敗戦後、捕虜となった日本人がシベリアなどへ送られ、過酷な労働を強いられた。約5.5万人もの命を奪ったのは何だったのか。
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第4回/全4回)
■スターリンが発した「極秘指令」
「捕虜をシベリアで労働させようというのはスターリンのアイデアなんだ。関東軍の降伏前から、彼の頭の中には戦争で疲弊した国民経済復興に捕虜の労働力を使おうという考えがあった。問題は関東軍がいつ降伏するかだけだった」
極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの副官だったイワン・コワレンコが言う。
ソ連では1930年代に囚人労働を国家建設に使う強制収容所が全土に広がった。41年からの独ソ戦が優勢になるにつれ、ドイツ人捕虜用の収容所建設が本格化した。45年5月のドイツ降伏時にはドイツ人捕虜だけで約350万人が各地で使役されていた。
対日参戦2週間後の8月23日。スターリンは日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
一、極東、シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選抜すること。

二、捕虜をソ連邦に移送する前に、1000人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、とくに日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍事捕虜を指揮官に命ずること。

■捕虜がどこで働くかも計画されていた
極秘指令は詳細を極めた。シベリアを中心に数十カ所の建設現場・工場などへの捕虜割り当てを1000人単位で定め、収容所への燃料や衣服の供給量まで具体的に指示した。これは、日本軍の使役が対日参戦前から計画されていたことを裏付けている。
日本人捕虜向け「日本新聞」の準備も対日参戦前に始まった。8月初め、コワレンコの編集長就任が決定した。9月15日には第一号が発行され、捕虜の思想教育まで事前に準備されていたことが分かる。
だが、一方で「シベリア抑留は対日参戦前に決まっていた」というコワレンコ証言とは、一見矛盾した内容の文書も見つかっている。8月16日付でモスクワからワシレフスキーに打たれた電報だ。
日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土内に移送しない。軍事捕虜収容所はできる限り日本軍の武装解除地に設ける。捕虜収容に関する問題処理と指導のためソ連邦内務人民委員会軍事捕虜担当総局長クリベンコ同志が出張する。
■日本政府への政治カードだった関東軍
同じ日、スターリンは米大統領トルーマンへの電報でソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領を要求した。
トルーマンは2日後の返電で千島列島を認め、北海道北半分の占領は拒否した。
一連の電報を基に『シベリア抑留秘史』の著者のロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフは「スターリンは北海道占領を拒まれたためシベリア抑留に踏み切った」と指摘した。
だがコワレンコは言う。
「それはボブレニョフの空想だよ。北海道領有と抑留は関係ない。16日付電報は捕虜を暫定的に降伏地に止めておけという意味。責任者が行くまでソ連領に運ぶなということだ」
ロシアの著名な歴史学者ロイ・メドベージェフも同じ見方だ。16日付電報の発信者は内務人民委員会のベリヤら3人で、スターリンの署名がない。
「この電報はスターリンの指示を仰ぐ前の段階に打たれたもので、23日のスターリンの極秘指令とは全くレベルが違う。ベリヤらは関東軍を当面満州に止めておくように指示し、受け入れ態勢を整えた上でスターリンの移送指示を受けた。スターリンにとっては関東軍が労働力としてだけではなく、日本政府への政治カードとしても必要だったんだ」とメドベージェフ。
スターリンの思惑一つで決まったシベリア抑留。
厚生省によると、極寒の地で過酷な労働を強いられた日本人は57万5000人。うち5万5000人が帰国を果たせないまま死んだ。
■身元が確認された遺体は2.4万人だけ
青い矢車草が風に揺れていた。白樺の根元に並ぶ高さ約20センチの土饅頭。囲いも墓標もなく、腰の高さまで茂る夏草に覆われている。
1995年7月9日、アムール川ほとりの工業都市コムソモリスクナアムーレの郊外。ひっそりと立つ白い慰霊碑がなければ、ここが日本人捕虜の墓地だとは分からない。
「ここには約500人が葬られているそうです。この土饅頭も11月には雪に埋まり、見えなくなってしまう」とガイドのロシア人青年。
シベリアを中心にソ連全土に点在した日本人捕虜の収容所は約1200カ所に上る。抑留中に死んだ5万5000人のうち、厚生省が身元を確認したのは2万4000人だけだ。死者の大半が遺族の墓参を受けることもなく凍土の下に眠っている。

■ミイラのようにやせた死体が山積みに
元関東軍の初年兵、田中秀一は50年前、コムソモリスクナアムーレから西へ約600キロの炭鉱街ライチヒンスクで初めてシベリアの冬を迎えた。田中が当時を回想する。
「仲間が栄養失調でミイラのようにやせ、次々死んでいった。凍って硬直した死体が裸のまま収容所の小屋に山積みにされ、そのうちマネキン人形を担ぐようにトラックでどこかに運び出されていった」
長さ20メートルほどの細長い木造バラック十数棟に約4000人が詰め込まれた。高さ3メートルの板塀と有刺鉄線が周囲に張り巡らされ、四隅の望楼には銃を構えたソ連兵が立った。
食事は毎食とも、たばこの箱大の黒パン1切れと、朝夕にスープ、昼が大豆の水煮をそれぞれ空き缶に1杯。ソ連当局が定めた捕虜一人当たりの給養規定(肉と魚計150グラム、野菜600グラムなど)は全く守られなかった。
「黒パンにはヒエやコーリャンが殻ごと入り、時にわらも混じっていたが、飢えた私らには大変なごちそうだった。十数人の作業分隊に配られる一塊のパンをどう平等に分けるか。それが大問題だった」
■氷点下40度の「シベリアダンス」
両側に丸太造りの2段ベッドが並び、間に狭い通路があるだけの殺風景な部屋だった。空き缶に油布を入れて燃やすランプの薄暗い光の下、一塊のパンを十数人が取り囲んだ。
「ランプのすすで顔が真っ黒に汚れたひげだらけの男たちが目をぎらぎらさせてパンをにらむ。
『あっちが大きいぞ』『これは小さい』といつも文句が出た。切った後に残る小さじ1杯分のパンくずが欲しくてたまらなかった」
田中らはすき腹を抱えたまま露天掘りの鉱山での労働に駆り出された。氷点下40度を下回るシベリアの冬。吐く息はたちまち凍り、まゆやひげは真っ白になった。
「じっとしてると凍傷になるから休憩中も鼻をもみこすり、足踏みを続ける。だれ言うともなく『シベリアダンス』と名付けられた。体中を針で刺されるような寒さ。死んだ方が楽と何度思ったか……」
夜はシラミと南京虫の来襲で体中がかゆく、疲れた体を休めることもできない。捕虜たちは見る見るやせ細った。
だが、尻の肉がそげ落ち、つまんだ皮膚が山の形のまま元に戻らなくなるまで作業は休めなかった。検診で体の異常を訴えても、尻の肉をつまむ女医の言葉はいつも同じだった。
「富士山ナイ。
インチキ。仕事、仕事」
ソ連全土が食料難に見舞われ、伝染病も流行した最初の冬。田中の収容所では捕虜の1割近い約300人が栄養失調や肺炎で死んだ。
■ぼろぼろ欠ける爪は「死のサイン」
「毎晩、同じ夢を見たんだよ。家内と一緒に故郷の田んぼで農作業している夢を……。
このままシベリアで働かされ続けたら、おれは二度と日本に帰れない。自分の命を守る方法は一つしかないと、ある晩ついに決心した」
1947年3月。関東軍上等兵だった大田喜豊(80)は、ウラル山脈のふもとにあるウファの収容所で栄養失調に苦しんでいた。顔がどす黒くなり、骨と皮だけだった手足がむくんできた。爪を指ではじくと、ぼろぼろ欠けた。今までこうなった仲間は必ず1週間以内に死んだ。
翌朝、ふらつく足で森林伐採作業に出た。監視兵の目を盗み、直径約20センチの松の丸太を右手で持ち上げた。雪の上の木材に左腕を乗せ、それをめがけて力いっぱい丸太を振り下ろした。骨が折れる鈍い音がした。
「見ると、左腕が内出血で紫色にはれ上がり、途中から折れ曲がっていた。だけど痛みはほとんど感じなかった。腕1本犠牲にしただけで1カ月はつらい作業に出なくて済む。それがうれしかった」
ソ連当局が課す過酷なノルマ。松の大木を日に5、6本切り倒し、のこぎりで長さ2メートルの丸太に切り分ける。それを幅2メートル、高さ1メートルに積み上げるまで作業は終わらない。
■ソ連兵にただ従う「大尉」と「少尉」
収容所では旧軍の階級制度が生きていた。作業分隊約100人の隊長(大尉)は作業に出ず、当番兵らと収容棟奥の本部にいた。その下の小隊長(少尉)3人は現場の監視係だった。彼らはノルマ達成のため病気の兵隊を重労働に駆り立てた。
「現場でたき火に当たってる小隊長がソ連兵に『能率が悪い』と責められると、班長の軍曹に文句を言う。すると軍曹はおれたちを怒鳴る。ソ連の指示を『天皇陛下の命令』のように受け止めて、従うのにきゅうきゅうとしてた」
黒パンとスープだけの夕食が終わると、通路に全員が並ばされた。特別食のおかげで血色の良い隊長が、元気な声を張り上げた。
「東向けー。皇居遥拝、最敬礼」
全員が東を向き、深々と頭を下げた。それから軍人勅諭の斉唱が始まった。
「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。一つ、軍人は礼儀を正しくすべし……」
栄養失調で連日のように死者が出る中、儀式は続いた。
■パンを盗んだ二等兵を助ける人はいなかった
ある日、松本という名の二等兵が仲間のパンを盗んだ。松本は秋田出身の年配の補充兵だ。ひどい栄養失調でやせ細っていた。小隊長が松本を通路に立たせ、縄で後ろ手に縛り上げた。
「このばかやろう、それでも貴様は日本軍人か。みんなの見せしめだ」
松本はほおを殴られ、通路の土間にあお向けに倒れた。小隊長は水筒の水を口と鼻に注ぎ込んだ。
「うわーっ」
苦しみ、もがく松本の姿を見てもだれも止めようとはしなかった。
リンチは約10分間続いた。翌朝、松本は冷たくなっていた。死体は出入り口の土間に転がされ、すぐ寒さで凍りついた。
自ら左腕を折って生き延びた大田が言う。
「リンチは珍しい出来事じゃなかった。みんな人間じゃなくなる。畜生だよ。日本人が弱い日本人を死に追いやったんだ。あれほど多くの死者が出たのは決して飢えと寒さのせいだけじゃない」
■スターリン信奉者になった元日本兵たち
元関東軍作戦班長、草地貞吾の前に立ちはだかったやせぎすの日本人青年は目を血走らせていた。青年は草地が着けている星三つの大佐の襟章を指さし、叫んだ。
「まだ階級章を着けているとは何事だっ。外せ!」
1948年3月、シベリアの寒村ムーリーの停車場。抑留3年目の草地ら将校三十数人は約200キロ西の収容所から鉄道で移送されてきたばかりだった。到着を待ち構えていた青年捕虜のけんまくが理解できず、草地は戸惑った。
「適当にあしらって追い払ったが、その日着いた収容所は全く別世界だった。至る所に赤旗や『天皇制打倒』と書かれたプラカードが掲げられ、食堂にはスターリンの肖像画が飾ってあった」と草地が振り返った。
収容所の営門で、草地らは捕虜たちの怒鳴り声に迎えられた。
「こいつらは天皇の手先だ、殺せ。白樺のこやしにしてしまえ」
夕方、別の捕虜たちがスターリンをたたえる歌を歌いながら、作業現場から戻ってきた。食堂で草地を数十人が取り囲み、罵声を浴びせた。
「われわれを苦しめた張本人にメシを食わせるな」
草地はその夜、毛布にくるまって泣いた。
「ついこの間まで陛下に命をささげた青年たちが、これほど変わってしまうものかと悲しくなったんだ」
※登場人物の年齢、肩書きなどは1995年の新聞連載時のものです

(共同通信社社会部)
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