第二次世界大戦中、日本軍が進軍したガダルカナル島では、十分な武器・食料が補給されず多くの兵士が悲惨な死を遂げた。追い詰められた軍中枢部はどうしたのか。
■「人間の肉体の限界まできたらしい」
「12月27日 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界にまできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充塡物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った」(元陸軍中尉小尾靖夫の手記『人間の限界 陣中日誌』)
東西150キロ、南北48キロの島ガダルカナル。密林に潜む日本兵たちの間に不思議な生命判断がはやりだしたのは1942年末のことだ。
「立つことのできる人間は……寿命三十日間。身体を起して坐れる人間は……三週間。寝たきり起きられない人間は……一週間。寝たまま小便をする者は……三日間。もの言わなくなった者は……二日間。またたきしなくなった者は……明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終るのであろうか」
■2万人が「飢餓の島」に取り残された
太平洋戦争の開戦後、日本の勢力圏は東南アジアから南太平洋まで急速に膨らんだ。だが42年夏、反攻に出た米軍はガダルカナルを奇襲。海軍が建設したばかりの飛行場を奪った。
8月から10月にかけ、陸軍部隊が相次ぎ奪回のため上陸したが、攻撃に失敗した。
補給が途絶え、骨と皮にやせ細った兵隊をマラリアや赤痢が侵した。元陸軍中尉の大友浄洲(81)が言う。
「食べられる物は草とトカゲぐらいだった。トカゲが目の前をちょろちょろすると、塹壕にへたり込んだ兵隊の目がカッと開く。竹の杖でたたくんだが、体が弱ってるから当たらない。逃げられると恨めしげな顔してね。今もその光景が忘れられない」
■30歳の参謀に「ガ島奪回」の命令が下る
密林のあちこちで兵隊が行き倒れ、死臭が漂う。死体はウジに食われ、1週間で白骨になった。飢えが極限に達し、死体のウジを食べる兵隊も現れた。
「不思議なんだよね。死は友を呼ぶというか、死にかけた兵隊は白骨のそばに寝る。
この年11月末の旧陸軍参謀本部作戦課長室。課長の服部卓四郎が瀬島龍三に宣告した。
「明日から南東方面の担当だ」
南東方面とはガダルカナルやニューギニアを指す。事実上対米戦の作戦主任に抜擢するという意味だ。「飢餓の島」奪回の至上命令が30歳の瀬島に下った。
■米軍の猛攻撃で「窓の外は地獄のよう」
ラバウルの海はコバルトブルーに輝いていた。その水面に作戦課の派遣参謀、山本筑郎の乗った飛行艇が舞い降りたのは1942年9月18日だった。約1000キロ南東のガダルカナルで日米の攻防が始まって1カ月余りがたっていた。
岸壁から歩いて数分。ガダルカナル部隊を指揮するラバウルの軍司令部は南洋特有の高床式建物にあった。
「えらいことになったよ。
司令部の参謀長、二見秋三郎が深刻な表情で、着任挨拶に訪れた山本に言った。
戦況は想像以上に悪化していた。米軍に奪われた飛行場を取り戻すため8月中旬、約1000人の部隊が上陸したが、米軍の機銃掃射や戦車まで繰り出した猛攻で全滅。続く9月の総攻撃も惨敗した。
「ラバウル到着4日目には、もうガ島戦はいくらやっても負けると思った。夜明け前、米軍のB17重爆撃機が数十機襲いかかってきた。サイレンの音で飛び起きると、窓の外は地獄のようだった」と83歳の山本筑郎が当時を振り返る。
爆弾が絶え間なく降り注いだ。はらわたをえぐる轟音。司令部の窓ガラスが吹き飛び、あちこちで火柱が上がった。辛うじて飛び立った戦闘機は次々に撃ち落とされた。30分後、一機の損害もなく悠々と引き揚げていくB17機群を山本は呆然と見送った。
「ラバウルですらこうなのに、敵の制空権下にあるガ島の奪回は不可能だった。東京の大本営が奪回にこだわっている間に、ガ島では飢えで日に100人以上も死んでいった」
■だれも「撤退」を言い出せない状態
10月の総攻撃には新たに約1万8000人が投入された。だが空襲で輸送船6隻中3隻が沈み、失敗。約2万人が補給のない島に孤立した。
「これだけ犠牲を払っても現地の軍司令部からは口が裂けても『撤退させて』とは言えなかった。陸軍の伝統は陛下の命令に命を懸けるということ。その陛下の奪回命令には絶対に背けないんだ」
天皇の命令「大本営命令」は作戦課が原案を作成する。作戦部長、参謀総長らの決裁を経て、最終的に天皇の裁可で発令される。「統帥権(軍の最高指揮権)独立」の建前から内閣や議会は直接関与できず、天皇が参謀本部の原案を拒否することもまずない。
「しかし参謀総長にしてみれば、自分が上奏して陛下の裁可をもらったガ島の奪回作戦だからね。後に引けない苦しみがあった。陛下の方も下から撤退を言ってこない限り、自分から言えない。
大本営命令の重圧で撤退が遅れ、飢餓地獄となったガダルカナル。作戦課からラバウルの司令部に派遣されていた元参謀の井本熊男が言う。
「大本営は、生きていることさえ困難な現地の惨状を知らず、東京の机の上から一方的に指令を出すことが少なくなかった。勝つことしか頭になく、勝てない原因の冷静な分析を欠いたまま一線の尻をたたいていた」
■「奪回攻撃する」と豪語した作戦課長
12月16日未明。大本営の作戦主任、瀬島龍三らを乗せた飛行艇が横浜沖を飛び立った。行く先はラバウルの司令部。ガダルカナルの約2万人の運命を決める旅だった。
選択肢は三つ。攻撃続行か、撤退か、それとも見殺しにするか……。
「ガ島は依然、奪回攻撃する方針である」
参謀本部の作戦課長に就任したばかりの真田穣一郎の言葉に、井本熊男は激しい憤りを感じた。
1942年12月20日、ニューブリテン島ラバウルの司令部で開かれた幕僚会議。作戦主任の瀬島龍三とともにラバウル入りした真田は、既定方針通り近くガダルカナル総攻撃を行うと強調した。
「だが、大本営から真田課長らが来た本当の目的はそんなことじゃない。ガ島現地軍を撤退させるか、全滅するまで戦わせるかの判断資料を握りに来たんだ。それが見え透いてるのに表向き奪回を言う姑息さに腹が立った」と井本は言う。
■残された選択肢は、撤退か玉砕か
本音と逆の強硬論が語られる奇妙な幕僚会議。大本営命令に縛られた軍司令部から撤退を主張する声はなかった。
元大本営参謀種村佐孝著『大本営機密日誌』によると、この会議より2週間前の6日深夜、東京・永田町の首相官邸の日本間で作戦部長田中新一が、和服姿の首相兼陸相、東条英機を怒鳴りつけた。
「このバカ野郎」
田中は東条に、ガダルカナル奪回のため大量の輸送船の調達を迫っていた。だが「民需用船舶が減り、国力が低下する」と拒否され、激高した。
田中の暴言に東条はすっと立ち上がって言った。
「何事を言いますか」
冷たく静かな声だった。
田中は翌日更迭された。田中とコンビを組んできた服部卓四郎も作戦課長を辞めた。
井本が言う。
「強硬なガ島奪回論者の2人の交代は、大本営が奪回をあきらめたことを意味していた。残るは撤退か玉砕かの選択。この重要な問題を真田課長の一行は会議で腹を割って話さず、参謀たちをこっそり個別に宿舎に呼んだりして意見を聞いた」
■「できるだけの人々を救出できるように」
瀬島は陸軍大学校時代の教官だった参謀の加藤道雄から話を聞いた。加藤の答えは真田が残した日誌に記されている。
「個人として言ひます。誰も自分の面目とか悪者にならぬように注意して国家を危くするに非ざるやを恐る。一切の私を去り、大局から善処あり度たし。ガ島に於<おい>ては悲痛なるものあり。今日の海軍の状態、実力からすれば、今奪回は至難なり」
真田穣一郎は司令官今村均にひそかに玉砕案を打診した。今村の答えも真田の日誌に書かれている。
「海軍は陸軍の航空に手頼(たよ)りたいと云ふ気持になりあり。真に意外なり。ガ島は何(いず)れにしても至難、仍(よ)りて死中に活を求むるの策なきやを研究せしめつつあり。転換はこちら丈(だ)けで謂へるものに非ず。中央は海軍との関係をも考へられ、大局的に定められ度。唯(ただ)如何なる場合に於ても、『ガ島の者は捨てて了(しま)ふのだ』といふ考を持たれずに、或(ある)時期に於て出来る丈けの人々を救出出来る様に考へて貰い度。之(これ)(玉砕案)が漏れたら、ガ島の人々は皆一度に切腹して了ふであらう。機密保持に注意あり度」
■瀬島龍三は「撤収以外手はない」と進言
真田はなぜ玉砕案を出したのだろうか。井本が言う。
「ガ島の敵は3倍の勢力があった。こちらは栄養失調でみんな病人。退却してるのがばれて敵の総攻撃を受けたら全滅しかねなかった。当時はだれも無事撤退できると思わず、その場で戦って死んだ方が気が楽なほど難しい状況だった」
12月23日。真田や瀬島らの飛行艇がサンゴ礁で囲まれた海(ラグーン)から飛び立った。その直前、飛行艇に乗り込む瀬島の耳元で見送りの井本がささやいた。
「東京の決断を待ってる。それにのっとってわれわれは現地でやるから」
作戦課長の真田穣一郎は大柄で古武士のような風貌の男だった。手がひと際大きく、電話のダイヤルの穴に指が入らず鉛筆で回したという。
その真田がラバウルからの帰途、サイパン島の航空宿舎で瀬島龍三らを自室に呼んだ。1942年12月24日の深夜。時計の針は午前零時を回りかけていた。
「ガ島作戦について率直な意見を聞かせてください」
真田が瀬島に言った。東京着を翌日に控え、方針を決めなければならない。真田の現地部隊玉砕案はラバウルの軍司令官に拒まれている。
「奪回は輸送船使用が困難で、現地陸海軍部隊は戦いに成算を持ってません」と瀬島。
ガダルカナルへの輸送船問題では半月余り前、大量調達を求める作戦部長が更迭されたばかりだ。瀬島が続けた。
「奪回を断念すると残る案は二つ。一部精鋭部隊をガ島に残し、補給しながら敵飛行場を妨害させるか。それとも撤収か。前者は一時的に可能でも長期は無理ですから、撤収以外手はないと思います」
■撤退作戦を天皇に上奏し、正式決定
話し終えた途端、真田は我が意を得た思いがした。
「全然同感です。それでいきましょう」
瀬島は前課長、服部卓四郎から奪回作戦の立案を指示されていた。だが服部は輸送船問題で作戦課を去り、瀬島もラバウルの参謀たちの本音を探るうちに考えを変えた。
「一 東京で考へたより以上に攻撃再興しても成功の可能性がない。殊(こと)に陸海の実施部隊が殆んど確信をもたぬ。 二 ガ島にとらはれてゐる間に、ニューギニヤが逐次くずれてゆく。 三 海軍の空海戦力を是(これ)以上大消耗してはならぬ」(防衛庁の『戦史叢書』記載「瀬島参謀回想録」)
東京への機中で瀬島は撤退作戦要領と天皇への上奏文を作成した。31日の御前会議で撤退が正式決定。ラバウルの方面軍司令部にいた参謀の井本熊男はその撤退命令を伝える使者としてガダルカナル行きを志願した。井本が語る。
「私はガ島作戦(の失敗)は大本営の責任だと思った。『撤退作戦で全滅した場合、大本営の人間がいなかったら申し訳ない。おれがその一人になってやろう』と思った」
■上陸した参謀が目にした兵士たちの窮状
井本は43年1月12日、ラバウルから駆逐艦に乗り込み、14日夜、ガダルカナル島のエスペランス海岸に上陸。徒歩でジャングルの奥深くにある現地軍司令部に向かった。その時の様子を井本は回想録にこう記している。
「セギロウ河畔のジャングル地帯につくと、ここは第二師団及び東海林支隊等の患者収容所及び野戦病院である。場所は最も湿気の多い日当たりの悪い陰惨な地帯である。通路は泥濘(でいねい)膝を没する悪路、単独の歩行にも極めて困難を感じる位である。両側の鬼気迫るような叢林の中が我忠勇なる将兵の病を養ふ所である。(中略)彼等の相貌は、まるで此世の者とは思はれぬ。忠霊の様な様子をしてゐる。食ふに物なく、ひよろひよろとやつと歩いて居るものは、多くは頻繁で激烈なる下痢の始末の為である。便所は臥床のすぐ隣りで、臭気嘔吐を催すものがある。如何(いか)に苦しくても、戦友も亦(また)看病するに力なき者ばかりである」
15日夜、井本は司令部に到着。まず参謀長の宮崎周一と高級参謀の小沼治夫に撤退命令を伝えた。井本の説明が終わると同時に2人が口をそろえて反論した。
「大命による命令に背くわけではないが、この戦況下で撤退などできるか。ガ島奪回が望みなしならば、このまま軍司令官以下で敵陣に切り込む。一人残らず玉砕し、皇軍はかくすべきものという道を示した方が、国家、国軍のためにどれほどよいか」
井本は泣きながら2人を説得した。
「そういうご意見が出ることはラバウル出発前から想像しておりました。しかし今回のことは大本営命令に基づくもので、特に陛下から、ぜひ万難を排して撤退させるように、というお言葉が出されているのです」
■軍隊の論理のために2万人以上が犠牲に
撤退か、玉砕か。3人の論議は堂々巡りした。漆黒の空に砲声が響き、天幕の中では一本のろうそくの炎がかすかに揺れていた。
翌16日、夜が白み始めたころ、井本は大木の根本にある洞窟に軍司令官百武晴吉を訪ねた。撤退命令を伝えると百武は「熟慮したい」と即答を避けた。
正午ごろ、百武は井本を洞窟に呼んだ。
「軍は命令を遵守してその達成に全力を尽くす。ただし撤退が完全にできるかどうかは予測できない」
ガダルカナル島からの撤退は2月2日から8日までの3回、海軍の駆逐艦で決行され、成功した。米軍が攻撃準備と勘違いし、追い打ちをためらう幸運に恵まれたからだ。
だが、10月の最後の総攻撃失敗から撤退まで3カ月余。その間、天皇の名で出された命令の重圧の下で約2万人が食料も弾薬もなしに孤立させられた。多数の人命より、天皇に対する「メンツ」が優先する硬直した軍隊の論理。ガダルカナル島への総上陸人員約3万1000人のうち生還者は約1万人にすぎなかった。
※登場人物の年齢、肩書きなどは1995年の新聞連載時のものです
(共同通信社社会部)
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第2回/全4回)
■「人間の肉体の限界まできたらしい」
「12月27日 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界にまできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充塡物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った」(元陸軍中尉小尾靖夫の手記『人間の限界 陣中日誌』)
東西150キロ、南北48キロの島ガダルカナル。密林に潜む日本兵たちの間に不思議な生命判断がはやりだしたのは1942年末のことだ。
小尾靖夫は「限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった」と記している。
「立つことのできる人間は……寿命三十日間。身体を起して坐れる人間は……三週間。寝たきり起きられない人間は……一週間。寝たまま小便をする者は……三日間。もの言わなくなった者は……二日間。またたきしなくなった者は……明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終るのであろうか」
■2万人が「飢餓の島」に取り残された
太平洋戦争の開戦後、日本の勢力圏は東南アジアから南太平洋まで急速に膨らんだ。だが42年夏、反攻に出た米軍はガダルカナルを奇襲。海軍が建設したばかりの飛行場を奪った。
8月から10月にかけ、陸軍部隊が相次ぎ奪回のため上陸したが、攻撃に失敗した。
米軍包囲の中、約2万人(11月末時点)の日本兵が取り残された。
補給が途絶え、骨と皮にやせ細った兵隊をマラリアや赤痢が侵した。元陸軍中尉の大友浄洲(81)が言う。
「食べられる物は草とトカゲぐらいだった。トカゲが目の前をちょろちょろすると、塹壕にへたり込んだ兵隊の目がカッと開く。竹の杖でたたくんだが、体が弱ってるから当たらない。逃げられると恨めしげな顔してね。今もその光景が忘れられない」
■30歳の参謀に「ガ島奪回」の命令が下る
密林のあちこちで兵隊が行き倒れ、死臭が漂う。死体はウジに食われ、1週間で白骨になった。飢えが極限に達し、死体のウジを食べる兵隊も現れた。
「不思議なんだよね。死は友を呼ぶというか、死にかけた兵隊は白骨のそばに寝る。
何もそんな所に寝なくてもと思うが、なぜか固まってしまう。やはりみんな一人で死んでいきたくないんだね」
この年11月末の旧陸軍参謀本部作戦課長室。課長の服部卓四郎が瀬島龍三に宣告した。
「明日から南東方面の担当だ」
南東方面とはガダルカナルやニューギニアを指す。事実上対米戦の作戦主任に抜擢するという意味だ。「飢餓の島」奪回の至上命令が30歳の瀬島に下った。
■米軍の猛攻撃で「窓の外は地獄のよう」
ラバウルの海はコバルトブルーに輝いていた。その水面に作戦課の派遣参謀、山本筑郎の乗った飛行艇が舞い降りたのは1942年9月18日だった。約1000キロ南東のガダルカナルで日米の攻防が始まって1カ月余りがたっていた。
岸壁から歩いて数分。ガダルカナル部隊を指揮するラバウルの軍司令部は南洋特有の高床式建物にあった。
「えらいことになったよ。
東京はどう考えてるのかね」
司令部の参謀長、二見秋三郎が深刻な表情で、着任挨拶に訪れた山本に言った。
戦況は想像以上に悪化していた。米軍に奪われた飛行場を取り戻すため8月中旬、約1000人の部隊が上陸したが、米軍の機銃掃射や戦車まで繰り出した猛攻で全滅。続く9月の総攻撃も惨敗した。
「ラバウル到着4日目には、もうガ島戦はいくらやっても負けると思った。夜明け前、米軍のB17重爆撃機が数十機襲いかかってきた。サイレンの音で飛び起きると、窓の外は地獄のようだった」と83歳の山本筑郎が当時を振り返る。
爆弾が絶え間なく降り注いだ。はらわたをえぐる轟音。司令部の窓ガラスが吹き飛び、あちこちで火柱が上がった。辛うじて飛び立った戦闘機は次々に撃ち落とされた。30分後、一機の損害もなく悠々と引き揚げていくB17機群を山本は呆然と見送った。
「ラバウルですらこうなのに、敵の制空権下にあるガ島の奪回は不可能だった。東京の大本営が奪回にこだわっている間に、ガ島では飢えで日に100人以上も死んでいった」
■だれも「撤退」を言い出せない状態
10月の総攻撃には新たに約1万8000人が投入された。だが空襲で輸送船6隻中3隻が沈み、失敗。約2万人が補給のない島に孤立した。
「これだけ犠牲を払っても現地の軍司令部からは口が裂けても『撤退させて』とは言えなかった。陸軍の伝統は陛下の命令に命を懸けるということ。その陛下の奪回命令には絶対に背けないんだ」
天皇の命令「大本営命令」は作戦課が原案を作成する。作戦部長、参謀総長らの決裁を経て、最終的に天皇の裁可で発令される。「統帥権(軍の最高指揮権)独立」の建前から内閣や議会は直接関与できず、天皇が参謀本部の原案を拒否することもまずない。
「しかし参謀総長にしてみれば、自分が上奏して陛下の裁可をもらったガ島の奪回作戦だからね。後に引けない苦しみがあった。陛下の方も下から撤退を言ってこない限り、自分から言えない。
おかしなことだが、当時はだれも撤退を言い出せない仕組みになっていた」
大本営命令の重圧で撤退が遅れ、飢餓地獄となったガダルカナル。作戦課からラバウルの司令部に派遣されていた元参謀の井本熊男が言う。
「大本営は、生きていることさえ困難な現地の惨状を知らず、東京の机の上から一方的に指令を出すことが少なくなかった。勝つことしか頭になく、勝てない原因の冷静な分析を欠いたまま一線の尻をたたいていた」
■「奪回攻撃する」と豪語した作戦課長
12月16日未明。大本営の作戦主任、瀬島龍三らを乗せた飛行艇が横浜沖を飛び立った。行く先はラバウルの司令部。ガダルカナルの約2万人の運命を決める旅だった。
選択肢は三つ。攻撃続行か、撤退か、それとも見殺しにするか……。
「ガ島は依然、奪回攻撃する方針である」
参謀本部の作戦課長に就任したばかりの真田穣一郎の言葉に、井本熊男は激しい憤りを感じた。
1942年12月20日、ニューブリテン島ラバウルの司令部で開かれた幕僚会議。作戦主任の瀬島龍三とともにラバウル入りした真田は、既定方針通り近くガダルカナル総攻撃を行うと強調した。
「だが、大本営から真田課長らが来た本当の目的はそんなことじゃない。ガ島現地軍を撤退させるか、全滅するまで戦わせるかの判断資料を握りに来たんだ。それが見え透いてるのに表向き奪回を言う姑息さに腹が立った」と井本は言う。
■残された選択肢は、撤退か玉砕か
本音と逆の強硬論が語られる奇妙な幕僚会議。大本営命令に縛られた軍司令部から撤退を主張する声はなかった。
元大本営参謀種村佐孝著『大本営機密日誌』によると、この会議より2週間前の6日深夜、東京・永田町の首相官邸の日本間で作戦部長田中新一が、和服姿の首相兼陸相、東条英機を怒鳴りつけた。
「このバカ野郎」
田中は東条に、ガダルカナル奪回のため大量の輸送船の調達を迫っていた。だが「民需用船舶が減り、国力が低下する」と拒否され、激高した。
田中の暴言に東条はすっと立ち上がって言った。
「何事を言いますか」
冷たく静かな声だった。
田中は翌日更迭された。田中とコンビを組んできた服部卓四郎も作戦課長を辞めた。
井本が言う。
「強硬なガ島奪回論者の2人の交代は、大本営が奪回をあきらめたことを意味していた。残るは撤退か玉砕かの選択。この重要な問題を真田課長の一行は会議で腹を割って話さず、参謀たちをこっそり個別に宿舎に呼んだりして意見を聞いた」
■「できるだけの人々を救出できるように」
瀬島は陸軍大学校時代の教官だった参謀の加藤道雄から話を聞いた。加藤の答えは真田が残した日誌に記されている。
「個人として言ひます。誰も自分の面目とか悪者にならぬように注意して国家を危くするに非ざるやを恐る。一切の私を去り、大局から善処あり度たし。ガ島に於<おい>ては悲痛なるものあり。今日の海軍の状態、実力からすれば、今奪回は至難なり」
真田穣一郎は司令官今村均にひそかに玉砕案を打診した。今村の答えも真田の日誌に書かれている。
「海軍は陸軍の航空に手頼(たよ)りたいと云ふ気持になりあり。真に意外なり。ガ島は何(いず)れにしても至難、仍(よ)りて死中に活を求むるの策なきやを研究せしめつつあり。転換はこちら丈(だ)けで謂へるものに非ず。中央は海軍との関係をも考へられ、大局的に定められ度。唯(ただ)如何なる場合に於ても、『ガ島の者は捨てて了(しま)ふのだ』といふ考を持たれずに、或(ある)時期に於て出来る丈けの人々を救出出来る様に考へて貰い度。之(これ)(玉砕案)が漏れたら、ガ島の人々は皆一度に切腹して了ふであらう。機密保持に注意あり度」
■瀬島龍三は「撤収以外手はない」と進言
真田はなぜ玉砕案を出したのだろうか。井本が言う。
「ガ島の敵は3倍の勢力があった。こちらは栄養失調でみんな病人。退却してるのがばれて敵の総攻撃を受けたら全滅しかねなかった。当時はだれも無事撤退できると思わず、その場で戦って死んだ方が気が楽なほど難しい状況だった」
12月23日。真田や瀬島らの飛行艇がサンゴ礁で囲まれた海(ラグーン)から飛び立った。その直前、飛行艇に乗り込む瀬島の耳元で見送りの井本がささやいた。
「東京の決断を待ってる。それにのっとってわれわれは現地でやるから」
作戦課長の真田穣一郎は大柄で古武士のような風貌の男だった。手がひと際大きく、電話のダイヤルの穴に指が入らず鉛筆で回したという。
その真田がラバウルからの帰途、サイパン島の航空宿舎で瀬島龍三らを自室に呼んだ。1942年12月24日の深夜。時計の針は午前零時を回りかけていた。
「ガ島作戦について率直な意見を聞かせてください」
真田が瀬島に言った。東京着を翌日に控え、方針を決めなければならない。真田の現地部隊玉砕案はラバウルの軍司令官に拒まれている。
「奪回は輸送船使用が困難で、現地陸海軍部隊は戦いに成算を持ってません」と瀬島。
ガダルカナルへの輸送船問題では半月余り前、大量調達を求める作戦部長が更迭されたばかりだ。瀬島が続けた。
「奪回を断念すると残る案は二つ。一部精鋭部隊をガ島に残し、補給しながら敵飛行場を妨害させるか。それとも撤収か。前者は一時的に可能でも長期は無理ですから、撤収以外手はないと思います」
■撤退作戦を天皇に上奏し、正式決定
話し終えた途端、真田は我が意を得た思いがした。
「全然同感です。それでいきましょう」
瀬島は前課長、服部卓四郎から奪回作戦の立案を指示されていた。だが服部は輸送船問題で作戦課を去り、瀬島もラバウルの参謀たちの本音を探るうちに考えを変えた。
「一 東京で考へたより以上に攻撃再興しても成功の可能性がない。殊(こと)に陸海の実施部隊が殆んど確信をもたぬ。 二 ガ島にとらはれてゐる間に、ニューギニヤが逐次くずれてゆく。 三 海軍の空海戦力を是(これ)以上大消耗してはならぬ」(防衛庁の『戦史叢書』記載「瀬島参謀回想録」)
東京への機中で瀬島は撤退作戦要領と天皇への上奏文を作成した。31日の御前会議で撤退が正式決定。ラバウルの方面軍司令部にいた参謀の井本熊男はその撤退命令を伝える使者としてガダルカナル行きを志願した。井本が語る。
「私はガ島作戦(の失敗)は大本営の責任だと思った。『撤退作戦で全滅した場合、大本営の人間がいなかったら申し訳ない。おれがその一人になってやろう』と思った」
■上陸した参謀が目にした兵士たちの窮状
井本は43年1月12日、ラバウルから駆逐艦に乗り込み、14日夜、ガダルカナル島のエスペランス海岸に上陸。徒歩でジャングルの奥深くにある現地軍司令部に向かった。その時の様子を井本は回想録にこう記している。
「セギロウ河畔のジャングル地帯につくと、ここは第二師団及び東海林支隊等の患者収容所及び野戦病院である。場所は最も湿気の多い日当たりの悪い陰惨な地帯である。通路は泥濘(でいねい)膝を没する悪路、単独の歩行にも極めて困難を感じる位である。両側の鬼気迫るような叢林の中が我忠勇なる将兵の病を養ふ所である。(中略)彼等の相貌は、まるで此世の者とは思はれぬ。忠霊の様な様子をしてゐる。食ふに物なく、ひよろひよろとやつと歩いて居るものは、多くは頻繁で激烈なる下痢の始末の為である。便所は臥床のすぐ隣りで、臭気嘔吐を催すものがある。如何(いか)に苦しくても、戦友も亦(また)看病するに力なき者ばかりである」
15日夜、井本は司令部に到着。まず参謀長の宮崎周一と高級参謀の小沼治夫に撤退命令を伝えた。井本の説明が終わると同時に2人が口をそろえて反論した。
「大命による命令に背くわけではないが、この戦況下で撤退などできるか。ガ島奪回が望みなしならば、このまま軍司令官以下で敵陣に切り込む。一人残らず玉砕し、皇軍はかくすべきものという道を示した方が、国家、国軍のためにどれほどよいか」
井本は泣きながら2人を説得した。
「そういうご意見が出ることはラバウル出発前から想像しておりました。しかし今回のことは大本営命令に基づくもので、特に陛下から、ぜひ万難を排して撤退させるように、というお言葉が出されているのです」
■軍隊の論理のために2万人以上が犠牲に
撤退か、玉砕か。3人の論議は堂々巡りした。漆黒の空に砲声が響き、天幕の中では一本のろうそくの炎がかすかに揺れていた。
翌16日、夜が白み始めたころ、井本は大木の根本にある洞窟に軍司令官百武晴吉を訪ねた。撤退命令を伝えると百武は「熟慮したい」と即答を避けた。
正午ごろ、百武は井本を洞窟に呼んだ。
「軍は命令を遵守してその達成に全力を尽くす。ただし撤退が完全にできるかどうかは予測できない」
ガダルカナル島からの撤退は2月2日から8日までの3回、海軍の駆逐艦で決行され、成功した。米軍が攻撃準備と勘違いし、追い打ちをためらう幸運に恵まれたからだ。
だが、10月の最後の総攻撃失敗から撤退まで3カ月余。その間、天皇の名で出された命令の重圧の下で約2万人が食料も弾薬もなしに孤立させられた。多数の人命より、天皇に対する「メンツ」が優先する硬直した軍隊の論理。ガダルカナル島への総上陸人員約3万1000人のうち生還者は約1万人にすぎなかった。
※登場人物の年齢、肩書きなどは1995年の新聞連載時のものです
(共同通信社社会部)
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