江戸時代に活躍した絵師、喜多川歌麿とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「史実においてその名前が確認できるのは、蔦重が刊行した書籍である。
それ以前の出生地や生年などについてはわかっていないことが多い」という――。
■成人しても体を売り続ける歌麿
このところNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)と喜多川歌麿(染谷将太)の二人三脚ぶりが、微笑ましく描かれている。
「べらぼう」では、蔦重がかつて火事場から救いながら、その後、姿を消した謎の少年「唐丸」が、蔦重と再会後に歌麿になったという設定だ。夜鷹の母親に虐待され、幼くして体を売らされていたが、火事で母親を捨てて逃げた。そうした負い目から、成人しても体を売るなど自分を傷めずには生きていられない――。
第18回「歌麿よ、見徳は一炊夢」(5月11日放送)で、蔦重はそんな男を救い、歌麿という画号をあたえ、「俺ゃお前を当代一の絵師にしてえんだ。だから、俺のために生きてくれ」といった。以後は、蔦重と一緒に耕書堂を切り盛りしながら、蔦重の指示により、いろんな画風で絵を描いている。
第22回「小生、酒上不埒にて」(6月8日放送)でも、蔦重をおおいに助けた。筆を折ると言い出した恋川春町(岡山天音)の代わりに、朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)(尾美としのり)の新作の絵付けをするように蔦重からいわれた歌麿だったが、やはり春町自身が描くべきだと思い、喜三二と連れ立って春町のもとを訪れ、ふたたび戯作を書き絵も描くように説き伏せた。
■史実における蔦重との関係
第23回「我こそは江戸一利者なり」(6月15日放送)では、須原屋市兵衛(里見浩太朗)から、一流の本屋だと認められるためには日本橋に出店すべきだと勧められ、迷っている蔦重に、歌麿は声をかけた。「行きなよ、蔦重。
なにがどう転んだって、俺だけは隣にいっからさ」。
では、史実の歌麿も、ずっと蔦重の隣にいたのだろうか。
実は、歌麿については、わかっていることがとても少ない。出生地にしても江戸が有力だとはいえ、ほかに川越(埼玉県川越市)、あるいは京都や大坂、近江(滋賀県)など諸説ある。
生年も文化3年(1806)に数え54歳で没したという記録があるので、逆算して、宝暦3年(1753)が有力視されているが、たとえば、往年の美術評論家、瀬木慎一氏の『日本美術事件簿』では、宝暦5年(1755)から8年(1758)の間と推定しており、「べらぼう」では宝暦8年ごろに生まれたという設定にしているようだ。
世に出る前の経歴として間違いないのは、「べらぼう」で片岡鶴太郎が演じる鳥山石燕のもとに、幼少期に弟子入りしたことぐらいしかない。
石燕は狩野派の門人だが、その名が知られているのは、主として『画図百鬼夜行』などに描かれた妖怪の絵を通してのこと。しかし、そのもとでは歌麿のほかに、恋川春町や栄松斎長喜、歌川豊春らも学んでおり、そういう環境下で刺激を受け、絵を習得したものと思われる。
■なぜ歌麿に目を付けたのか
歌麿が描いたとわかっている最初の作品は、明和7年(1770)の絵入り歳旦帳『ちよのはる』の挿絵1点で、石燕から「石」の字をもらって「石要」と署名している。浮世絵師としてのデビューは安永4年(1775)、富本浄瑠璃正本『四十八手恋所訳』の下巻の表表紙とされ、「北川豊章」と名乗っている。
ただ、北川豊章は歌麿と別人物だとする説もあり、「べらぼう」では加藤虎ノ介演じる豊章が自分の名で歌麿に書かせていた、という設定になっていた。
「歌麿」の名が初めて見えるのは、天明元年(1781)に蔦重が刊行した志水燕十(しみず えんじゅう)の黄表紙『身貌大通神略縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』の挿絵。
「べらぼう」で描かれたように、蔦重が「歌麿」と名づけたのはどうかはわからないが、現存する史料を見るかぎり、蔦重がはじめて依頼したこの本から歌麿と名乗っている。
このころからは、「べらぼう」で描かれたほどかどうかはともかく、蔦重と歌麿の二人三脚が確認できる。
第21回「蝦夷桜上野屁音」(6月1日放送)では、天明2年(1782)秋に蔦重が、歌麿の名を広めるための宴会を開いた。岡山天音が演じる恋川春町が悪酔いしたあの宴会だが、実際、このころ上野の料亭で、歌麿という画号をお披露目するための宴席がもうけられた。太田南畝や朱楽菅江、恋川春町、朋誠堂喜三二といった狂歌師や戯作者等々、錚々たる文化人たちが呼ばれ、蔦重が仕切ったと考えられている。
当時、大物絵師はほかの地本問屋に押さえられていたので、事業拡大に邁進していた蔦重は、無名だが力がある歌麿に目をつけ、スター絵師に育てようとしたものと思われる。その点も、「べらぼう」での設定と変わらない。
■“意外な絵”で評判を高めた
天明3年(1783)の『燈籠番附 青楼夜のにしき』からは、いよいよ蔦重と同じ喜多川姓を名乗り、喜多川歌麿となる。
だが、まだ美人画で売れるには至らない。歌麿の力が知られるようになった最初のきっかけは狂歌ブームだった。蔦重は絵入りの狂歌本を次々に刊行したが、それに花鳥画を描いたのである。
天明6年(1786)以降、5年前後にわたって、蔦重が出した『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥狂歌合』などの狂歌本に、江戸やその近郊の風景のほか、小動物や昆虫、植物などを繊細かつリアルに描き、それらは現代人が見ても感嘆させられるほどの描写力で、まずは花鳥画の画家として評判を高めたのである。

ただ、『画本虫撰』と同じ天明8年(1788)の作品に、枕絵帖(要するに春画)の『歌まくら』があり、そこでは女性がなまめかしく、とても肉感的に描かれていて、歌麿のその後を予感させる。春画だから大っぴらに販売できなかったが、これも版元は蔦重だと考えられている。
そして寛政年間(1789~1801)に入ると、美人大首絵で一気に評判を勝ちとる。
■ほかの画家にはない才能
歌麿以前は、美人画とは全身を描くもので、上半身やバストアップを拡大した絵は役者絵にしかなかった。蔦重は、歌麿が小動物や植物をきわめてリアルに描くのを見て、この描写力は大判の錦絵にも活かせると判断したのだろう。しかも歌麿には、ほかの浮世絵画家にはない描写力があった。女性の色気を描けるのはもちろん、ある瞬間の表情を見事に切り取ったり、内面を描出したりする力があった。
浮世絵に関して蔦重は、「べらぼう」で描かれているように西村屋が宿敵ともいうべきライバルだった。そして、西村屋の美人画に対抗すべく、歌麿による美人大首絵を打ち出したのである。
大首絵は「ポッピンを吹く娘」にせよ「当時三美人」にせよ、当時としてはまったく新しい絵画で、しかも女性の表情や仕草までが見事に描かれ、歌麿の腕前はもちろん、蔦重のプロデュース能力にも脱帽せざるをえない。
寛政時代は松平定信の改革による出版統制で、蔦重はピンチに陥っていた。そのときにこうして、蔦重と歌麿は、まさに二人三脚で乗り切ったのである。

■あっけなさすぎる最期
しかし、大首絵が当たって3年くらいすると、歌麿は蔦重と距離を置き、数々の版元と仕事をするようになる。理由はわからないが、二人三脚はそこで途絶えてしまう。しかし、蔦重のもとから出した作品と、ほかから出した作品をくらべると、色気、表情、内面などの描写で、蔦重がプロデュースした作品が断然勝っているように見える。
やはり蔦重との二人三脚こそが、歌麿の生命線だったのではないだろうか。「べらぼう」の第23回で歌麿がいった「なにがどう転んだって、俺だけは隣にいっからさ」。これを守らなかったのは、歌麿にとってマイナスだった気がしてならない。
寛政9年(1797)に蔦重が没したのちのこと。上方でのブームを機に、江戸でも太閤秀吉の人気が高まっていたのを受け、歌麿は文化元年(1804)、秀吉の醍醐の花見が題材の錦絵『太閤五妻洛東遊観之図』を発表する。
ところが、幕府から手鎖50日の刑に処せられてしまう。表向きの理由は、徳川のお膝元で政敵たる秀吉を題材にした絵を描いたから、とのことだったが、実際は、これまでの美人画を幕府が、風紀を乱すものとして問題視していて、このタイミングで処分したということと思われる。
その2年後、失意のうちに亡くなった。このころの幕府の文化政策が狭量であったのが残念だが、やはり歌麿には、蔦重が必要だったということではないだろうか。


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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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