのか――“保障の厚み”は民間保険以上の場合も
前述の試算の通り、社会保険料への加入か未加入かで手取りは大きく変化する。どうしてもそこに目が行ってしまうのは無理もない。だが、社会保険=悪と単純化しないほうがいい。社会保険は、民間保険ではカバーできないほど手厚い保障があり、そこを見落としている人が多いのだ。
筆者は、FPとして医療機関でがん患者やその家族への相談を定期的に行っている。その相談現場では、それまで社会保険に加入していない人にあえて加入を勧めるケースもある。短期的には手取りが減っても、中長期的には保障の充実や将来の年金で“プラス”になることもあるからだ。
例えば、夫が年収1000万円以上で、パート勤務の妻のA子さん(年収100万円)は夫の扶養に入っているとする。
A子さんががんなど長期療養の必要な病気を発症して手術・治療・入院した場合、その支払い額は、夫の所得区分によって高額療養費制度の自己負担の上限額が決まる(【図表2】参照)。
■働けなくなっても最大18カ月で計約106万円が支給される
年収1000万円以上は、所得区分(イ)に該当し、月に支払う上限額はおよそ17万円。
前述のように、税・社会保険料の負担が約25%だとすると、年収1000万円家計の可処分所得は750万円。月額にして62万5000円で、17万円の医療費となると3割近く(約27%)に達する。
可処分所得の残りは月45万円あまり。医療費のほかにも、住宅ローン返済、教育費など「固定支出」や、食費の多い家庭であれば、年収が大台の1000万円でも家計の切り盛りはラクではないかもしれない。
ここでA子さんの年収が100万円ではなく106万円で、勤務先の社会保険に加入しているケースだとどうなるか。
この時、所得区分は夫の所得区分ではなく、自分の所得区分となり(イ)から(エ)へ。かかる医療費は同じでも最終的な自己負担は上限で月5万7600円に抑えられる。年収100万円のAさん(所得区分イ)は月17万円だったので、月10万円以上も負担が小さくなる。がんになっても、もっと働いて収入を増やせとは何事、とお叱りを受けるかもしれないが、医療費が心配で治療に専念できなければQOLは著しく低下する。家計もずいぶん助かるはずだ。
もうひとつのケースを見てみよう。今度はA子さんの医療費が上限額ぎりぎりに達しない場合だ。高額療養費制度には、直近12カ月で高額療養費の払い戻しを受けた月数が3カ月以上あった場合、4カ月目から限度額が引き下がる「多数回該当」という仕組みがある。これが適用になれば、上限額のハードルがもう一段階下がり負担も減るので、治療が長期化している患者に対しては、早く多数回該当に達するようなアドバイスも行う。
ところが、患者調査によると、上限額が高い所得区分(ア)(イ)の人は、(ウ)(エ)(オ)の人に比べて、限度額に達しなかった割合が10倍も高いことがわかっている(※)。
※出典=一般社団法人患者家計サポート協会「がん患者の経済的負担に関する実態調査」(2025年3月18日)
2025年度予算案で見直しが検討された高額療養費制度の上限額引き上げは、一時凍結された。しかし、今後、引き上げされないとは限らない。その場合、限度額に達しない患者が増える可能性は高い。その場合も、患者自身が社会保険に加入していれば、所得区分を下げられることになる(負担が小さくなる)。
それでは、A子さんが社会保険に加入後、がんが再発・転移して働けなくなった場合はどうか。このケースでは社会保険未加入の場合には得られない「傷病手当金」を受け取ることができる。
仮に、月額給与9万8000円だとすると、傷病手当金の額は給与の3分の2の額が目安となり、日額にして2180円、30日休んだ場合(27日分支給)5万8860円が、最長1年6カ月もらえる。
万一、働けなくなっても5万8860円×最大18カ月で計約106万円が支給されるのだ。民間の医療保険や就業不能保険はここまで手厚い保障内容を望むことはできない。
社会保険への加入は、病気やケガをして休職したり、離職したり、年老いたりした時にそのありがたみを感じる。それだけではない。
厚生年金に加入していれば将来の自分自身の年金額も増え、最終的には「得」になるケースも多いのだ(【図表3】参照)。近年は熟年離婚が増加しており、自分の年金が多ければ、離婚後の生活も助かる。
■「知っているかどうか」で生き方に大きく差がつく時代
いやいや、毎月の手取り額が減るのはとてもじゃないが、受け入れられない。そんな「もしも」の時よりも、家計がカツカツな今、税金や社会保険料などの負担はできるだけ少ないほうがいいという事情・気持ちもよくわかる。
しかし、寿命が延びる中、「月々の損得」ではなく、「人生全体での損得」で考えた時、働き方を変えようとする人も出てくるのではないか。
繰り返しになるが、社会保険を「節約」して支払いを小さくすると、将来の給付が減るリスクもある。税金や社会保険料の負担が生じることを、単純に手取り削減のマイナスと捉えず、「投資」としての側面も含めて検討してもいいのかもしれない。
とはいえ、国はこうした国民の思惑や事情にはお構いなしに、社会保障制度を見直した。5月中旬に閣議決定された年金制度改革法案では、年収106万円以上の賃金要件の撤廃が盛り込まれ、現行で51人以上となっている企業規模要件も段階的に撤廃。2035年には10人以下の企業まで加入対象にするという。まさに、徐々に外堀を埋められているかのようだ。
そこで、何より大切なのは、早いうちから制度を正しく理解し、前述したような4~6月の働き方や昇給のタイミングを工夫する「賢い選択」と病気・ケガという「万が一」に備えつつ、生涯で手にする額を増やすことができるかどうかだろう。
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黒田 尚子(くろだ・なおこ)
ファイナンシャルプランナー
CFP認定者、1級FP技能士。一般社団法人「患者家計サポート協会」顧問、城西国際大学・経営情報学部非常勤講師もつとめる。日本総合研究所に勤務後、1998年にFPとして独立。著書に『親の介護は9割逃げよ 「親の老後」の悩みを解決する50代からのお金のはなし』など多数。
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(ファイナンシャルプランナー 黒田 尚子)