(取材日:2025年5月28日)
■人生になかった選択肢「プロレスラー」
プロレスラーになるなんて選択はまったくなかったんです。24歳まで――2022年の夏までは、プロレスのことをまったく知らなかったし、見たこともありませんでした。
私がプロレスラーになれたのは、周りのみなさんにレールを敷いてもらえたからなんです。自分の気持ちを固めて覚悟するというよりも先に、私の前にはリングに上るという道ができていました。みんなに背中を押されて、一歩一歩進んだら、プロレスラーになれたという感じで。いま私がここにいるのは、運が良かったからなんです。
■寿司屋の娘は料理人の道へ…
出身は、名古屋から車で南に30分ほどのところにある愛知県知多市です。お父さんがお寿司屋さんだったので、小さい頃は、毎晩、常連さんと並んでカウンターでお寿司を食べていました。そのせいか物心つく頃から将来は料理に関わる仕事をするんだろうなと思っていました。名古屋市にある調理師免許が取れる高校を卒業して、念願だった「なだ万」に就職したんです。
なだ万は、歴史があるだけではなく、海外にも店舗がある老舗料亭です。なだ万出身の板前が宮廷料理人になったと聞いて、私もそんなふうになりたいと憧れていました。
配属されたのは、名古屋東急ホテル内にある「名古屋なだ万」。1年目は、八寸場という煮物や先付けをつくる部署の一番下っ端として修行しました。板前で女性は私だけ。あと25人はみんな男性でした。女扱いされたくなくて、男性の新人と同じように怒ってもらいました。
3年目からデザート場をひとりで担当して、ちょっとずつ技術を身に付けて、少しずつ立場も上がっていきました。なだ万では、10年くらい続けて、やっと一人前として認められます。私も10年はがんばろうと思っていたのですが……。
■コロナで給料激減、一度包丁を置いた
問題は4年目の2020年。八寸場の責任者をまかせてもらえました。
4月に入って緊急事態宣言がきて、ホテルも営業できなくなってしまいました。仕事がなくて、たまに出勤しても掃除するだけ。コロナ前は、残業代などを含めると大卒の初任給くらいはもらっていましたが、給料がひどい時で月6万円くらいまでに減ってしまいました。
5月に緊急事態宣言が明けて、やっと少しずつ仕事ができるようになったと思ったら、また感染者が増えて営業ができなくなって……という繰り返し。ここで踏ん張っても、調理師として明るい未来なんてあるんだろうか。私は何をしているんだろう……。そんなふうに悩みはじめたら、心が折れてしまって。
退職したのは、8月です。そのあと、名古屋の繁華街である栄のスナックで働きはじめました。スナックも夜の営業ができなかったのでランチ営業を手伝いながら、次に何をしようか考えようと。
■体重激増でスナックで働けなくなった
プロレスラーという選択肢、ですか?
ぜんぜん。プロレスとの出合いはまだ先です。
通常の営業ができるようになると、夜もスナックに出勤するようになりました。体重は、いまの半分くらい。いまは156センチで96キロなんで、50キロくらいだったのですが、お客さんから同伴やアフターで美味しい物をいっぱい食べさせてもらっていたら、どんどん大きくなっちゃったんです(苦笑)。
スナックを続けるのは厳しいんじゃないか。ママにそれとなく仄めかされまして……。ただお酒を飲むのは好きだから、次はスポーツバーで働くのもいいかなと考えていました。
そんなときに思い出したのが、コロナ禍で目にしたTikTokです。女子プロレスラーが、チュロスとかのお菓子をつくる動画でした。そのレスラーは、SEAdLlNNNG(シードリング)の世志琥(よしこ)さん。当時はお名前を知りませんでしたけど。
■「プロレスいいかも」くらいの気持ちでバーへ
プロレスか。いいかも、と名古屋のプロレスバーで働きはじめたのが、2022年の夏。店内には、大きな画面が2つ設置されていて、映像を見ながら、お客さんたちがプロレスについて語り合い、プロレスを愛でる空間でした。そのうちお客さんと一緒に会場にプロレスを見に行くようになり、私自身も、プロレスの面白さに気づきました。
たとえば、キラキラ系の女子レスラーを見ると、うれしい気持ちになって元気をもらえるし、ガチガチの真剣勝負を見たら、女子でもこんなことができるんだ、純粋にスゴいと感じました。
それに……日常生活で闘いなんてないじゃないですか。それが最前列で、女の子たちが本気で闘う姿を見られるんです。アイドルみたいにかわいいコスチュームを着た女の子が、汗や血でぐちゃぐちゃになりながら、バチバチで闘っていて。はじめて見た瞬間は、本当に驚きました。私の目の前で、言葉にできないようなことが行われていたんです。
2回目か3回目の観戦が、金網マッチでした。金網の上から女の子が飛んだり、金網の上で殴り合ったり……。
■「飲み屋のノリ」でオーディションを受けた
確か、その2カ月後くらいでした。ある団体が女子レスラーのオーディションをするという話を聞きました。年齢などの応募条件はクリアしていたので、お客さんやお店のスタッフに勧められて受けてみました。もちろん本気だったわけじゃありません。レスラーになれたらいいなくらいの気持ちで。まさか自分がレスラーになれるなんて考えてもいませんでしから。
いま思えば、完全なノリ。飲み屋のノリだったんです。
オーディションは実技試験で落ちてしまいました。ただ狭い業界なので、ワールド女子プロレス・ディアナのスタッフが、私のことを聞いていたみたいで。
調理師になるという子どもの頃からの夢を諦めて、ノリで飲み屋で働いていたわけです。だからノリで練習生をやってみるかって。
■社長に「で、いつ来るの?」と言われて…
あれは、道場で練習を初めて見学させてもらったときだから、2022年12月です。ディアナの社長である井上京子さんが営む武蔵小山の居酒屋に挨拶にいきました。実は、京子さんのことはプロレスバーで名前を聞いたことがあるかなというくらい。どんな人なんだろうとGoogleで検索したんです。
あ、スゴい人じゃん。レジェンドじゃんって。どんなにスゴいレスラーなのか、初めて知りました(苦笑)。
「で、いつから来るの?」
挨拶をした私に、京子さんはそう切り出しました。
まだ名古屋のプロレスバーで働いていましたし、昼は事務のバイトも掛け持ちしていました。引き継ぎを終わらせて上京できるのは、早くても春です。そんなふうに応えた覚えがあります。
緊張したなんてもんじゃないですよ。ジョッキに入ったキンキンに冷えた緑茶をガンッと出していただいたのですが、緊張して一口も飲めませんでした。面談が終わって、残すわけにはいかないと一気に飲み干しました。そしたら、お腹を下しちゃって。武蔵小山駅のトイレに1時間くらい籠もるハメになっちゃいました。
■ノリで決めた人生の選択がガチになった時
それから春まで、週2回、高速バスで上京して、ディアナの道場に通いました。練習は夕方からなので、朝8時過ぎに名古屋駅を出るバスに乗って、新宿のバスタに着くのが14時頃。新宿から電車で道場がある神奈川県の川崎まで行って、練習したあとに夜行バスで帰るか、寮が空いているときは泊めてもらいました。
中学までは柔道をやっていたんですけど、本格的な運動は、ほぼ10年ぶり。リング上で前転や後転をやっただけなのに、全身筋肉痛。あれはキツかったです。
プロレスを仕事にする。本気で腹をくくれたのは、2月に開催されたディアナの名古屋大会です。愛知県出身の練習生として、お客さんの前で紹介してもらったんです。
そのときですね、ノリだけじゃなくて、ガチでやらなきゃいけないと気づいたのは。それに、ノリで練習生になった私を先輩たちが本気で指導してくれるわけじゃないですか。私も本気にならなくちゃ。もうやるしかない、って。
■プロレスを知って1年でプロデビュー
4月にこっちにきてからは、8月のプロテストを目指して寮と道場の往復の毎日です。ディアナのプロテストでは、スクワット、腹筋、背筋、ライオンプッシュアップを各100回ずつ。受け身とブリッジ、首の回転ブリッジ。あとはロープワークなどです。
無事、プロテストに合格して、10月8日に後楽園ホールでデビューできました。デビュー戦は、7分くらいで負けました。頭のなかが真っ白で、何をどう闘ったのかぜんぜん覚えていません。
月に10試合くらいするので、デビューから1年半で、たぶん160戦くらいは経験しているはずです。私の理想は、大きくて動けるレスラー。デカいけど、走れて、飛べる。ほかの団体からも必要とされるような需要のあるレスラーになりたいんです。そう考えるようになったのは、見る側から、出る側に立場が変わったからです。
■見る側から出る側になって人生観が変わった
ひとつの興行にどれだけの人が関わっているのか知りましたから。スタッフがいろいろなお店に営業してポスターやチラシを貼らせてもらって、レスラーたちも地元のスポンサーやメディアに挨拶に行って……。私たちは、お客さんに楽しんでほしい、満足してもらいたい、という気持ちでリングに立つ。
たくさんの人の思いがあって、ひとつの試合が成立します。それがいかに大変か。うまく伝えられませんが、興行を成功させたあとには、達成感だけじゃなくて、儚さみたいなものを感じるんですよ。
先週、名古屋で凱旋興行をしていただきました。プロレスを知らない地元の友だちや、プロレスバー時代のお客さんが「満月が出るなら」とたくさん応援にきてくれたんです。ホントにうれしくて。見る側から、出る側になって、人生観が、いえ人生自体が間違いなく変わりました。
■いずれ結婚、出産もしたい
辞めたいと思ったことですか?
それは、ないです。いまもバイトを続けながらですが、プロレスがいまの私がやらなきゃいけないことだと捉えているんです。
ただもうすぐ仲良くしてもらった先輩たちが何人か引退してしまうんですよ。みんな30歳くらいになり、結婚や出産を意識するのかもしれません。いま私は27歳なので、あと3年くらいたったら、これからについて考えるのかもしれません。
でも、ディアナには子どもを育てながらレスラーを続ける先輩もいます。井上京子さんみたいに自分のお店をやりながらレスラーを続ける方もいます。私も調理師だった経験を活かして、お店もやりながらリングに立つのもいいかもしれません。結婚したから、出産したから……引退というわけじゃなくて、いまはいろんな選択肢がありますよね。
金網マッチの経験ですか?
それは、まだ。ビッグマッチでしかやりませんから。いつか……引退までに1回でいいから、金網マッチやってみたいです。
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山川 徹(やまかわ・とおる)
ノンフィクションライター
1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)、『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)などがある。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。最新刊に商業捕鯨再起への軌跡を辿った『鯨鯢の鰓にかく』(小学館)。Twitter:@toru52521
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(ノンフィクションライター 山川 徹)