旧日本軍の細菌戦部隊、通称「731部隊」の実態が徐々に明らかになっている。長年、口を閉ざしてきた元隊員たちは何を語ったのか。
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第3回/全4回)
■ある村を襲った、悪魔のような出来事
緑のポプラ並木が南へ真っすぐ続いていた。道の両側にはトウモロコシや小麦の畑が地平線まで広がる。中国・東北部(旧満州)のハルビン市街から車で約30分。夏の日差しがまぶしい平房地区の農村で、1995年7月初め、私たちは靖福和(61)に会った。白髪交じりの頭、温和な眼差し、握手した右手をゆっくりと離す。
「悪夢のような出来事でした。この村がペストに襲われ、父と姉弟の3人が死んでしまったんです。村中に死人があふれ、腐臭が立ち込めました」
地元の飛行機製造会社を定年退職し、今は娘や孫に囲まれて暮らす靖が、11歳の時の記憶をたどり始めた。
45年8月10日すぎ、村から西へ3キロの関東軍防疫給水部(通称731部隊)で爆発が起きた。
「ゴーッという爆発音に驚いて外に飛び出しました。昼間なのに空が光り、5階建てビルより高い黒煙が何本も噴き出していました。
以前からそこに日本人がいることは分かってたけど、何をしているのか全然知らなかったんです。子供はもちろん大人も近づくことはできなかったし、汽車に乗って近くを通る時も窓のカーテンを下ろさなければいけなかったから」
■10歳の弟は真っ黒な血を吐いて死んだ
爆発が4日間ほど続いた後、部隊から逃げ出したネズミの大群が村に押し寄せた。トウモロコシの貯蔵かごに茶色や白のネズミがひしめき合い、大豆畑は食い荒らされて丸裸になった。
「ネズミの大群は冬眠のためいったん姿を消しましたが、翌年春には再び姿を見せるようになりました。村を歩くとそこら中にネズミの死体が転がっていて、そこにノミがいっぱいたかっていました」
小麦の収穫が始まった46年7月末、村で最初のペスト患者が発生した。靖の父如山(40)、姉(14)、弟(10)も相次ぎ高熱を出した。
「3人のわきの下、耳の下、足の付け根など体中のリンパ節がはれ、首は頭と同じ太さに膨れました。ものも言えず水も飲み込めない。手当ても何もできず、ただうめき続けるのを見守るしかなかったんです」
発病3日目の朝、姉は苦しげに顔をゆがめ目を見開いたまま息絶えた。父はその日正午、姉の後を追った。
「残った弟のまくら元で『どこが痛いの』と懸命に話し掛けました。でも弟は『お兄ちゃん』と呼ぶこともできず真っ黒な血を吐いて死にました。
父の死の2時間後でした。弟の悲痛なうめき声と表情は忘れられません。遺体を埋葬しようにも伝染病だということが分かって、村の人はだれも手を貸してくれませんでした。遺体が腐って、臭いが家の中に充満しました」
■「731部隊はペスト菌をばらまいて逃げた」
ペストは3つの村で猛威を振るった。死者は半年間で117人。731部隊が発生源と分かったのはそれから間もなくだった。
極秘に細菌兵器の開発を進めていた平房の731部隊の跡地を靖に案内してもらった。施設の大半は破壊され、今は学校や工場が立ち並ぶ。片隅の草むらに731部隊の壊れかけたボイラー室の壁と、高さ30メートルの煙突が2本ひっそりと立つ。壁面からぐにゃりと曲がった鉄骨が突き出している。
その瓦礫を踏みしめながら靖は言った。
「母や祖母は、3人が死んでから毎日泣き暮らしていました。
それを見ながら言葉で言い表せないつらさを味わってきました。731部隊は悪行の証拠を消すため施設を爆破し、ペスト菌をばらまいて逃げた。苦しみながら死んでいった弟たちのことを考えると恨んでも恨みきれません」
■天皇陛下を守るための「後始末」
靖福和の一家を絶望のどん底にたたき込んだ731部隊。その撤収命令を出したのは大本営の対ソ作戦担当参謀、朝枝繁春だった。
「あの時は決死の覚悟だった。ソ連に731部隊の人体実験の証拠を握られると、まかり間違えば天皇陛下まで責任を問われかねない。それだけは絶対阻止しようと満州に飛んだ」
83歳になった朝枝が、川崎市の自宅で50年前の出来事を振り返った。切れ長の鋭い目付き。顔を紅潮させ、野太い声でまくしたてる。
1945年8月9日未明。ソ連軍は満州北東のアムール川や、西のモンゴル平原の国境線を破り、進攻した。関東軍国境守備隊との激しい戦闘が始まった。

「僕が関東軍から『ソ連と交戦状態に入った』と直通電話で連絡を受けたのは午前4時だった。すぐ大本営の対ソ作戦命令を書き上げ、11時には関東軍総司令部やソウルの司令部に電報を打ち終わった」
その直後の午前11時2分、長崎に原爆が投下された。翌10日未明、御前会議で国体護持を条件にポツダム宣言受諾の方針が決定した。朝枝は混乱する参謀本部を後に、東京・立川の飛行場から軍用機に乗り込んだ。
10日正午すぎ、偵察機や連絡機が慌ただしく離着陸する満州の首都・新京の飛行場に着くと、180センチを超す長身の男が滑走路で待っていた。太い八の字の口ひげ。金地に二つ星の襟章。731部隊の創設者の軍医中将、石井四郎だった。
■「根こそぎ焼き捨ててください」
朝枝はつかつかと石井に歩み寄り、声を張り上げた。
「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします」
石井は背筋をぴんと伸ばし、直立不動の姿勢を取った。
「貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください」
石井は母校京大などから優秀な医学者を集め、ハルビン郊外の平房に世界最大規模の細菌兵器開発基地をつくり上げていた。

朝枝が「細菌学の博士は何人ですか」と聞くと、石井は「53人」と答えた。朝枝は「53人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」と指示した。
「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」
石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。
「ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね」
朝枝は、思わず声を荒らげた。
「何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」
■実験器具も、書類も、捕虜も「処分」
新京から北東へ約200キロの平房では石井の指示で731部隊の撤収作業が始まった。
研究者らは細菌培養の実験器具を粉々に割った。窓から大量の書類を地面に放り投げ、燃やした。人体実験材料の中国人捕虜ら400人余は一人残らず殺した。関東軍の工兵隊員らが駆け付け、研究棟や特設監獄、毒ガス実験室などを破壊し始めた。
「11日の昼すぎだったと思う。
『石井部隊長の演説があるから集まれ』と連絡があって線路わきに行くと、高さ約4メートルの石炭山の上に石井部隊長が立っていた」
元隊員の越定男(77)はその光景を今も鮮明に覚えている。
隊員ら約500人が直立不動の姿勢で見守る中、石井はすさまじい形相でしわがれ声を張り上げた。
「部隊の秘密はどこまでも守り通せ。帰国後は公職に就いたり、隊員同士で手紙を出し合ったりしてはいけない」
右手でわしづかみにした軍帽で額の汗をぬぐい、石井が隊員たちをにらみつけた。
「もし秘密を漏らす者がいたら、この石井がどこまでも追いかけるぞ」
■ホルマリン漬けにされた白人男性の生首
福岡県育ちの小笠原明(67)が731部隊の技術者を養成する「少年隊」に入ったのは43年4月。14歳の時だった。小笠原が証言する。
「平房の部隊では任務が何かを教えられないまま細菌学を勉強させられたんです。ある日、標本室の掃除を命じられ、ドアを開けたら、目の前にホルマリン漬けの生首があった」
赤茶の髪に高い鼻。目を見開いたままの白人男性の首だ。横には背骨が反り返った破傷風患者の人体標本が……。
「それで初めて731が何をしてる部隊なのかぼんやりと分かったんです」
小笠原は翌春、昆虫飼育班に配属された。昆虫とは細菌兵器の主役、ノミのことだ。部隊の創設者石井四郎は、ペストに感染したノミによる細菌爆弾を開発していた。
高さ30センチの18リットル缶の底にふすまを敷いてノミ床をつくり、数百匹のノミをまく。そこに野生のドブネズミを1匹入れる。ネズミは固鼠器という小さな金網かごで身動きできなくしてある。
「ノミはネズミの血を吸って急速に繁殖する。しかしジャンプ力が25センチ程度しかないから、缶からは逃げられないんです」
■ペスト菌に感染されたノミが人を襲った
ノミの回収にはノミが光に弱い性質を利用する。ノミ床を陶磁器製の空の浴槽に入れる。浴槽の底には水抜き穴が開いている。
「裸電球の光を当てると、ちりぢりになっていた茶褐色のノミが一斉に動き出し、暗い穴にサーッと追い込まれていくんです。それを穴の下に置いたガラスの液量器で受け、ノミの量を計る。1カ月で517倍には増えましたね」
部隊には約4500個の飼育缶があり、数カ月で約1億匹の生産能力があった。
「増やしたノミと、ペスト菌を注射したネズミを一緒に陶器製爆弾に入れる。飛行機からその爆弾を落とすと、地上すれすれで破裂し、菌に感染したノミが人を襲うんです」
部隊は40年から42年にかけ、中国・揚子江南側の都市に細菌爆弾を投下した。寧波市には5キロのペストノミがばらまかれ、約100人の死者が出た。小笠原が言う。
「教育係の曹長に『お前が育てる0.2、3ミリのノミが戦車より強力なペスト爆弾になる』と言われてね。重大な任務だと誇りに思いました」
■生きた中国人の上半身にメスを切り下げた
52年前、少年の小笠原が足を踏み入れた死の細菌兵器工場。その狂気の実態は、同じ少年隊員だった鎌田信雄(72)の証言でさらに明らかになっていく。
浅黒い肌のたくましい中国人だった。手足は手術台に縛られている。死を覚悟したのか目を開けようとしない。
「のどから、へその2センチ上まで切りなさい」
軍医の言葉に16歳の少年隊員鎌田信雄は、男ののど元にメスを当てた。満州・平房の731部隊特設監獄の一室。のどが波打っている。麻酔はしていない。指に力を入れ、一気に切り下げた。
「ギャーッ」
すさまじい叫び声。男は目をむいてのけ反り、次の瞬間がっくりと気絶した。メスはのどの10センチ下で止まっていた。
太平洋戦争開戦1年前の40年、鎌田は生体解剖を初めて経験した。
「頭の中が真っ白で何も考える余裕はなかった。言われるまま、それから思い切ってへその上まで切開した」と鎌田が振り返る。
■「マルタ」と呼ばれる捕虜たちが実験材料に
解剖はペスト感染した人間の内臓の変化を見るためだった。切開を終え、部屋を出る鎌田の全身が震えていた。技手が優しく声を掛けてきた。
「生きてるマルタを解剖するのはこういうことなんだ。分かっただろう」
中国人やロシア人捕虜たちはマルタ(丸太)と呼ばれた。大半はスパイや抗日活動容疑で憲兵隊などに捕まった人たちだ。年間約600人が細菌感染や凍傷、毒ガスなどの人体実験材料にされ、終戦までに少なくとも3000人が殺されたといわれる。
鎌田は太平洋戦争が始まる4年前の37年末、731部隊の少年隊員一期生として満州に渡った。同期生は二十数人。一般教養や外国語、衛生学など、1日3時間しか眠れないほど猛勉強の日々が約1年半続いた。その後、ペスト菌培養班(高橋班)に配属された。
高橋班の研究室は、平房の731部隊本部で最大の建物「ロ号棟」の3階にあった。毎朝宿舎を出て、地下道から厳重な二重扉をくぐり、「ロ号棟」に入った。
「3階の窓から、中庭で足かせをつけたマルタが運動させられてるのを何度も見かけた。その中に三組の母子がいたのを今でもよく覚えている。赤ん坊を抱いた中国人女性と、4、5歳ぐらいの女の子を連れたロシア人女性、それに6、7歳の男の子を連れたロシア人女性だった」
■日本人墓地から「標本」を持ち帰る任務
ペスト菌の培養は、ネズミから採取したペスト菌を入れた生理的食塩水を遠心分離機にかけることから始まる。分離した菌を寒天の入ったシャーレに入れ、常時22度の室温を保つ部屋に一昼夜置く。
「この寒天には、肉のエキスと卵と牛乳が混ざっていて、ペスト菌はそれを栄養にして増えていく。一昼夜たって、納豆のようにねばねばしてきた寒天の表面をかき集めて、また生理的食塩水に溶かし込み、遠心分離機で不純物を取り除いた後、ネズミに注射する。ペスト菌はネズミの体内でより強力な菌になる」
培養室は8畳ほどの広さの銅板張りの部屋で、50枚から200枚ほどのシャーレが並んでいた。実験に使った器具は滅菌室に備えられた大型滅菌機に入れられ、300度の高温で消毒された。鎌田らは防菌着や手袋、長靴、マスクで体を覆い、作業が終わると、防菌着のまま昇汞水のシャワーを浴びた。
40年秋。鎌田は満州の首都・新京の国立衛生技術廠に派遣された。当時、新京ではペストが大流行し、2000人以上の死者が出ていた。
「技術廠で防疫の仕事を手伝っている最中の11月半ば、731の本部から『ペストで死んだ一般人が土葬されているから、墓地に行って、死体を裂いて、肺と肝臓とリンパ腺を標本にして持って来い』という指示がきた。それで夜の12時ごろ、兵隊5人と一緒に、人目に付かないようにして新京郊外の日本人墓地に行った」
■月36円の療養費は口止め料だったのか
真新しい卒塔婆の立つ墓には、ペストで死んだばかりの20歳前後のタイピストの女性が埋葬されていた。スコップで1メートルほど掘り返し、棺を開けた。
「他の兵隊はいやがったので、私が一人で死体から内臓を取り出した。メスやピンセットを使って、ペストに侵されて黒く変色した肺やリンパ腺の一部を切り取ってシャーレに入れた。死体の顔は一度も見なかったよ」
翌年1月、鎌田自身もペストに感染した。ハルビンの陸軍病院で731部隊がつくったワクチンを投与され一命を取り留めた。43年帰国。郷里の岩手県で療養生活を送った。
「帰国後は月36円の療養費が部隊から送られてきた。口止め料だったのかどうか分からないが、私の行動は毎日憲兵や特高に監視されていた。731の秘密は墓場まで持っていくつもりだったけど、同じ少年隊員らに『一番内実を知っているお前が話さないと歴史の一コマが抜け落ちる』と言われたりしてね、悲惨な体験を二度と繰り返してほしくないので話すことにした」
※登場人物の年齢、肩書きなどは1995年の新聞連載時のものです

(共同通信社社会部)
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