■マレー半島への奇襲上陸作戦
「大変な作業でしたよ。僕の人生であれだけ膨大な机上の作業はほかになかった」
伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三が口を開いた。1995年7月12日、東京・青山の伊藤忠商事東京本社21階の応接室。3月の取材申し込み以来、やっと実現したインタビューだ。
瀬島の言う大変な作業とは41年12月8日午前零時を期して始まる陸軍のマレー半島上陸作戦の準備のことだ。
「例えば、どこの師団を敵前上陸させるか。地域の特性をつかみ決めなくてはならない。
暗夜、3、4キロ沖合に輸送船で入り、縄ばしごで波に揺れる上陸艇に乗り移って一斉に上陸する。これは内陸の部隊には無理。小さい時から海に慣れてる善通寺(香川県)や広島の部隊でないとね」
■「季節風に乗れば3分の1の時間で着く」
上陸部隊が決まれば、次は部隊をいつどこで輸送船団に乗せるかだ。12月8日から逆算して11月30日、中国・海南島の三亜港が選ばれた。期日に間に合うよう各地の部隊をそこへひそかに集結させなければならない。
「瀬島はわら半紙数枚つないだのを御経本のように折り畳み胸ポケットに入れていた。それには『南方作戦準備一覧表』が書いてあって作戦会議の時に印刷して皆に配った」と元参謀の首藤忠男は言った。
一覧表をびっしり埋めた作戦スケジュール。会議で瀬島は、開戦日が12月8日に決まった理由を説明した。
「瀬島はこう言ったんだ。このころ太平洋からマレー半島へ毎秒8~13メートルの季節風が吹く。この風に乗れば輸送船団は通常の3分の1の時間で着く。途中で岸や空から攻撃を受けても船が速いので被害も少なくなるとね。彼の説明にはだれも反対できない絶対的裏付けがあった」
圧倒的に大きな国力の米国との戦争へ突き進んでいく旧陸軍参謀本部作戦課。瀬島によると、その最大のきっかけは、7月末の南部仏印への進駐と、これに関連して起きた米、英、オランダによる日本の在外資産の全面凍結だった。
■瀬島は南部仏印進駐に消極的だったが…
南部仏印進駐の1週間ほど前、瀬島は作戦班長を通じ、文書で課長の服部卓四郎に意見具申した。
「兵を動かせば相手の兵を呼ぶ。進駐が対米英戦のきっかけになるという恐れを強く感じたんです。日本が本当に戦争を決意し準備してからでないと予期しない事態になる、進駐はやめるか延期すべきじゃないかと進言しました」
だが、服部の返事はなかった。南部仏印進駐は米国の対日石油禁輸措置を招き、石油のない日本は屈服するか、戦うかの岐路に立たされる。
瀬島が対ソ作戦担当から、全軍の移動・配置を決める「兵力運用」担当に移ったのはこの直後だった。
「北(対ソ作戦)はしばらくやれないという空気になり北方関係は手が空いてきた。それで作戦班長補佐として兵力運用を見る立場に変わったんです。全軍の兵力運用は作戦課本来の仕事である対ソ年度作戦計画をやった者でないとなかなか分からないんです」
東南アジア進攻に終始反対してきた井本熊男も「支那(中国戦線)班」から「南方班」総括参謀へ。井本も瀬島もいや応なく対米英戦の核心にかかわっていく。2人の声はなぜ封じ込められたのか。
■作戦課長が代わり、方針が一転
「昭和15年(1940年)の何月だったか、当時の岡田重一作戦課長が言われた言葉を今でもよく覚えてます」
瀬島龍三が証言を続ける。ダークグレーのスーツ。
「岡田さんは全課員を集め『陸軍省は資源のため南方作戦をやれと言うが、作戦課は慎重であるべきだ。日本は軽々しく参戦すべきでない。無傷の世界第二の連合艦隊を持って世界情勢を見極めなければならない』と言ったんです」
40年初夏、ドイツが東南アジアに植民地を持つオランダ、フランスを制圧。それに刺激され日本国内には「好機南進」の機運が高まっていた。
「ところが、慎重な岡田さんに代わって(40年10月に)課長になった土居明夫さんは竹を割ったような性格で、南方積極論を強調した。井本熊男さんらは『この重大時局の作戦課長として適任かどうか』と疑問を持ってました」
■「命知らずの男」が陸軍の中枢機関へ
41年6月、ドイツがソ連に進攻した。その背後をつく北進か、南進かで議論が続く中、土居が更迭され、作戦班長の服部卓四郎が課長に昇格した。服部はノモンハン事件でコンビを組んだ辻政信を呼び寄せ、南進への傾斜を深めていく。
「服部さんは慎重な人だったが、辻さんの起用には当時、課内で疑問がありました。やはり、大きな犠牲を払ったノモンハン事件の責任者の2人が重要時局に作戦課にいたことには問題があったと言わざるを得ない」
「命知らずの男」と言われた辻を牽引車にして南方作戦へなだれ込む作戦課。
「辻さんは作戦課に来る前から陸軍で著名な人でした。だが独断的というわけでもない。案外他人の意見もよく聞いたんです。ただ考え方が非常に直観的で、合理性に基づいて慎重にものを言う人ではなかった。しかし当時の軍の空気では評価されたんです」
■国家決定で突き進むしかなかった?
参謀本部の中で総長、次長に次ぐ地位の作戦部長、田中新一は当初ソ連進攻に積極的だった。しかしその田中も次第に南進論へと変わっていく。
「当初の参謀本部情報部の判断は、ドイツ軍は1カ月でソ連軍を撃破し、冬までにウラル以西を制圧するというものでした。だが関東軍特種演習で(ソ連進攻の)準備ができた9月には、ドイツ軍はスターリングラードの手前で引っかかり、痛手を受けていた。それが南方へ変わった背景でしょう」
こうした対米英戦への流れに危惧を感じた参謀は井本熊男や瀬島だけではない。瀬島によると、高瀬啓治や竹田宮恒徳王らもそうだった。なぜ、彼らは作戦課内で連携を取り合い、日本が破局に向かうのを押しとどめることができなかったのか。
「既に(南進の)国家の決定があるため、課内の横の連携を取ることはできなかったんです。なければ自由な論議をして別な結論を出し得たかもしれないが……」
瀬島はそう答えた。だが、彼らを縛った国家決定が形成される過程に深くかかわったのは、陸軍の中枢作戦課の参謀とその上司たちではなかったのだろうか。
■専門家は「中堅幕僚の暴走」と指摘
「一体、だれがあの戦争を始めたのか。戦後50年たった今、はっきりさせる必要があると思います」
軍部支配の実態に詳しい京大文学部教授の筒井清忠(46)が奈良市の自宅で語った。
「連合国による東京裁判の結論は『軍国主義日本の政治、経済、外交、軍事の中心人物たちが共同謀議し、計画的にアジア征服に乗り出した』というものでした。しかしこの歴史観はナチス・ドイツからの類推で導き出されたもので、事実は全く違います」
極東国際軍事法廷(東京裁判)は1948年11月、死亡・精神異常による免訴3名を除く被告25人全員を有罪とし、元首相兼陸相の東条英機、元陸軍省軍務局長の武藤章、元首相の広田弘毅ら7人に絞首刑を言い渡した。
「実態は共同謀議なんてとんでもない。政界も各省庁も陸海軍も相互の対立が激しくてばらばらだった。日本に明確な戦争の意思と計画があったというより、中堅幕僚(参謀)の暴走に引きずられたんです」
ではなぜ中堅幕僚の暴走を許したのか。筒井によるとそのきっかけは31年9月の満州事変だ。
■陸軍内部の権力が下降したきっかけ
関東軍参謀の石原莞爾らは、奉天(現遼寧省瀋陽)郊外の柳条湖付近での南満州鉄道爆破事件をきっかけに満州の主要都市を占領した。
「世論が『よくやった。満州の権益を守ってくれた』と称賛してる時に処罰しにくいから信賞必罰が貫かれなかった。それが『結果さえ良ければいい』とその後の独断専行の悪循環を生み、陸軍内部の権力が上層部から中堅幕僚に下降していく契機になるんです」
皮肉にもこの悪循環に泣いたのが当の石原だ。当時関東軍参謀副長だった今村均の『回顧録』には概略次のような出来事が記されている。
1936年11月、参謀本部作戦部長に昇格していた石原は関東軍司令部へ飛んだ。関東軍参謀の武藤章らの、内蒙古(内モンゴル)を支配下に置こうとする謀略工作を止めるためだ。
石原は参謀たちを集め、自信に満ちた態度で口を開いた。
「諸官らの企図している内蒙工作は、全然中央の意図に反する。幾度訓電を発しても、いい加減な返事ばかりで、一向に中止しない。大臣総長両長官は、ことごとくこれを不満とし、よく中央の意思を徹底了解せしめよとのことで、私はやって来ました」
■作戦部長・石原莞爾は部下に追い出された
武藤が笑顔で言った。
「石原さん! それは上司の言いつけを伝える、表面だけの口上ですか。それともあなた自身の本心を、申しておられるのですか」
「君! 何を言うのだ。僕自身内蒙工作には大反対だ。満州国の建設が、やっと緒につきかけているとき、内蒙などで、日ソ、日支間にごたごたを起こしてみたまえ、大変なことになるぐらいのことは、常識でもわからんことがありますまい」
「本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍された時分、この席におられる今村副長といっしょに参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたの行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているのです」
武藤の言葉に青年参謀たちは大笑いした。
石原と武藤の確執は翌37年7月、盧溝橋事件に端を発した日中戦争で頂点に達する。京大教授の筒井清忠が言う。
「この時、石原は不拡大方針を取るが、作戦課長になっていた部下の武藤は反日運動が高まりを見せる中国に『一撃を加えるべし』と拡大派の急先鋒になった。陸軍省や参謀本部は、武藤たちの拡大論が多数を占め、石原は中央から追われるんです」
作戦部長の石原が部下の武藤に追い出されたことで陸軍内部の権力は課長クラスにまで下降する兆しを見せる。その課長が陸軍にとどまらず、日本の政治に強い影響力を持つことを示す象徴的な事件がやがて起きる。
■陸軍上層部の自信を奪った2・26事件
「陸軍内部の権力が最も下降したのは1939年8月でした。陸軍省の一課長が実質的に内閣をつくるという前代未聞のことが起きたんです」
京大教授の筒井清忠の話が続く。
独ソ不可侵条約締結で平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明を出し退陣した。陸軍省の国会対策の責任者だった軍務課長の有末精三は、後継に陸軍大将の阿部信行を担ぎ、阿部内閣を誕生させた。
「有末課長の動きは昭和天皇の耳にまで入り、天皇が不快感を表したほどだった。陸軍の意思決定権が課長級に降り、陸軍の政治力がさらに強まるんです」
この急速な権力下降の契機になったのは36年2月に起きた2・26事件だった。皇道派青年将校らが決起した軍事クーデターは、内大臣斎藤実や蔵相高橋是清ら政府要人を暗殺、日本中を震え上がらせた。
「この時、陸軍上層部はすっかり自信を喪失していた。ある将軍は青年将校が自分を殺しに来たと思い、門を閉じ、部屋に逃げ込むようなありさまでね」
■もし昭和天皇が開戦を拒否していたら…
弱腰の陸軍上層部に事件を処理する力はなく、中堅幕僚が主導権を握った。一課長による内閣づくりまで許してしまう伏線の一つがここにあった。
2・26事件は、宮中や政界にもテロによるクーデターへの恐怖を生み、後に開戦への心理的圧力になる。『昭和天皇独白録』に天皇の言葉が残っている。
「私が若し開戦の決定に対して『ベトー(拒否)』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ[た]であらう」
昭和初期から連鎖的に起きた陸軍の権力下降。筒井はその背景の一つに日本特有の稟議制があると指摘する。
「陸軍の意思決定システムが米国のようなトップダウンでなく稟議制なんです。課長より下の参謀が立案し、トップにもみ上がっていく。ある意味で意思決定に平等主義的な要素が強いんです」
稟議制は戦後の今も官庁などで一般的に採用されている意思決定システムだ。
「上層部の決定を一元的に下に降ろすやり方ではないから、下が結束して何かやろうとすると止めにくい。開戦前の参謀本部が田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長らの対米開戦派に牛耳られたのもそういうところに一因があると思います」
■2つの奇襲攻撃成功を喜ぶ国民たち
1941年12月8日、東京・三宅坂の参謀本部作戦室。十数人の参謀が中央テーブルを囲んでいた。連日の徹夜でどの顔にも疲労の色がにじむ。
午前3時35分、海軍から電報が飛び込んできた。
「一 〇一三〇(午前一時半)上陸を開始せり」
「二 〇三三〇(午前三時半)奇襲に成功せり」
陸軍のマレー半島上陸開始と海軍の真珠湾攻撃成功の知らせだ。5分後、作戦課は支那派遣軍に緊急打電する。
「ハナサク、ハナサク」
香港攻略開始命令だった。
東南アジア進攻作戦の総括参謀だった井本熊男が振り返る。
「万歳とかやった、やったと有頂天で騒ぐような空気はなかった。厳粛な気持ちで情報を聞いた。初めはうまくいったが、そのうち泥沼に入っていくかも分からない。戦争が長引けば心配だというのが正直な気持ちだった」
間もなく参謀本部の庭は、緒戦の成功をラジオで知った市民で埋まった。日の丸の旗が振られ、万歳を叫ぶ声が冬の青空に響いた。井本の胸に暗い予感が残った。
※登場人物の年齢、肩書きなどは1995年の新聞連載時のものです
(共同通信社社会部)