朝ドラ「あんぱん」(NHK)では、嵩(北村匠海)が“のぶ”(今田美桜)と幼なじみという設定だが、モデルであるやなせたかし夫婦の実際の出会いは、終戦後に地元の新聞社で同僚となったことだった。やなせ氏の評伝を書いた青山誠さんは「慎重な性格のやなせ氏は、小松暢さんの周囲を驚かせるような行動力に惹かれたようだ」という――。

※本稿は青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。6月23日放送回以降のネタバレを含みます。
■徴兵され中国で終戦を迎えたやなせ、故郷の高知に帰還
昭和21年(1946)3月、やなせは輸送船に乗せられ日本に帰還した。佐世保に上陸し、そこから汽車と船を乗りついで高知の実家へと向かう。車窓から眺める街はどこも空襲で焼け野原、田畑も人手不足で荒廃している。変わり果てた祖国の景色に驚かされた。
変わらないのは故郷の山並みだけだった。
後免(ごめん)駅に着くと、伯母が迎えに来ていた。そこで弟の戦死を告げられる。千尋は京都帝国大学在学中に海軍予備学生となり、少尉に任官され駆逐艦に乗務していた。台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で敵潜水艦の攻撃をうけ、艦と運命をともにしたという。一説によれば特攻隊に志願し、人間魚雷で敵艦に体当たりしたともいわれている。

陸軍は野暮ったいけど、海軍は颯爽(さっそう)としてカッコ良い。それが当時の人々のイメージ。自分は野暮ったい陸軍で将校になれなかった落ちこぼれ、弟はカッコ良い海軍将校だ。また、弟は戦死して祀(まつ)られる英雄になり、自分は捕虜になって生き恥を晒しているのだから……もう、完敗だ。そう思うと、抑留生活で薄汚れた姿で伯母や親族たちの前に立っているのが、とても恥ずかしくなってきた。
■弟の戦死を悲しみながらも、生きるために「屑拾い」を
最愛の弟が戦死したのだ、悲しくないわけがない。が、それとは違う負の感情も渦巻いている。弟は絶対に負けたくないライバルだ。結局、一度も勝つことができなかった。悲しさと悔しさが錯綜する。
帰郷してまもなくすると、同郷の戦友から誘われて廃品回収の仕事をするようになる。紙類や金属など使えそうな屑(くず)を集めて、それを製品に仕立て直して売るのだが、これが意外と儲かった。

しかし、ゴミを漁っていると惨めな気分になって、自己嫌悪に陥ってしまう。もっと世間体の良い仕事に就きたいと、鬱屈した感情を抱えて廃品を漁りながら街を歩く日々。そんなある日、高知に進駐してきたアメリカ兵が捨てた雑誌を拾い、興味本位でページをめくってみる。英語はわからなくても、そこに描かれている漫画や挿絵を眺めるうちに内容がなんとなく理解できた。絵から笑いの要素を感じ取り、思わずクスッと笑ってしまう。
「漫画を描いて飯が食えたら、楽しいだろうなぁ」
そんな考えが頭を過(よぎ)った。
■漫画家の仕事にあこがれつつ、高知新聞社の記者募集に応募
やなせが帰国する2カ月前には、手塚治虫が『マアチャンの日記帳』を大阪の少(しょう)国民新聞で連載するようになり、漫画家デビューを飾っている。同年には『少年俱楽部』が誌名を『少年クラブ』に変えて復刊し、休刊していた他の雑誌も次々に復刊するようになった。戦時下で失業状態だった漫画家たちも仕事に復帰している。
軍隊と捕虜生活で5年間、無駄に過ごしてしまったことは痛手だった。これから何をやって生きるのか、やなせにはまだ具体的な目標が見えていない。彼の戦後は、スタートの時点から大きく出遅れていた。

屑拾いをするようになって3カ月が過ぎた頃、地元の高知新聞社が記者を募集しているのを聞きつけすぐに応募した。
戦前に製薬会社に就職した時と同様、志望動機はただなんとなく。屑拾いが嫌でたまらず、他の仕事がしたかっただけ。描くことの楽しさを再認識しているのだが、絵で飯を食っていく自信はない。世間体の良い仕事に就き、安定した賃金を得て生活の保障を得る。この頃は、それがいちばんの望みだった。
■帝大卒の応募者もいたが採用され、活気を取り戻した新聞社へ
それは大多数の者が考えることでもあるのだが、終戦直後の混乱した状況で、多くの企業は業務が麻痺したまま本格稼働していない。ホワイトカラーの職種は求人が少なく、高知新聞の社員募集にも応募が殺到した。試験会場は多くの応募者であふれている。やなせが受験に失敗した旧制高知高等学校や帝国大学の卒業者も多く見かけられた。みんな自分より賢そうに見えて、
「これは無理だな」
と、半ばあきらめていた。しかし、なぜだろうか採用された。

当時の高知新聞は、高知市と後免町を結ぶ路面電車の通り沿いにあった。高知新聞は戦時下も1ページのタブロイド版で細々と発行をつづけ、終戦を迎えるとすぐに「平和日本の建設と日本民主主義の確立に全力を捧(ささ)げんとする」と宣言。県民視点の新しい編集方針を打ち出し、内容を充実させて発行部数を回復させた。
事業の拡大にあわせて人員が増え、建物も増築された。やなせが入社した頃、戦前からあった本社社屋を取り囲むようにして、敷地内に急ごしらえの別棟がいくつも建ち並んでいたという。
■新創刊の雑誌『月刊高知』編集部で、小松暢と運命の出会い
入社時は社会部に配属されたが、すぐに新創刊の雑誌『月刊高知』(創刊時の名称は『月刊コウチ』)に異動となった。
『月刊高知』編集部は本社社屋内に置かれていた。大正時代に完成した県内初の鉄筋コンクリート造りで高知市を代表する名建築だったが、戦争末期の空襲で全焼している。この頃には、なんとか内部を復旧させて部屋不足の急場をしのいでいた。
編集部にあてがわれたのは、社屋3階のベニヤ板で仕切られた狭いスペース。そこに4つの机が並んでいた。編集部員はやなせを含めてたったの4人。
この人員で編集作業や取材はもちろん、記事を書いて挿絵を描き、広告の営業や集金、製本作業まで、本作りに関するすべてをやらねばならない。
目がまわるような忙しさだった。しかし、捕虜収容所で壁新聞を作っている時のような感じで、なんだか楽しく日々充実している。自分が描いた絵が多くの人の目に触れるということに、やり甲斐を感じていた。
ところで『月刊高知』とは、どんな雑誌だったのだろうか? 実物がオーテピア高知図書館に収蔵されていた。収蔵されているバックナンバーは昭和24年(1949)以降のもので、この頃にはもう、やなせは新聞社を退社して上京していたはずだが……。昭和24年1月号には、「今年の事件簿」という記事の中に「ヤナセ・タカシ作」とサインされた挿絵が見つかった。また7月号にも1ページ企画の「ヤナセタカシ漫画集」というのがある。
上京してからも、フリーランスとしてこの雑誌の仕事にかかわっていたようだ。編集部には先輩や同僚もいるから縁は切れていなかったのだろう。20代の頃のやなせが描いたカットは、我々がよく知るアンパンマンとはまた違ったタッチで描かれていた。若々しさがあふれているようでもある。
編集部に在籍していた頃も、こんな作風の挿絵や漫画を描いていたのだろうか。
■「快活な愛らしさに、ぼくは魅了されてしまった」
後に妻となる小松暢との出会いもこの編集部だった。彼女はほぼ同時期に入社した同僚。年齢はやなせのほうが1歳下だが、学年では同級生になる。彼女は実年齢よりずっと若々しく見え、女子社員のなかでも目立つビジュアルだった。
「美人だなぁ」
というのが、やなせの第一印象。思わず見惚れてしまった。中学校時代に通学列車の中で見初めた女学生にどこか似ている感じがある。
「テキパキとした行動と、快活な愛らしさに、ぼくは魅了されてしまった。」(『アンパンマンの遺書』より)
気がつけば、人生で2度目となる恋に落ちていた。仕事場で向かいの席に座る彼女をいつも意識してしまう。
■美人だが常人離れした行動力を持っていた、やなせの妻
暢は大阪で生まれ育ち、女学校卒業後は東京で働いた。好奇心にあふれ、ここ一番という時の行動力は常人離れしている。高知新聞社が女性記者を募集していることを知ると、
「私は新聞記者になる」
そう言って、終戦直後の最悪な交通事情も厭わずに、超満員の列車に揺られて高知を訪れて入社試験を受けた。彼女の父親が高知県安芸市出身だったというから、おそらく親類縁者か父の知人あたりから情報が伝わってきたのだろう。
入社試験には31人の女性が応募してきた。その中から彼女を含めた2名が採用され、高知県初の女性新聞記者になっている。新聞記者の仕事には昔から興味があった。それにくわえて、「高知県初」というのが、彼女を動かした大きな要因だったろうか。何事も先頭切って走りたい性分。子どもの頃からスポーツ万能で足が速く、女学校では陸上競技部の短距離選手だった。他校の生徒にも「韋駄天(いだてん)おのぶ」の異名で知られていたという。
目立ちたがり屋というところでは、やなせと似ている。しかし、勉強も運動もいまひとつの彼とは違って、暢はどちらも飛び抜けて優秀だった。目立つことができるだけの実力が備わっている。
強心臓なところもまた、やなせとは違う。彼女は自分が正しいと思えば絶対に引かない。他人の目などはいっさい気にせず、大胆な行動にでることがよくある。それが時々、周囲を驚かせた。
■小松暢は雷の音に「いいぞ、もっと鳴れ!」と叫んだ
たとえば、こんなエピソードがある。暢には雷や稲妻が大好きという変わった性癖があり、空が光るとワクワクしてきて心が躍る。ある嵐の日、雷の音が聞こえてくると急いで窓に駆け寄り、
「いいぞ、もっと鳴れ!」
と空に向かって叫ぶ。編集部の一同は呆気に取られ眺めていた。そんな彼女の自由奔放なところにも、やなせは惹かれていた。

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青山 誠(あおやま・まこと)

作家

大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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(作家 青山 誠)
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